完結した夏
1998年 木戸隆行著
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2000年4月号 CM掲載作品
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2000年4月号 CM掲載作品
25(近)
「……みいちゃん」
頬に冷たいものが触れ、目が覚めた。水色のバスローブを着た陽子が、氷の入ったグラスを俺の頬に当てていた。
「はい」
陽子がそのグラスを差し出しながら、ベッドに横たわる俺の隣に腰かけた。石鹸のいい匂いがした。
「……何これ」
「ディタのソーダ割り」陽子が逆の手に持っていたもう一つのグラスを口に傾けた。俺は陽子の手からグラスを受け取った。バカラだった。
四角い窓が金色に発光していた。シーツは俺の身体の形に乱れていた。隣の部屋からテクノのベースが聞こえていた。
俺はディタを口にした。唇を潤すように、冷えた水滴が吸いついた。「……何時?」だが陽子は答えずに、グラスをサイドテーブルに置き、タバコを取り出してくわえた。俺は床に転がるくしゃくしゃのズボンに手を伸ばし、脚を通した。陽子の首がゆっくりと周囲を見回した。俺はスボンを腰まで上げ、ポケットからライターを取り出し、陽子の開いた手に乗せた。
髪を束ねた陽子の後頭部が傾き、その向こうに小さな炎が立った。
俺はシャツを羽織り、ディタを口にして、ボタンをだらしなく留めた。もう一度ディタを口にして立ち上がり、タバコをくわえて火を点けた。
「ちょっと出てくる」
陽子が眉を上げて答えた。
エレベーターを下りて山手通りに出た。気が狂ったようにセミがあちこちでわめいていた。俺の足が交互に軽快に歩いているのが面白かった。街路樹に見つけたセミの抜け殻にタバコの火を押しつけた。沸騰したサナギから乳白色の汁が流れ出すのをイメージした。
キャッシュディスペンサーにカードを飲み込ませ、三十万ほど引き出した。やはり赤い数字の書かれた紙が出てきた。やはり放っておいた。
引き出した福沢の紙切れをスボンの両ポケットに分けて突っ込んだ。サーカスの団長じみた様相になった。
向こうのビルの頭にデジタル時計が乗っていた。五時ちょっと前だった。日が落ちるのも早くなった……見上げると、金色の空には雲が多少あった。
俺はまたタバコに火を点け、エレベーターを上った。部屋に着き、靴を脱いでベッドルームに入ると、陽子がグラスを片手に、膝で写真集を開いていた。
俺はポケットから福沢を取り出し、化粧台の上に置いた。鏡には俺が映っていた。短い頭髪が寝癖で奇妙に歪んでいた。
「なにしてきたの?」陽子が見上げた。
俺はその額に口づけ、ベッドに横たわり、グラスを手にした。陽子が軽く微笑んで、写真集に目を戻した。俺はディタを口にした。氷が解けて薄かった。
陽子の指がページをめくった。手の甲には青い血管が透けて見え、手の腹は少し赤らんでいる。バスローブの襟が後ろに空き、美しい首筋が見えている。後れ毛がうなじでカールし、耳殻が少しだけ赤らんでいる。
「このあいだ、THREEどうだった?」
陽子の指がページをめくった。俺は陽子の腿に手を伸ばした。バスローブの裾をはだけさせ、風呂上がりのきめ細やかな肌の感触を楽しんだ。
「ああ」
陽子の指がページをめくった。俺はうつ伏せに寝転んだ。シーツのしわを手で伸ばし、鼻を押しつけて洗剤の匂いを嗅ぎ、パリッとした感触を頬で楽しんだ。
エアコンの涼しい風が俺の背中を通過した。隣の部屋からテクノの低い4ビートが延々と繰り返されていた。窓から広がる金光の部屋で、俺はベッドに横たわり、陽子は隣でページをめくっている、それが心地よかった。
陽子の指がページをめくった。「……みいちゃん」「ん?」ページに目を落とす陽子の横顔が向こうに傾いた。「夏って言ったら、なに?」陽子の唇がタバコを吸った。
俺は仰向けになった。「夏は、夏だろ」「そうじゃなくて」俺もタバコに火を点けた。「例えば……海とか、川とか、プールとか……ヒマワリとか、セミとか、絵日記とか……そういう意味で」
金色に染まった天井で、俺と陽子の煙が混じり合いながら漂っている。
「……冬の海、氷の張ったプール、温室栽培のヒマワリ。だから、夏は、夏以外では、ありえない」
「いじっぱりね!」陽子の膝からバサッと写真集が滑り落ちた。陽子が俺に覆い被さり、両手で俺の首を絞めた。「……ゲホッ」タバコが俺の口からシーツに落ちた。
電話が鳴った。
陽子は絞めていた両手を放し、俺の口に口づけると、ベッドを下りて出て行った。音の聞こえた方向から考えて、電話はキッチンにある。俺は落としたタバコを拾い上げた。白いシーツが黒く焦げ、小さな穴が開いていた。
俺はタバコをくわえてシーツを引き剥がし、持ち上げて窓にかざした。金色に染まったシーツの一点の穴から、まぶしい金光が目の奥に差し込んだ。美しい。
「誰?そんな人、知らない……知らないって言ってるでしょ!……それが?」
開かれたドアの向こうから掠れた陽子の声が聞こえてくる。
「……なんで……なんで今さらそんなこと言うの?」陽子の小さな手が見えて、部屋のドアが閉じられた。
俺はシーツを手放し、床に転がっている写真集を拾い上げた。鼻先に見えるタバコの火種が口に近かった。……ちょっと待ってよ……閉じられたドアの向こうから、陽子の声がまだかすかに聞こえる。
俺はパラパラとページをめくった。……そんなこと、あなたに関係ないことでしょう?……親指から色とりどりのページを次々に落下させた。「……これ」適当に止め、開いた。
青空を背景に、下から見上げる角度で写された狛犬の写真だった。
そうか……陽子はこれを見て……懐かしい……そう言えば、俺はあの四葉のクローバーをどうしただろう……確か……教科書に挟んで……押し入れの……ドアの開く音がした。
振り向くと、バスローブの袖から伸びる陽子の手が、じっとドアノブを握っていた。思い詰めた陽子の顔があった。
ドアノブから指が一本ずつ、滑り落ちるように離れた。陽子の足首がゆっくり目の前を横切った。バスローブの裾が膝に乗って柔らかく上下した。化粧台の椅子を引き、座り、バスローブ越しに尻が潰れ、陽子の身体が鏡に向かった。
俺はタバコを揉み消した。
バスローブの後ろ姿は動かなかった。鏡の中の思い詰めた目は動かなかった。俺は写真集に目を戻した。だが、気にかかってだめだった。俺は写真集を閉じた。
「どうした」……白々しい。
陽子の首がかすかにうつむき、留まった。差し込む金光を向こうに浴びて、その影は神々しかった。俺は写真集を傍らに置き、起き上がろうとした。「なあ、どう……」
クシャッ!俺の置いた福沢が握り潰された。
陽子の頭が深く沈んだ。陽子の嗚咽がかすかに聞こえた。紙切れを胸で握り締めながら、陽子の肩が上下に震えた。
これは、どう理解したらいい?……全く俺は、白々しい。
26(遠)
連日の罵声を経過して、恐くて家を出られなかった。家中の鍵をかけ、カーテンを閉め、夜ですら明かりを灯さなかった。窓に吹きつける風に脅え、膝を抱えて虫の音を聞いた。時々、電話が静寂を引き裂き、両手できつく耳を塞いだ。
今日で何日になるだろう……冷蔵庫を開けば絶望に囚われる。
「ママ……」
空腹と言うより、危機的な感覚だった。全身が痙攣し、脱力し、火照り、脂汗が噴き出していた。パンやアイスクリームは言うまでもなく、皮のままのジャガイモや、生肉さえも食べ尽くしていた。床に空のマヨネーズも転がっていた。
俺はカーテンの隙間から、そっと外を伺った。植木の陰にやつらの姿はなかった。だが他のところに隠れているのかもしれなかった。
俺はふらつく足で玄関のドアまで歩き、震える身体を手で支え、背伸びをし、覗き穴に片目を着けた。円形に歪んで見える玄関先に人影はなかった。
俺はカタカタ痙攣する手をドア伝いに滑り落とし、真鍮のノブにかけると、音を立てないようにそっと捻った。徐々に開いて行く隙間から外を伺った。目をくらませる明るい道に、やはり誰の姿も見えなかった。
俺はドアを出て鍵をかけると、静かに、だが素早く、道に飛び出した。これで大丈夫だ。そのはずだ。
金はなかった。だが、とにかく一番近いスーパーへ向かった。母とよく行く個人経営のこじんまりとしたスーパーが、一番近いスーパーだった。何にせよ、近いことが重要だった。鮮やかな路地の両側から聞こえてくるセミの鳴き声は、気のせいか粗雑で疎らだった。圧倒する感じがなかった。
店先から、店主である婦人のボッテリした後ろ姿が見えた。ガラス越しの婦人は、レジで何やら手を動かしていた。自動ドアが横に開くと、婦人は手を止めて振り返り、見下ろし、客が俺であることを認識して微笑んだ。
「おや、いらっしゃい。今日はお母さんと一緒じゃないのかい?」
俺は目を伏せてうなずいた。
とにかく急がなければならなかった。俺は小走りに菓子のコーナーへ行った。だがそこは婦人の死角ではなかった。俺はそこを通り抜け、アイスクリームのコーナーへ行ってみた。だがそこも死角ではなかった。
それから野菜のコーナーやパンのコーナーや、とにかく店中をぐるぐる回り、婦人の死角を探ってみた。だが、どこに行っても、例えば天井に斜めに取りつけられた鏡によって、婦人を見ることができた。つまり、婦人が俺を見ることができた。婦人はレジでなおも手を動かしていた。
俺の視界に、いよいよ黒い砂嵐が迫っていた。俺は菓子コーナーの前にしゃがみ込み、婦人がこちらを見ていないことを確認し、キャラメルや飴や、ポケットに入りそうな小さなものを手当り次第に詰め込んだ。そして婦人を確認した。レジに目を落としてはいるが、何となく不自然な感じだった。だが、黒い砂嵐は視界を全面的に覆い尽くそうとしていた。
俺はふらつきながらも、ごまかすためにもう一周だけ店内を廻り、顔を伏せてレジの前を抜けた。「また来てちょうだいねぇ」背中で婦人の優しい声がした。
店を出て、黒い砂嵐の中を離れの草むらまで走り、膝を突き、次から次へと慌ただしくキャラメルの包装を解き、口いっぱいに頬ばった。舌上に濃厚な甘味が広がった。あごの奥の筋肉が痛いぐらいに収縮した。それでも止めずに次々に頬ばり、歯に粘り着くキャラメルをがむしゃらに噛んで、噛んで、噛み尽くした。
やがて、震えは治まった。
見ると、足下の草むらに、菓子の包みが散乱していた。夏草は傾いた日を浴びて、その影を長く落としていた。草の根と根の間には、小さな昆虫が凸凹と走っていた。
俺はポケットに手を差し入れた。指先に二三の飴玉が当たった。手足の末端に寒気を感じた。俺は慌てて地面を掘った。土の匂いがむっと立ち込め、ミミズやダンゴ虫がうごめいた。ポケットの中身を穴に入れ、急いで土を被せた。すると、その真新しい盛り土の表面に、ボッテリとした婦人の顔が浮き上がり「また来てちょうだいねぇ」と優しく笑った。
コオロギが短く鳴いた。
俺は再び土を掘りだした。今度はもっと大きな穴を掘ることにした。そして自分を生き埋めることにした。指先が潰れそうなほど深く地面に指を差し込み、爪が剥がれそうなほど底を引っ掻きながら掘り返した。爪の奥に黒い土が食い込み、周囲のコオロギやスズムシが美しい声で応援した。だが、穴は一向に広がらなかった。
バッタが目の前を跳び去り、アリの隊列を土ごと投げ捨て、あごの先から汗が滴り、ついに俺は力尽き、ミミズのうごめく浅い穴に身を横たえた。
切れ切れの息が耳に近く、夕闇の空が正面に見えた。
青みを残した空に、明星が一粒……二粒……三粒。地面を伝い、コオロギの澄んだ声が身体に響いて来る。汗ばんだ皮膚に、ザラザラと土の感触がある。
いっそ、このまま息を引き取ってくれないか。
だが、呼吸は切れ切れでありながらも、力強く繰り返されている。火照った身体から、汗が止めどなく噴き出している。胸の辺りで、心臓が千切れそうなほど高鳴っている。右手に見える屋根の低い工場の窓から、明かりが煌々と放射されている。
「ママ……はやく、帰ってきてよ……」
俺は起き上がり、歩いた。頭上の外灯にうじゃうじゃと虫が群がっていた。建ち並ぶ家の明かりが道に落ちていた。夜空には、砂を撒き散らしたように無数の星が瞬いていた。だが、俺の家に光はなかった。
俺はシャワーで身体を洗い、布団に潜った。枕もとの障子が月明かりで柔らかく光っていた。格子の黒さと障子紙の青白さとの淡いコントラストが幽玄だった。虫の音が遠く澄んでいた。
「ママ……」
見ると、母の三面鏡があの時のまま開かれていた。俺は布団から這い出して、自分の顔を映してみた。正面の鏡、そして左右の鏡に俺が映った。三つの俺は障子越しの青い光を浴びて、どれも暗く沈んでいた。
俺は引き出しを開けてみた。青い光の中、化粧水やハンドクリームやヘアスプレーや、それらのビンや缶がぎっしり詰まっているのが見えた。
……口紅を大切にしない女は、だめな女なの……
俺はそこから口紅を取り出した。流線的にねじれた四角い筒に、金文字で『YVES SAINT LAURENT』と書かれてあった。キャップを外すと、深い色の口紅が、クレヨンのように切り立っていた。
……口紅を大切にしない女は、だめな女なの……
俺は鏡を見詰め、それを唇にそっと当て、深い色をゆっくり引いた。上唇の形に合わせ、慎重に引いた。右端まで引いて下唇に移り、唇を左右に引き伸ばしながら左に向けて引き終えた。そして鏡を見詰めた。目頭が熱くなった。
トラ刈りの頭に幼い顔、そして深い色の唇……だが、俺の目にはそれが、まさしく母の顔に見えた。歪んだ笑みを浮かべる、恍惚とした笑みを浮かべる、優しい笑みを浮かべる、母そのものに見えた。
俺は鏡を閉じた。さらさらとした熱い水が鼻から伝った。俺は布団に横たわった。電灯が天井で動かなかった。スズムシが夜空を控えめに彩るように鳴き、コオロギの声がそれに絡まり、追い越し、また絡まった。俺はタオルケットを頭まで被った。きつく目を閉じて羊を数えた。その時……
「ハハ」かすかに遠くで声がした……声は近づくにつれ……「いや、本当、とても子供を産んだような身体には見えない」酔いの艶を含んで行く……大人の男女だ……声は夜道に響き……カツカツ……二人の靴音……門を曲がった……「シーッ、目を覚ますじゃない、もう」……母だ。
ガチャッとドアの開く音がして、荷物を廊下に置いたのだろう、カタッと床の音がした。そして、ヒソヒソと話す声がした。「ねえ」「ん?」男の低い声が響き、口づける音がした。
二人は靴を脱ぎ……時々、笑いをこらえながら……廊下を歩き……リビングに入って行く……「ちょっと待ってて?」媚びるような母の声がして……「何これ……」「どうした?」「ん、んん、何でもない」キッチンに入った……「ねえ、ワインでいい?」「ああ」……リビングに戻った……
俺は目を開けた。障子を透過した月光が青白く俺の身体を照らしていた。階下で二人のかすかな笑い声が重なった。俺は布団を立ち、障子をそっと横に開いた。ガラスの向こう、澄み切った夜空に乾いた月がじっと動かなかった。美しかった。
「うふふ……」
だが、俺はすぐに布団に戻り、タオルケットを頭まで被らなければならなかった。
「だーめ……」
もうすぐ母の薄気味悪い泣き声……今ではそれが何の声か知っている……が聞こえるだろうから。
27(近)
陽子がパーカーつきの白いウィンドブレーカーを羽織った。後ろ髪を残して頭頂部に束ねられた陽子の髪の向こうで玄関のドアが開いた。開かれたドアの隙間から『カルネ』の最後の場面のように、覆面レスラーの顔が現れて、俺の鼻先に近づいたり離れたりした。どうやら俺は相当に酔っているらしい。
一昨日買ったカルバンクラインのサマーセーターの袖をたくし上げ、タバコを逆向きに吸い込んだ。非常に濃厚な煙が喉にしみた。陽子の人差し指がエレベーターのボタンを押した。
俺は陽子の後ろ髪を横にどけ、青白いうなじに吸いついた。皮膚の薄さを楽しんだ。「なぁに?」陽子の首が向こうに傾いた。「口、貸してくれ」エレベーターに乗り込みながら、深く舌を差し込んだ。温かく、濡れていて、柔らかく、ざらついていて、胸に込み上げるものがあって、味はしない。やはり舌で感じる最高の感触は、人間の舌だ。
俺は眼鏡が欲しかった。黒縁で、横長のやつ。何となく、今すぐ、俺はそれをかけるべきなんだ。マンションを出ると、陽子の冷えた手が、かすかに触れるだけのように俺の手を引いた。
くそったれ!何て愛おしいんだ!
この気持ちをどうしてやろう!この繋いでいる手を握り潰してやろうか!その束ねた髪を引き抜いてやろうか!それよりも、その頭に噛みついて、骨ごとかぶりついてやる!
俺は陽子を夜道に押し倒した。「ちょっと」笑ってやがる……俺はまず陽子の唇に噛みついて、次に首筋を舐め回す。それから両手で服を引き裂き、挿入する。挿入しながら、今度は頸動脈を噛み切って、噴き出す血流を飲み干す。鉄臭い熱い液体を、俺はむせ込みながら、飲み干す。通りかかったサラリーマンが、自分も飲もうと邪魔をする。四十代の、髭の濃い、小太りな男だ。だが俺はそいつの股間を蹴り上げて、二度と近寄れないようにする。誰にも邪魔はさせない。誰にもこの血を渡さない。俺のものだ。俺のものだ!
夜道に横たわる陽子がのしかかる俺の首に腕を廻し、優しく唇を重ねた。右手に走る山手通りを三台のセダンが速い速度で通過した。やはり俺は、相当に酔っているらしい。
俺は陽子を立ち上がらせ、その身体に着いた砂を払った。陽子は優しさと妖艶さをごちゃ混ぜにしたような目で俺を見詰めた。「もう、いいの?」
「ああ……仕方がないんだ」
陽子の後ろ髪が夜風にそよいだ。「いいんだよ……無理しなくても」
「いや……もう少し、こうしていたい」
「そう……」
これからどこへ行く?深夜、仕事を休んで。陽子が優しく手を引く。こんな悪酔いしている俺を、どこへ連れて行く?左の肺に刺すような痛みがある。痛みは苦痛の一部なのか?俺の顔が歪もうとする。もしこの痛みが一生続くのなら、俺は今すぐ死にたい。いや……もし、死というものが他の生命に食されることによって初めて正当化されるとしたら、この痛みが病原菌によるものだとしたら、俺はこの痛みに耐え、食い潰されるまで生き続けるべきなのか?
そうだとしたら……確かに俺は数え切れない命を食してきた……それに罪悪を感じて言っているわけではない……ただ……何のために、こんなことを繰り返さなければならないんだ……原子核融合、分子結合、そして分離……何のため?……分からない……そしてそれに抗う理由もない……
夜道に風が吹き抜けた。右手に走る山手通りをタクシーのテールランプが切れ切れに過ぎて行く。オレンジ色のライトに照らされた淡いガード下で、トランペットを吹く男がいる。頬を膨らませ、首に太い血管を何本も浮き上がらせ、歪んだ音を響かせている。
「ようちゃん」
陽子の頭が振り向いた。ウィンドブレーカーのフードが風で膨らんだ。
「例えば、ようちゃんが結婚するとする……場所は……そう、シチリア島だ……シチリア島の教会で、ようちゃんとその男は、黒い聖衣の神父に誓いを立てる……そして、ベンツの四駆に乗っかって、地中海を船で越え……エジプトまで行くんだ……」
陽子が歩きながら微笑んでいる。
「そして男はこう言う……アフリカの海岸線をぐるっと廻り、東に向けてひた走り、車が壊れて動かなくなったところ、そこで暮らそう……それが新婚旅行だ……」
横断歩道の赤を渡り、ビルの麓を歩いて行く。
「車は給油を繰り返しながら南アフリカを越え……ソマリア……エジプト……サウジ……イラン……インド……そして……シンガポール……そこでベンツは事切れる……ようちゃんの指に二十カラットのダイヤがきらめき……髭の伸び切った男の頬に口づけて……二人はそこに小さな居を構えるんだ……それは素晴らしい家だ……」
「みいちゃん……」陽子が振り返りざま、俺の胸に抱きついた。「前の彼のこと……どうして聞かないの……」
聞くわけがない。
「それよりも、行こう」耳の側でモーツァルトのレクイエムが流れているうちに。「あの透明感……ソプラノ、テノール、アルト、バス……人間の声の素晴らしさ……」
実際それらは絡み合っていた。これほどの感動があるだろうか?例えば白壁に映し出された人間の五本の指の影が微妙に曲げられたり伸ばされたりする……その指先が描く微妙なカーブに見入ったりする……そして影を描く本体である指を眺める……光にかざせば赤く透き通る指だ……爪の輪郭を微妙に濃くして……人間よ、瞬間的な象徴段階を越え、うねりをあげる美に到達せよ!……美、だと?
それは斜め後ろから見る陽子のあごのつけ根のカーブにも存在する。黒髪の一本一本が風にそよぐ様子もそうだ。タバコをポケットから取り出して、浴びせる炎の揺らめきですらそうだ。この世は美に富んでいると言わざるをえない。そして同時に、それだからこそ同時に、この世は醜さにも富んでいる。
つまりはそういうことだ。全ては調和されている。喜びのないものには悲しみがない。喜びのあるものには悲しみがある。どちらがいいと言っているのではない。意味には無意味が必要なのだ。……意味?
ブルームフィールドは言った……何にせよ見かけは重要ではない物事が、より重要な物事と密接な関係にあると分かった時、我々は前者が結局『意味』を持っていると言う……つまり欲、つまり生、つまり無意味……
だが、俺たちは無意味を乗り越えた世代のはずだ。意味とは自ら積極的に仮定するもの……そう『仮定』だ……それが不安なら、神や社会規範と報じられているものにでもすがるがいい……誰に言っている?俺自身にか?
「ここでいい?」陽子がとあるビルの地下に続く階段を指差した。「ああ」
陽子と指を絡ませ合い、薄暗い階段を下りて行く。酔っているとは言え、今日の俺の頭はしゃべり過ぎるようだ。フロイト的に言えば、抑圧による置き換えでも生じているのだろうか。
抑圧?……抑圧されないものなど、存在するのか?
28(遠)
ぼんやりと目が覚めた。障子が純白に光っていた。金属的なセミの鳴き声が脳内の壁で乱反射していた。俺の身体でタオルケットがしわくちゃになっていた。
俺は布団から起き上がり、寝ぼけ眼のまま階段を下りた。排尿をしたかった。玄関のドアの横にあるすりガラスが、外の明るさをぼんやりと教えていた。セミはやはり鳴いていた。階下に下り、トイレに向かってぼんやり廊下を歩き、角を曲がった。その瞬間、俺の両目ははっきり覚めた。
……グレーのブリーフに尻と陰茎の形をくっきり浮き立たせ、見知らぬ男がすぐ目前に立っていた……
「おう、ボク」
筋肉の塊のようなたくましい男が、シェービングクリームを口の周りに付着させて見下ろした。
「おはよう」
筋肉の筋一本一本まで分かる、筋肉質で毛むくじゃらの脚。下腹部から胸板にかけてモジャモジャと密集している黒い体毛。ゴツゴツとした手に握られているT字の剃刀。
「おはよう」男の低い声に、俺は答えることができなかった。「何だ?挨拶もできないのか?ボク、おはようございますは?」俺は目を伏せた。
「おはよう、ござい、ます……」恐怖で首が引きつった。
「女みたいな声出しやがって」男は洗面台の鏡に向かい、剃刀を頬に当てた。かすかにジョリッと聞こえた音に、俺の身体はビクリとした。
「一人で何をしゃべって……」母のエプロン姿が見えた。初めて見る姿だった。「水面……起きたの……」ジョリッと音がした。
「……なあ、自分のガキぐらい、ちゃんと仕付けとけよ……挨拶はしないわ、女みたいな声出すわ……」ジョリッ。「……見ろよ……ウジウジしやがって……ろくな男に……」
「うるさいよ!」
母が叫んだ。
「……そんなこと、あんたに言われる筋合い、ないんだよ!」母が腰に俺を抱き締めた。「この子のことひどく言うなら、今すぐ出てってもらうよ!」
ジョリッ。「何興奮してんだよ……」男の目が母の顔色を伺った。「はいはい、分かりましたよ」ジョリッ。「もう言いまーせーんー」ジョリッ。
「……水面、ひどいことされなかった?ぶたれたりしなかった?」俺は首を横に振った。「おいおい、それじゃまるで、俺が幼児虐待愛好者みたいじゃないか」男が洗面台に身を乗り出して、顔を水に浸した。「本当に何もされなかった?」俺はうなずいた。
「……だいたい、何なんだよ」男の顔がタオルに隠れた。「自分のガキに口紅なんか塗らせて……」俺はハッと思い出した。だが、見上げると、母の目は、すでに俺の口もとを捉えていた。「どうかしてるよ……」俺は母から顔を背けた。
「……ママの口紅、使ったのね?」俺はじっと口をつぐんだ。「……ママの口紅、使ったのね?」母の手が俺の両肩をつかんだ。男の顔がタオルから現れた。「……ママの口紅、使ったのね!」
パーン!……母が俺の頬を張った。
「おい……」男の顔が強張った。「ママが口紅を大切にしてるって、知ってるわよね?」頬を張った。「どうしてあんたは……」頬を張った。「いつもいつも!」母の振りかぶった手を男の手がつかんだ。「やり過ぎだ!」
口内に血の味がし、鼻から水のようなものが伝った。目の前の母の目が、興奮によって潤んでいた。
「やり過ぎだぞ!」母の腕をつかむ男の腕がたくましかった。だが、俺はその腕にしがみついた。「やめてください……」「……何だ?俺はお前をかばってやってんだぞ?」俺はなおもその腕を引き離そうとしがみついた。「やめてください……」男のたくましい手が母の細い腕を投げ捨てた。「何なんだ、お前ら」男は背を向けて立ち去った。
向こうでバタンとドアの音がした。母は立ち尽くしていた。
「ママ……」俺は鼻をすすった。鼻の奥から喉を通り、どろどろした鉄臭い液体が胃の底に落ちて行った。「ママ……」
「ママ、ママ、うるさいんだよ!」母の両目がカッと見開いた。「たまには自分のことを自分でやったらどうなんだい!」俺の肩をすり抜けて、男の後を追って行った。洗面台の蛇口の横に、男のT字の剃刀が残っていた。
俺はドアを開け、鼻をすすり、便器に放尿した。「お前が出て行けって言ったんだろうが!」向こうで声がした。陰茎を上下に振り、パジャマのスボンを上げた。洗面台に背伸びして、蛇口を捻って手を打たせた。「お願いだから!」向こうで声がした。正面にある大きな四角い鏡の下の方に、辛うじて俺の顔が映った。トラ刈りの頭に、口紅と鼻血の赤が鮮やかだった。
俺は石鹸を泡立てて顔を擦り、水に流してまた顔を上げた。口紅は落ちていた。だが、鼻血はなおもわずかに垂れていた。俺は鼻をすすり、あごを上げて鼻をつまんだ。漏れ出た赤い血が、ゆっくり肌を滑り降り、残った水滴ににじみながら、あごの先まで伝って行った。「この売女!」向こうで声がした。
俺は鼻をつまんだまま部屋に戻った。廊下にセミの声と母の喘ぎが交錯していた。鼻にティッシュを丸めて詰め込み、着替えて階段を下り、玄関に腰かけた。スニーカーに足を突っ込み、マジックテープを引き上げて留めると、目の前で玄関のドアが開いた。
玄関先には陽子が立っていた。
「みいちゃ」あぁ!背中で母の声がした。「……あ……そ……ぼ……」陽子の姿の向こうで、空はほとんど曇りかけていた。んん!背中で母の声がした。
「行こ……」俺は陽子の手を取って家を出た。
「……みいちゃんのお母さん、どうしたの?」側溝の蓋の溝から伸びた夏草が、どれも白くしおれている。「具合でも、悪いの?……だいじょうぶなの?」「だいじょうぶだよ……」俺は一刻も早くあの声から陽子を引き離そうと、走るように早く手を引いた。「じゃあなんで泣いてるの?」「泣いてるんじゃないよ……」陽子の背中が走って俺を追い越し、振り返った。「じゃあ、なんなの?」
俺は足を止めた。「なんでも、ないよ……」セミの声が高く聞こえた。
陽子がじっと俺の目を覗き込んだ。「うそ……ほんとはなんなの?」俺は目を伏せた。「ほんとうに、なんでもないよ……」俺はまた歩きだした。「ねえ、教えてよ!ねえ!みーいーちゃーん!」俺は陽子に振り返リ、叫んだ。
「なんでもないったら!」ヤセッポッチの陽子の頭上で、空は完全に雲に覆われていた。
しばらくして、陽子と俺は裏山にある神社の階段を上っていた。階段の左右には雑然とした松林が広がっていて、その幹の隙間から、さらに向こうの田園風景が見えた。足下の石段は青緑色の苔や細長い松の枯葉に覆われ、所々、欠落している。
「……ようちゃん、宿題、おわった?」「まだだよ……いっちばんのりー!」陽子の後ろ姿が階段を駆け上がって行った。「僕だよー!」
陽子の後を追って階段を上り切ると、そこには周囲を松林に囲まれた円形の広場があって、中心に、古びた社が建っていた。社に続く石畳の入り口では二匹の勇猛な狛犬が両脇から見張っていて、周囲の松林から発せられるセミの合唱は社を包み込むように高らかに反響していた。
「……」陽子が社に走って行った。「みいちゃんもはやくー!」
社の木の階段をギシギシきしませながら上ると、本殿の扉は閉じられていた。背伸びして扉の格子窓から中を覗くと、薄暗い本殿に何かの木像が見えた。
背中でカランと鐘の音がして振り向くと、陽子が賽銭箱の前で手を合わせていた。俺も急いで陽子の隣に立ち、手を合わせた。だが、願い事は思いつかなかった。陽子が目を開けた。
「ようちゃん、なにおねがいしたの?」「ひーみーつー」陽子が階段を駆け下りた。「おねがいごと教えちゃったら、かなわないんだよ!」社の裏に消えて行った。
俺は階段を下りてしゃがみ込み、石畳を掘り起こそうと引っ張った。目の前をセミが低く横切った。セミはそのまま地面に叩きつけられ、転がり、仰向けになりながらも羽ばたき続けた。ジーという鳴き声が、ゼンマイ仕掛けのおもちゃのネジが切れて行くのをイメージさせた。見ると、他にも二三の死骸が干からびていた。
「みいちゃーん!」陽子が狛犬の背に乗っていた。「ちょっときてー!」狛犬の下まで行くと、陽子が「いいーでしょー」とニッと笑った。「僕もー!」と俺も狛犬によじ上った。
台座から落ちないように、陽子と俺は狛犬を挟んで両手を繋ぎ、空を見上げた。高らかなセミの合唱の中、松の針葉に円く囲まれた空は薄暗く曇っていた。
「みいちゃん」狛犬の顔が頬にザラザラした。「さっきね……もう転校しませんようにって、お願いしたの」円い曇天にカラスが翼を広げて横切った。「だって、みいちゃんとずっと遊んでたいもん」狛犬の頭に隠れて、陽子の顔は見えない。
「僕だって……」ポツッ……額に雨が当たった。そしてすぐ、腕や頬にもポツポツと当たった。「雨……」
見上げると、円い空で濃い雲と薄い雲がせめぎ合っていた。濃い雲が煙のように巻き上がり、散り、うねりを上げてまた寄り集まる。そこから疎らに雨脚がポツポツと現れ、当たり、狛犬の肌をまだらに染めて行く。
「ねえ、みいちゃん」陽子が狛犬の横から顔を出した。「……ちゅう、したことある?」陽子のポニーテールが左右に揺れた。
ちゅう……
その言葉は、俺と陽子の顔の中間位置に、ある生々しい映像を呼び起こした。「ねえ、したことある?」……動物的な目……俺は首を横に振った。「……して、みようか?」陽子が身を乗り出した。「ねえ、してみようか?」……求めるような目……「どうしたの?怖いの?」……哀れむような目……俺は首を横に振った……「じゃあ目をつぶって」……バターのように溶けて行く表情……俺は目を閉じた……「はい」……
ガチッ!
目を閉じていて距離が分からなかったのだろう、前歯と前歯がぶつかった。同時に、映像は完全に消え失せた。
一転して、俺の中に何か、明るいものが込み上げて来た。目を開こうとすると、陽子が叫んだ。
「ちょっとまって!もう1回……はい……」
今度は柔らかいものが徐々に押し潰れる感じで触れた。触れ合って、十秒くらい、触れ続けた。
柔らかいものが離れて行き、目を開けると、狛犬の肩の横に不安気な陽子の顔が見えた。「……どうだった?」「うん……」雨が次々に二人の身体に落ちた。「……レモンの味なんて、しなかったよね?」「うん……」
陽子の顔がニッと笑った。「たいしたこと、なかったね!」陽子が狛犬を飛び下りた。「うん!」雨は確実に激しさを増していた。「帰ろ!」陽子が下から手を伸ばした。
「うん……」手につかまり、俺も飛び下りた。
二人で下りる松林の階段に、セミの声と雨音は判別なく響いていた。欠落した石段を構わず駆け下りながら、右手の木々の隙間に靄のかかった水田を見た。陽子のヤセッポッチの肩が上下に揺れ、赤い鳥居をくぐる時、陽子は振り返って小指を突き出した。
「今日のことはぜったい、だれにも言っちゃだめだからね?いい?約束だよ?」
俺も小指を突き出して、二本の小指が絡まった。
29(近)
チェックインを済ませ、ホテルのベッドに荷物を投げた。陽子はそのまま窓に進み、カーテンを両手で開いた。カーテンレールがシャーッと音を立てた。俺はソファーでタバコに火を点けた。
「きれい……」鳥のように両手を広げる陽子の影の向こうに金色の水平線が見えた。俺はすぐに目を逸らした。目の前のテーブルにあるガラスの灰皿で金光が乱反射していた。
「ねえ見て」だが、俺は壁にかけられたルノワールのパリジェンヌが、金光の中で色彩をうねらせているのを見ていた。「ねえ、みい……」「俺は、いい」ソファーを立ち、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「……さっきから、なに怒ってるの?」俺は浴室のドアを開けた。
広い……二十平米はあるだろうか。浴室というより、浴場に近い。白いタイル貼りの床や壁や天井は神々しく、隈なくライトの柔光に満たされている。奥にはゆったり身体を伸ばせる大きな大理石の浴槽があり、右手の壁には大きな鏡とレトロな感じの金の蛇口、シャワーがある。部屋によっては窓がついていて海が眺められそうだが、幸い、ここの浴室には窓がない。
「ねえ!」陽子の掠れ声が浴室に反響した。「なんとか言ったらどう!」「……何を?」俺はビールを傾けた。「いい風呂だ」ビールを置いた。浴槽に湯が張られているのが見えた。
湯に浸かりながらビールを飲もうと、俺はシャツのボタンを一つ一つ外し始めた。すぐに陽子の手が伸びてきて俺の手を止めさせた。
「お願い……なにを怒ってるのか教えてよ……せっかくこんな素敵なところにきたのに……みいちゃんがそんなんじゃ……」哀願するような陽子の目が見えた。
「何も怒ってない」俺は陽子の手をそっと外し、ボタンを全て外してシャツを脱いだ。ベルトのバックルを解除して、ズボンと下着を脱ぎ下ろした。「じゃあなんでお風呂に入ろうとしてるの?なんで一人で入ろうとしてるの?」俺は置いた缶ビールを手に取った。
「……何が問題なんだ?俺が風呂に入ろうとしてることか?それとも一人で入ろうとしてることか?」ビールを口にしてシャワーを捻った。
「そうじゃない……」シャワーの音に陽子の涙声が混じった。「……なんでわからないの……なんのために海辺のホテルにきたの……二人で一緒に……」
「俺は海が嫌いだと言ったはずだ」身体を軽く流し終わり、シャワーを止めた。「海には一緒に行けない」そして立ち上がった。ビールを持って浴槽に歩いた。
「……わかった。私、一人で行ってくる」「ああ」浴槽に身体を沈めると、あふれた湯が大理石の表面を流れ落ちた。「……なんなの!そんなに海が嫌いなら、最初からこんなところにこなければよかったでしょ!」ドアの閉じられる音が荒々しく響いた。
俺は目を閉じ、ほどよく熱い湯を全身に感じながらビールを口にした……ああ……こうして身体を伸ばし、温かな流動と同化する感覚……むせ込むような湯気は俺を内側から満たし……身体の重さも、緊張も、全てが溶け出して行く……湯を掻けば、浴室に反響する水の音……排水口に流れ落ちる音……まぶたの裏の赤……目を開けば腕の表面から引いて行く湯の膜……鏡に映る、タイルの艶やかな表面……タイル……タイル……タイル……
「くそっ……」俺はビールの缶を放り投げた。缶は黄色い液体をまき散らしながらゆっくりと宙を回転し、壁に跳ね返り、落下した。落下した缶はコロコロと音を響かせながら斜めにドアへと転がり、当たって止まった。止まった缶の口から黄色い液体がトクトクと音を立てて白いタイルに広がった。
「くそっ……」俺の声が低く反響した。
浴槽を出てバスローブを羽織り、海の夜景をいまいましくカーテンで塞ぎ、缶ビールをまた取り出した。バスタオルで頭を掻きながらソファーに深く腰かけて、タバコをくわえて火を点けた。壁のまだら模様がかすかに渦を巻いてうごめいたような気がした。見ると、閉じられた部屋のドアが、閉じられたカーテンのヒダが、その輪郭を主張し始めた。
「こんなところに閉じ込めやがって……」それは陽子に向けた言葉ではなかった。
俺は静寂が聞こえてくる前に部屋を出て、エレベーターで一階に下り、ロビーを抜け、ホテルのバーのドアを開いた。
黒を基調とした薄暗い店内は海側の壁が全面ガラス張りになっていて、それに向かってテーブルが四つ並べられている。テーブルでは一組の老夫婦と二組の中年夫婦がくつろいだ雰囲気で話をし、それぞれの手もとに落ちたピンスポットの青い光が清涼感を醸し出している。俺はボーイの目配せから席を選び、海を背にしてカウンターに座った。
「ターキー、ロックで」ボーイはカウンター内でグラスを拭きながら、それがないことを目で詫びた。「バーボンなら何でもいい」俺はタバコに火を点けた。よく聞こえなかったが、ボーイは「かしこまりました」と言ったようだった。
ピアソラの旋律に紛れて聞こえる背中の夫婦たちの控えめな会話は、俺の陰口に聞こえないでもなかった。それは丁重に差し出されたバーボンのグラスの表面を上って行くタバコの煙を見たからには仕方のないことかもしれなかった。グラスを傾けて濃厚なアルコールを味わえば、脳天に一本の針が突き刺さるような感覚がし、その感覚がまたグラスを傾けさせた。
いや、実際は……カウンターで座る俺自身という意識の存在が示すように……なぜグラスを傾けるのか、それは恐らく、ほとんど強迫観念だった。
静寂で水が滴るように、ピアノの旋律が途切れ途切れに聞こえてくる。カウンターのボーイはいつまでも手の中の布でグラスを回し、向こうに座る体格のいい男は、さらに向こうの女の視線を浴びている。再びグラスを傾けると、カランと透き通った音を立て、氷がグラス内を転がった。酒とタバコと自慰……不意に、全てはその三つに集約されるという思いに囚われた。
だとしたら……目の前に落ちている青い光の円……何なんだ……負のカオス、そうとしか言いようがない……新しいバーボンがその円の中に差し出される……グラスの中の琥珀色の水の中で、蜃気楼のように解けて行くアイスボール……女がしっとりと歩いて来る……割といい女だ……
「ご一緒しません?」「しない」
去って行く女の背が美しい……だが、今は何もいらない……何もないことが必要だ……絶望感?いや……そんなことは問題じゃない……とにかく、もう寝るのがいい……今日は考え過ぎる……
カウンターに金を置き、バーを出て、ロビーにある革張りのソファーの上を歩いて通過し、エレベーターで四階に上った。部屋までの通路には、毛足の長い絨毯が敷いてあり、腹這いで行くにはちょうどよかった。404のルームナンバーは存在せず、実質的に405がそれだった。406、つまり実質的に405の俺の部屋のドアが淡いクリーム色に照らされていて、立ち上がって金のドアノブを引くと、陽子がソファーに座っていた。
陽子は俺を見るなり立ち上がり、駆けてきて、抱きついた。
何のことだ?……あごの下にある陽子の頭から、潮の匂いがする。日だまりに干された布団が太陽の匂いを吸い取るように、陽子の髪も潮の匂いを吸い取ったのだ。陽子が両腕で俺の身体をきつく抱き締めた。
「ごめんね……私……気づかなかったの……みいちゃんが海嫌いなの、あたりまえなのに……それなのに……海辺のホテルに行きたいだなんて……一緒に海に行こうだなんて……無理やり……私……ごめんね……ごめんね……ごめんね……」
30(現)
新幹線のシートを背中で倒した。右手の窓に時速二百キロの水田があり、左に座る男の胃袋は腐っていた。
みんな狂っている……つまり俺だけが狂っていた。
ミニパトの婦警は血眼で日本中のタイヤにチョークして廻り、杖を突いた老人は日だまりの遊歩道でヒステリックに叫んでいた。集団化した子供は狂喜して声を張り上げ、特殊と一般を混同する者が絶えることはなかった。
関係よりもそれ自体を愛すこと……そこに答えである問題がある。
世界を二つにしか分けられない者が時として輝きを放つように、車内販売の女の尻をすり抜けて時速二百キロのトイレに駆け込みたい。山間地帯の田園に巨大な夕日が溶け込むように、切り刻んだ腕の裂け目から鮮血に染まった肉わたが飛び出すように、隣の腐敗臭の口内に汚れ切ったボロ雑巾を時速二百キロ以上で突っ込みたい。
そして……今、俺のバッグには、慣性の法則に従うナイフがある。
「……みいちゃん」
頬に冷たいものが触れ、目が覚めた。水色のバスローブを着た陽子が、氷の入ったグラスを俺の頬に当てていた。
「はい」
陽子がそのグラスを差し出しながら、ベッドに横たわる俺の隣に腰かけた。石鹸のいい匂いがした。
「……何これ」
「ディタのソーダ割り」陽子が逆の手に持っていたもう一つのグラスを口に傾けた。俺は陽子の手からグラスを受け取った。バカラだった。
四角い窓が金色に発光していた。シーツは俺の身体の形に乱れていた。隣の部屋からテクノのベースが聞こえていた。
俺はディタを口にした。唇を潤すように、冷えた水滴が吸いついた。「……何時?」だが陽子は答えずに、グラスをサイドテーブルに置き、タバコを取り出してくわえた。俺は床に転がるくしゃくしゃのズボンに手を伸ばし、脚を通した。陽子の首がゆっくりと周囲を見回した。俺はスボンを腰まで上げ、ポケットからライターを取り出し、陽子の開いた手に乗せた。
髪を束ねた陽子の後頭部が傾き、その向こうに小さな炎が立った。
俺はシャツを羽織り、ディタを口にして、ボタンをだらしなく留めた。もう一度ディタを口にして立ち上がり、タバコをくわえて火を点けた。
「ちょっと出てくる」
陽子が眉を上げて答えた。
エレベーターを下りて山手通りに出た。気が狂ったようにセミがあちこちでわめいていた。俺の足が交互に軽快に歩いているのが面白かった。街路樹に見つけたセミの抜け殻にタバコの火を押しつけた。沸騰したサナギから乳白色の汁が流れ出すのをイメージした。
キャッシュディスペンサーにカードを飲み込ませ、三十万ほど引き出した。やはり赤い数字の書かれた紙が出てきた。やはり放っておいた。
引き出した福沢の紙切れをスボンの両ポケットに分けて突っ込んだ。サーカスの団長じみた様相になった。
向こうのビルの頭にデジタル時計が乗っていた。五時ちょっと前だった。日が落ちるのも早くなった……見上げると、金色の空には雲が多少あった。
俺はまたタバコに火を点け、エレベーターを上った。部屋に着き、靴を脱いでベッドルームに入ると、陽子がグラスを片手に、膝で写真集を開いていた。
俺はポケットから福沢を取り出し、化粧台の上に置いた。鏡には俺が映っていた。短い頭髪が寝癖で奇妙に歪んでいた。
「なにしてきたの?」陽子が見上げた。
俺はその額に口づけ、ベッドに横たわり、グラスを手にした。陽子が軽く微笑んで、写真集に目を戻した。俺はディタを口にした。氷が解けて薄かった。
陽子の指がページをめくった。手の甲には青い血管が透けて見え、手の腹は少し赤らんでいる。バスローブの襟が後ろに空き、美しい首筋が見えている。後れ毛がうなじでカールし、耳殻が少しだけ赤らんでいる。
「このあいだ、THREEどうだった?」
陽子の指がページをめくった。俺は陽子の腿に手を伸ばした。バスローブの裾をはだけさせ、風呂上がりのきめ細やかな肌の感触を楽しんだ。
「ああ」
陽子の指がページをめくった。俺はうつ伏せに寝転んだ。シーツのしわを手で伸ばし、鼻を押しつけて洗剤の匂いを嗅ぎ、パリッとした感触を頬で楽しんだ。
エアコンの涼しい風が俺の背中を通過した。隣の部屋からテクノの低い4ビートが延々と繰り返されていた。窓から広がる金光の部屋で、俺はベッドに横たわり、陽子は隣でページをめくっている、それが心地よかった。
陽子の指がページをめくった。「……みいちゃん」「ん?」ページに目を落とす陽子の横顔が向こうに傾いた。「夏って言ったら、なに?」陽子の唇がタバコを吸った。
俺は仰向けになった。「夏は、夏だろ」「そうじゃなくて」俺もタバコに火を点けた。「例えば……海とか、川とか、プールとか……ヒマワリとか、セミとか、絵日記とか……そういう意味で」
金色に染まった天井で、俺と陽子の煙が混じり合いながら漂っている。
「……冬の海、氷の張ったプール、温室栽培のヒマワリ。だから、夏は、夏以外では、ありえない」
「いじっぱりね!」陽子の膝からバサッと写真集が滑り落ちた。陽子が俺に覆い被さり、両手で俺の首を絞めた。「……ゲホッ」タバコが俺の口からシーツに落ちた。
電話が鳴った。
陽子は絞めていた両手を放し、俺の口に口づけると、ベッドを下りて出て行った。音の聞こえた方向から考えて、電話はキッチンにある。俺は落としたタバコを拾い上げた。白いシーツが黒く焦げ、小さな穴が開いていた。
俺はタバコをくわえてシーツを引き剥がし、持ち上げて窓にかざした。金色に染まったシーツの一点の穴から、まぶしい金光が目の奥に差し込んだ。美しい。
「誰?そんな人、知らない……知らないって言ってるでしょ!……それが?」
開かれたドアの向こうから掠れた陽子の声が聞こえてくる。
「……なんで……なんで今さらそんなこと言うの?」陽子の小さな手が見えて、部屋のドアが閉じられた。
俺はシーツを手放し、床に転がっている写真集を拾い上げた。鼻先に見えるタバコの火種が口に近かった。……ちょっと待ってよ……閉じられたドアの向こうから、陽子の声がまだかすかに聞こえる。
俺はパラパラとページをめくった。……そんなこと、あなたに関係ないことでしょう?……親指から色とりどりのページを次々に落下させた。「……これ」適当に止め、開いた。
青空を背景に、下から見上げる角度で写された狛犬の写真だった。
そうか……陽子はこれを見て……懐かしい……そう言えば、俺はあの四葉のクローバーをどうしただろう……確か……教科書に挟んで……押し入れの……ドアの開く音がした。
振り向くと、バスローブの袖から伸びる陽子の手が、じっとドアノブを握っていた。思い詰めた陽子の顔があった。
ドアノブから指が一本ずつ、滑り落ちるように離れた。陽子の足首がゆっくり目の前を横切った。バスローブの裾が膝に乗って柔らかく上下した。化粧台の椅子を引き、座り、バスローブ越しに尻が潰れ、陽子の身体が鏡に向かった。
俺はタバコを揉み消した。
バスローブの後ろ姿は動かなかった。鏡の中の思い詰めた目は動かなかった。俺は写真集に目を戻した。だが、気にかかってだめだった。俺は写真集を閉じた。
「どうした」……白々しい。
陽子の首がかすかにうつむき、留まった。差し込む金光を向こうに浴びて、その影は神々しかった。俺は写真集を傍らに置き、起き上がろうとした。「なあ、どう……」
クシャッ!俺の置いた福沢が握り潰された。
陽子の頭が深く沈んだ。陽子の嗚咽がかすかに聞こえた。紙切れを胸で握り締めながら、陽子の肩が上下に震えた。
これは、どう理解したらいい?……全く俺は、白々しい。
26(遠)
連日の罵声を経過して、恐くて家を出られなかった。家中の鍵をかけ、カーテンを閉め、夜ですら明かりを灯さなかった。窓に吹きつける風に脅え、膝を抱えて虫の音を聞いた。時々、電話が静寂を引き裂き、両手できつく耳を塞いだ。
今日で何日になるだろう……冷蔵庫を開けば絶望に囚われる。
「ママ……」
空腹と言うより、危機的な感覚だった。全身が痙攣し、脱力し、火照り、脂汗が噴き出していた。パンやアイスクリームは言うまでもなく、皮のままのジャガイモや、生肉さえも食べ尽くしていた。床に空のマヨネーズも転がっていた。
俺はカーテンの隙間から、そっと外を伺った。植木の陰にやつらの姿はなかった。だが他のところに隠れているのかもしれなかった。
俺はふらつく足で玄関のドアまで歩き、震える身体を手で支え、背伸びをし、覗き穴に片目を着けた。円形に歪んで見える玄関先に人影はなかった。
俺はカタカタ痙攣する手をドア伝いに滑り落とし、真鍮のノブにかけると、音を立てないようにそっと捻った。徐々に開いて行く隙間から外を伺った。目をくらませる明るい道に、やはり誰の姿も見えなかった。
俺はドアを出て鍵をかけると、静かに、だが素早く、道に飛び出した。これで大丈夫だ。そのはずだ。
金はなかった。だが、とにかく一番近いスーパーへ向かった。母とよく行く個人経営のこじんまりとしたスーパーが、一番近いスーパーだった。何にせよ、近いことが重要だった。鮮やかな路地の両側から聞こえてくるセミの鳴き声は、気のせいか粗雑で疎らだった。圧倒する感じがなかった。
店先から、店主である婦人のボッテリした後ろ姿が見えた。ガラス越しの婦人は、レジで何やら手を動かしていた。自動ドアが横に開くと、婦人は手を止めて振り返り、見下ろし、客が俺であることを認識して微笑んだ。
「おや、いらっしゃい。今日はお母さんと一緒じゃないのかい?」
俺は目を伏せてうなずいた。
とにかく急がなければならなかった。俺は小走りに菓子のコーナーへ行った。だがそこは婦人の死角ではなかった。俺はそこを通り抜け、アイスクリームのコーナーへ行ってみた。だがそこも死角ではなかった。
それから野菜のコーナーやパンのコーナーや、とにかく店中をぐるぐる回り、婦人の死角を探ってみた。だが、どこに行っても、例えば天井に斜めに取りつけられた鏡によって、婦人を見ることができた。つまり、婦人が俺を見ることができた。婦人はレジでなおも手を動かしていた。
俺の視界に、いよいよ黒い砂嵐が迫っていた。俺は菓子コーナーの前にしゃがみ込み、婦人がこちらを見ていないことを確認し、キャラメルや飴や、ポケットに入りそうな小さなものを手当り次第に詰め込んだ。そして婦人を確認した。レジに目を落としてはいるが、何となく不自然な感じだった。だが、黒い砂嵐は視界を全面的に覆い尽くそうとしていた。
俺はふらつきながらも、ごまかすためにもう一周だけ店内を廻り、顔を伏せてレジの前を抜けた。「また来てちょうだいねぇ」背中で婦人の優しい声がした。
店を出て、黒い砂嵐の中を離れの草むらまで走り、膝を突き、次から次へと慌ただしくキャラメルの包装を解き、口いっぱいに頬ばった。舌上に濃厚な甘味が広がった。あごの奥の筋肉が痛いぐらいに収縮した。それでも止めずに次々に頬ばり、歯に粘り着くキャラメルをがむしゃらに噛んで、噛んで、噛み尽くした。
やがて、震えは治まった。
見ると、足下の草むらに、菓子の包みが散乱していた。夏草は傾いた日を浴びて、その影を長く落としていた。草の根と根の間には、小さな昆虫が凸凹と走っていた。
俺はポケットに手を差し入れた。指先に二三の飴玉が当たった。手足の末端に寒気を感じた。俺は慌てて地面を掘った。土の匂いがむっと立ち込め、ミミズやダンゴ虫がうごめいた。ポケットの中身を穴に入れ、急いで土を被せた。すると、その真新しい盛り土の表面に、ボッテリとした婦人の顔が浮き上がり「また来てちょうだいねぇ」と優しく笑った。
コオロギが短く鳴いた。
俺は再び土を掘りだした。今度はもっと大きな穴を掘ることにした。そして自分を生き埋めることにした。指先が潰れそうなほど深く地面に指を差し込み、爪が剥がれそうなほど底を引っ掻きながら掘り返した。爪の奥に黒い土が食い込み、周囲のコオロギやスズムシが美しい声で応援した。だが、穴は一向に広がらなかった。
バッタが目の前を跳び去り、アリの隊列を土ごと投げ捨て、あごの先から汗が滴り、ついに俺は力尽き、ミミズのうごめく浅い穴に身を横たえた。
切れ切れの息が耳に近く、夕闇の空が正面に見えた。
青みを残した空に、明星が一粒……二粒……三粒。地面を伝い、コオロギの澄んだ声が身体に響いて来る。汗ばんだ皮膚に、ザラザラと土の感触がある。
いっそ、このまま息を引き取ってくれないか。
だが、呼吸は切れ切れでありながらも、力強く繰り返されている。火照った身体から、汗が止めどなく噴き出している。胸の辺りで、心臓が千切れそうなほど高鳴っている。右手に見える屋根の低い工場の窓から、明かりが煌々と放射されている。
「ママ……はやく、帰ってきてよ……」
俺は起き上がり、歩いた。頭上の外灯にうじゃうじゃと虫が群がっていた。建ち並ぶ家の明かりが道に落ちていた。夜空には、砂を撒き散らしたように無数の星が瞬いていた。だが、俺の家に光はなかった。
俺はシャワーで身体を洗い、布団に潜った。枕もとの障子が月明かりで柔らかく光っていた。格子の黒さと障子紙の青白さとの淡いコントラストが幽玄だった。虫の音が遠く澄んでいた。
「ママ……」
見ると、母の三面鏡があの時のまま開かれていた。俺は布団から這い出して、自分の顔を映してみた。正面の鏡、そして左右の鏡に俺が映った。三つの俺は障子越しの青い光を浴びて、どれも暗く沈んでいた。
俺は引き出しを開けてみた。青い光の中、化粧水やハンドクリームやヘアスプレーや、それらのビンや缶がぎっしり詰まっているのが見えた。
……口紅を大切にしない女は、だめな女なの……
俺はそこから口紅を取り出した。流線的にねじれた四角い筒に、金文字で『YVES SAINT LAURENT』と書かれてあった。キャップを外すと、深い色の口紅が、クレヨンのように切り立っていた。
……口紅を大切にしない女は、だめな女なの……
俺は鏡を見詰め、それを唇にそっと当て、深い色をゆっくり引いた。上唇の形に合わせ、慎重に引いた。右端まで引いて下唇に移り、唇を左右に引き伸ばしながら左に向けて引き終えた。そして鏡を見詰めた。目頭が熱くなった。
トラ刈りの頭に幼い顔、そして深い色の唇……だが、俺の目にはそれが、まさしく母の顔に見えた。歪んだ笑みを浮かべる、恍惚とした笑みを浮かべる、優しい笑みを浮かべる、母そのものに見えた。
俺は鏡を閉じた。さらさらとした熱い水が鼻から伝った。俺は布団に横たわった。電灯が天井で動かなかった。スズムシが夜空を控えめに彩るように鳴き、コオロギの声がそれに絡まり、追い越し、また絡まった。俺はタオルケットを頭まで被った。きつく目を閉じて羊を数えた。その時……
「ハハ」かすかに遠くで声がした……声は近づくにつれ……「いや、本当、とても子供を産んだような身体には見えない」酔いの艶を含んで行く……大人の男女だ……声は夜道に響き……カツカツ……二人の靴音……門を曲がった……「シーッ、目を覚ますじゃない、もう」……母だ。
ガチャッとドアの開く音がして、荷物を廊下に置いたのだろう、カタッと床の音がした。そして、ヒソヒソと話す声がした。「ねえ」「ん?」男の低い声が響き、口づける音がした。
二人は靴を脱ぎ……時々、笑いをこらえながら……廊下を歩き……リビングに入って行く……「ちょっと待ってて?」媚びるような母の声がして……「何これ……」「どうした?」「ん、んん、何でもない」キッチンに入った……「ねえ、ワインでいい?」「ああ」……リビングに戻った……
俺は目を開けた。障子を透過した月光が青白く俺の身体を照らしていた。階下で二人のかすかな笑い声が重なった。俺は布団を立ち、障子をそっと横に開いた。ガラスの向こう、澄み切った夜空に乾いた月がじっと動かなかった。美しかった。
「うふふ……」
だが、俺はすぐに布団に戻り、タオルケットを頭まで被らなければならなかった。
「だーめ……」
もうすぐ母の薄気味悪い泣き声……今ではそれが何の声か知っている……が聞こえるだろうから。
27(近)
陽子がパーカーつきの白いウィンドブレーカーを羽織った。後ろ髪を残して頭頂部に束ねられた陽子の髪の向こうで玄関のドアが開いた。開かれたドアの隙間から『カルネ』の最後の場面のように、覆面レスラーの顔が現れて、俺の鼻先に近づいたり離れたりした。どうやら俺は相当に酔っているらしい。
一昨日買ったカルバンクラインのサマーセーターの袖をたくし上げ、タバコを逆向きに吸い込んだ。非常に濃厚な煙が喉にしみた。陽子の人差し指がエレベーターのボタンを押した。
俺は陽子の後ろ髪を横にどけ、青白いうなじに吸いついた。皮膚の薄さを楽しんだ。「なぁに?」陽子の首が向こうに傾いた。「口、貸してくれ」エレベーターに乗り込みながら、深く舌を差し込んだ。温かく、濡れていて、柔らかく、ざらついていて、胸に込み上げるものがあって、味はしない。やはり舌で感じる最高の感触は、人間の舌だ。
俺は眼鏡が欲しかった。黒縁で、横長のやつ。何となく、今すぐ、俺はそれをかけるべきなんだ。マンションを出ると、陽子の冷えた手が、かすかに触れるだけのように俺の手を引いた。
くそったれ!何て愛おしいんだ!
この気持ちをどうしてやろう!この繋いでいる手を握り潰してやろうか!その束ねた髪を引き抜いてやろうか!それよりも、その頭に噛みついて、骨ごとかぶりついてやる!
俺は陽子を夜道に押し倒した。「ちょっと」笑ってやがる……俺はまず陽子の唇に噛みついて、次に首筋を舐め回す。それから両手で服を引き裂き、挿入する。挿入しながら、今度は頸動脈を噛み切って、噴き出す血流を飲み干す。鉄臭い熱い液体を、俺はむせ込みながら、飲み干す。通りかかったサラリーマンが、自分も飲もうと邪魔をする。四十代の、髭の濃い、小太りな男だ。だが俺はそいつの股間を蹴り上げて、二度と近寄れないようにする。誰にも邪魔はさせない。誰にもこの血を渡さない。俺のものだ。俺のものだ!
夜道に横たわる陽子がのしかかる俺の首に腕を廻し、優しく唇を重ねた。右手に走る山手通りを三台のセダンが速い速度で通過した。やはり俺は、相当に酔っているらしい。
俺は陽子を立ち上がらせ、その身体に着いた砂を払った。陽子は優しさと妖艶さをごちゃ混ぜにしたような目で俺を見詰めた。「もう、いいの?」
「ああ……仕方がないんだ」
陽子の後ろ髪が夜風にそよいだ。「いいんだよ……無理しなくても」
「いや……もう少し、こうしていたい」
「そう……」
これからどこへ行く?深夜、仕事を休んで。陽子が優しく手を引く。こんな悪酔いしている俺を、どこへ連れて行く?左の肺に刺すような痛みがある。痛みは苦痛の一部なのか?俺の顔が歪もうとする。もしこの痛みが一生続くのなら、俺は今すぐ死にたい。いや……もし、死というものが他の生命に食されることによって初めて正当化されるとしたら、この痛みが病原菌によるものだとしたら、俺はこの痛みに耐え、食い潰されるまで生き続けるべきなのか?
そうだとしたら……確かに俺は数え切れない命を食してきた……それに罪悪を感じて言っているわけではない……ただ……何のために、こんなことを繰り返さなければならないんだ……原子核融合、分子結合、そして分離……何のため?……分からない……そしてそれに抗う理由もない……
夜道に風が吹き抜けた。右手に走る山手通りをタクシーのテールランプが切れ切れに過ぎて行く。オレンジ色のライトに照らされた淡いガード下で、トランペットを吹く男がいる。頬を膨らませ、首に太い血管を何本も浮き上がらせ、歪んだ音を響かせている。
「ようちゃん」
陽子の頭が振り向いた。ウィンドブレーカーのフードが風で膨らんだ。
「例えば、ようちゃんが結婚するとする……場所は……そう、シチリア島だ……シチリア島の教会で、ようちゃんとその男は、黒い聖衣の神父に誓いを立てる……そして、ベンツの四駆に乗っかって、地中海を船で越え……エジプトまで行くんだ……」
陽子が歩きながら微笑んでいる。
「そして男はこう言う……アフリカの海岸線をぐるっと廻り、東に向けてひた走り、車が壊れて動かなくなったところ、そこで暮らそう……それが新婚旅行だ……」
横断歩道の赤を渡り、ビルの麓を歩いて行く。
「車は給油を繰り返しながら南アフリカを越え……ソマリア……エジプト……サウジ……イラン……インド……そして……シンガポール……そこでベンツは事切れる……ようちゃんの指に二十カラットのダイヤがきらめき……髭の伸び切った男の頬に口づけて……二人はそこに小さな居を構えるんだ……それは素晴らしい家だ……」
「みいちゃん……」陽子が振り返りざま、俺の胸に抱きついた。「前の彼のこと……どうして聞かないの……」
聞くわけがない。
「それよりも、行こう」耳の側でモーツァルトのレクイエムが流れているうちに。「あの透明感……ソプラノ、テノール、アルト、バス……人間の声の素晴らしさ……」
実際それらは絡み合っていた。これほどの感動があるだろうか?例えば白壁に映し出された人間の五本の指の影が微妙に曲げられたり伸ばされたりする……その指先が描く微妙なカーブに見入ったりする……そして影を描く本体である指を眺める……光にかざせば赤く透き通る指だ……爪の輪郭を微妙に濃くして……人間よ、瞬間的な象徴段階を越え、うねりをあげる美に到達せよ!……美、だと?
それは斜め後ろから見る陽子のあごのつけ根のカーブにも存在する。黒髪の一本一本が風にそよぐ様子もそうだ。タバコをポケットから取り出して、浴びせる炎の揺らめきですらそうだ。この世は美に富んでいると言わざるをえない。そして同時に、それだからこそ同時に、この世は醜さにも富んでいる。
つまりはそういうことだ。全ては調和されている。喜びのないものには悲しみがない。喜びのあるものには悲しみがある。どちらがいいと言っているのではない。意味には無意味が必要なのだ。……意味?
ブルームフィールドは言った……何にせよ見かけは重要ではない物事が、より重要な物事と密接な関係にあると分かった時、我々は前者が結局『意味』を持っていると言う……つまり欲、つまり生、つまり無意味……
だが、俺たちは無意味を乗り越えた世代のはずだ。意味とは自ら積極的に仮定するもの……そう『仮定』だ……それが不安なら、神や社会規範と報じられているものにでもすがるがいい……誰に言っている?俺自身にか?
「ここでいい?」陽子がとあるビルの地下に続く階段を指差した。「ああ」
陽子と指を絡ませ合い、薄暗い階段を下りて行く。酔っているとは言え、今日の俺の頭はしゃべり過ぎるようだ。フロイト的に言えば、抑圧による置き換えでも生じているのだろうか。
抑圧?……抑圧されないものなど、存在するのか?
28(遠)
ぼんやりと目が覚めた。障子が純白に光っていた。金属的なセミの鳴き声が脳内の壁で乱反射していた。俺の身体でタオルケットがしわくちゃになっていた。
俺は布団から起き上がり、寝ぼけ眼のまま階段を下りた。排尿をしたかった。玄関のドアの横にあるすりガラスが、外の明るさをぼんやりと教えていた。セミはやはり鳴いていた。階下に下り、トイレに向かってぼんやり廊下を歩き、角を曲がった。その瞬間、俺の両目ははっきり覚めた。
……グレーのブリーフに尻と陰茎の形をくっきり浮き立たせ、見知らぬ男がすぐ目前に立っていた……
「おう、ボク」
筋肉の塊のようなたくましい男が、シェービングクリームを口の周りに付着させて見下ろした。
「おはよう」
筋肉の筋一本一本まで分かる、筋肉質で毛むくじゃらの脚。下腹部から胸板にかけてモジャモジャと密集している黒い体毛。ゴツゴツとした手に握られているT字の剃刀。
「おはよう」男の低い声に、俺は答えることができなかった。「何だ?挨拶もできないのか?ボク、おはようございますは?」俺は目を伏せた。
「おはよう、ござい、ます……」恐怖で首が引きつった。
「女みたいな声出しやがって」男は洗面台の鏡に向かい、剃刀を頬に当てた。かすかにジョリッと聞こえた音に、俺の身体はビクリとした。
「一人で何をしゃべって……」母のエプロン姿が見えた。初めて見る姿だった。「水面……起きたの……」ジョリッと音がした。
「……なあ、自分のガキぐらい、ちゃんと仕付けとけよ……挨拶はしないわ、女みたいな声出すわ……」ジョリッ。「……見ろよ……ウジウジしやがって……ろくな男に……」
「うるさいよ!」
母が叫んだ。
「……そんなこと、あんたに言われる筋合い、ないんだよ!」母が腰に俺を抱き締めた。「この子のことひどく言うなら、今すぐ出てってもらうよ!」
ジョリッ。「何興奮してんだよ……」男の目が母の顔色を伺った。「はいはい、分かりましたよ」ジョリッ。「もう言いまーせーんー」ジョリッ。
「……水面、ひどいことされなかった?ぶたれたりしなかった?」俺は首を横に振った。「おいおい、それじゃまるで、俺が幼児虐待愛好者みたいじゃないか」男が洗面台に身を乗り出して、顔を水に浸した。「本当に何もされなかった?」俺はうなずいた。
「……だいたい、何なんだよ」男の顔がタオルに隠れた。「自分のガキに口紅なんか塗らせて……」俺はハッと思い出した。だが、見上げると、母の目は、すでに俺の口もとを捉えていた。「どうかしてるよ……」俺は母から顔を背けた。
「……ママの口紅、使ったのね?」俺はじっと口をつぐんだ。「……ママの口紅、使ったのね?」母の手が俺の両肩をつかんだ。男の顔がタオルから現れた。「……ママの口紅、使ったのね!」
パーン!……母が俺の頬を張った。
「おい……」男の顔が強張った。「ママが口紅を大切にしてるって、知ってるわよね?」頬を張った。「どうしてあんたは……」頬を張った。「いつもいつも!」母の振りかぶった手を男の手がつかんだ。「やり過ぎだ!」
口内に血の味がし、鼻から水のようなものが伝った。目の前の母の目が、興奮によって潤んでいた。
「やり過ぎだぞ!」母の腕をつかむ男の腕がたくましかった。だが、俺はその腕にしがみついた。「やめてください……」「……何だ?俺はお前をかばってやってんだぞ?」俺はなおもその腕を引き離そうとしがみついた。「やめてください……」男のたくましい手が母の細い腕を投げ捨てた。「何なんだ、お前ら」男は背を向けて立ち去った。
向こうでバタンとドアの音がした。母は立ち尽くしていた。
「ママ……」俺は鼻をすすった。鼻の奥から喉を通り、どろどろした鉄臭い液体が胃の底に落ちて行った。「ママ……」
「ママ、ママ、うるさいんだよ!」母の両目がカッと見開いた。「たまには自分のことを自分でやったらどうなんだい!」俺の肩をすり抜けて、男の後を追って行った。洗面台の蛇口の横に、男のT字の剃刀が残っていた。
俺はドアを開け、鼻をすすり、便器に放尿した。「お前が出て行けって言ったんだろうが!」向こうで声がした。陰茎を上下に振り、パジャマのスボンを上げた。洗面台に背伸びして、蛇口を捻って手を打たせた。「お願いだから!」向こうで声がした。正面にある大きな四角い鏡の下の方に、辛うじて俺の顔が映った。トラ刈りの頭に、口紅と鼻血の赤が鮮やかだった。
俺は石鹸を泡立てて顔を擦り、水に流してまた顔を上げた。口紅は落ちていた。だが、鼻血はなおもわずかに垂れていた。俺は鼻をすすり、あごを上げて鼻をつまんだ。漏れ出た赤い血が、ゆっくり肌を滑り降り、残った水滴ににじみながら、あごの先まで伝って行った。「この売女!」向こうで声がした。
俺は鼻をつまんだまま部屋に戻った。廊下にセミの声と母の喘ぎが交錯していた。鼻にティッシュを丸めて詰め込み、着替えて階段を下り、玄関に腰かけた。スニーカーに足を突っ込み、マジックテープを引き上げて留めると、目の前で玄関のドアが開いた。
玄関先には陽子が立っていた。
「みいちゃ」あぁ!背中で母の声がした。「……あ……そ……ぼ……」陽子の姿の向こうで、空はほとんど曇りかけていた。んん!背中で母の声がした。
「行こ……」俺は陽子の手を取って家を出た。
「……みいちゃんのお母さん、どうしたの?」側溝の蓋の溝から伸びた夏草が、どれも白くしおれている。「具合でも、悪いの?……だいじょうぶなの?」「だいじょうぶだよ……」俺は一刻も早くあの声から陽子を引き離そうと、走るように早く手を引いた。「じゃあなんで泣いてるの?」「泣いてるんじゃないよ……」陽子の背中が走って俺を追い越し、振り返った。「じゃあ、なんなの?」
俺は足を止めた。「なんでも、ないよ……」セミの声が高く聞こえた。
陽子がじっと俺の目を覗き込んだ。「うそ……ほんとはなんなの?」俺は目を伏せた。「ほんとうに、なんでもないよ……」俺はまた歩きだした。「ねえ、教えてよ!ねえ!みーいーちゃーん!」俺は陽子に振り返リ、叫んだ。
「なんでもないったら!」ヤセッポッチの陽子の頭上で、空は完全に雲に覆われていた。
しばらくして、陽子と俺は裏山にある神社の階段を上っていた。階段の左右には雑然とした松林が広がっていて、その幹の隙間から、さらに向こうの田園風景が見えた。足下の石段は青緑色の苔や細長い松の枯葉に覆われ、所々、欠落している。
「……ようちゃん、宿題、おわった?」「まだだよ……いっちばんのりー!」陽子の後ろ姿が階段を駆け上がって行った。「僕だよー!」
陽子の後を追って階段を上り切ると、そこには周囲を松林に囲まれた円形の広場があって、中心に、古びた社が建っていた。社に続く石畳の入り口では二匹の勇猛な狛犬が両脇から見張っていて、周囲の松林から発せられるセミの合唱は社を包み込むように高らかに反響していた。
「……」陽子が社に走って行った。「みいちゃんもはやくー!」
社の木の階段をギシギシきしませながら上ると、本殿の扉は閉じられていた。背伸びして扉の格子窓から中を覗くと、薄暗い本殿に何かの木像が見えた。
背中でカランと鐘の音がして振り向くと、陽子が賽銭箱の前で手を合わせていた。俺も急いで陽子の隣に立ち、手を合わせた。だが、願い事は思いつかなかった。陽子が目を開けた。
「ようちゃん、なにおねがいしたの?」「ひーみーつー」陽子が階段を駆け下りた。「おねがいごと教えちゃったら、かなわないんだよ!」社の裏に消えて行った。
俺は階段を下りてしゃがみ込み、石畳を掘り起こそうと引っ張った。目の前をセミが低く横切った。セミはそのまま地面に叩きつけられ、転がり、仰向けになりながらも羽ばたき続けた。ジーという鳴き声が、ゼンマイ仕掛けのおもちゃのネジが切れて行くのをイメージさせた。見ると、他にも二三の死骸が干からびていた。
「みいちゃーん!」陽子が狛犬の背に乗っていた。「ちょっときてー!」狛犬の下まで行くと、陽子が「いいーでしょー」とニッと笑った。「僕もー!」と俺も狛犬によじ上った。
台座から落ちないように、陽子と俺は狛犬を挟んで両手を繋ぎ、空を見上げた。高らかなセミの合唱の中、松の針葉に円く囲まれた空は薄暗く曇っていた。
「みいちゃん」狛犬の顔が頬にザラザラした。「さっきね……もう転校しませんようにって、お願いしたの」円い曇天にカラスが翼を広げて横切った。「だって、みいちゃんとずっと遊んでたいもん」狛犬の頭に隠れて、陽子の顔は見えない。
「僕だって……」ポツッ……額に雨が当たった。そしてすぐ、腕や頬にもポツポツと当たった。「雨……」
見上げると、円い空で濃い雲と薄い雲がせめぎ合っていた。濃い雲が煙のように巻き上がり、散り、うねりを上げてまた寄り集まる。そこから疎らに雨脚がポツポツと現れ、当たり、狛犬の肌をまだらに染めて行く。
「ねえ、みいちゃん」陽子が狛犬の横から顔を出した。「……ちゅう、したことある?」陽子のポニーテールが左右に揺れた。
ちゅう……
その言葉は、俺と陽子の顔の中間位置に、ある生々しい映像を呼び起こした。「ねえ、したことある?」……動物的な目……俺は首を横に振った。「……して、みようか?」陽子が身を乗り出した。「ねえ、してみようか?」……求めるような目……「どうしたの?怖いの?」……哀れむような目……俺は首を横に振った……「じゃあ目をつぶって」……バターのように溶けて行く表情……俺は目を閉じた……「はい」……
ガチッ!
目を閉じていて距離が分からなかったのだろう、前歯と前歯がぶつかった。同時に、映像は完全に消え失せた。
一転して、俺の中に何か、明るいものが込み上げて来た。目を開こうとすると、陽子が叫んだ。
「ちょっとまって!もう1回……はい……」
今度は柔らかいものが徐々に押し潰れる感じで触れた。触れ合って、十秒くらい、触れ続けた。
柔らかいものが離れて行き、目を開けると、狛犬の肩の横に不安気な陽子の顔が見えた。「……どうだった?」「うん……」雨が次々に二人の身体に落ちた。「……レモンの味なんて、しなかったよね?」「うん……」
陽子の顔がニッと笑った。「たいしたこと、なかったね!」陽子が狛犬を飛び下りた。「うん!」雨は確実に激しさを増していた。「帰ろ!」陽子が下から手を伸ばした。
「うん……」手につかまり、俺も飛び下りた。
二人で下りる松林の階段に、セミの声と雨音は判別なく響いていた。欠落した石段を構わず駆け下りながら、右手の木々の隙間に靄のかかった水田を見た。陽子のヤセッポッチの肩が上下に揺れ、赤い鳥居をくぐる時、陽子は振り返って小指を突き出した。
「今日のことはぜったい、だれにも言っちゃだめだからね?いい?約束だよ?」
俺も小指を突き出して、二本の小指が絡まった。
29(近)
チェックインを済ませ、ホテルのベッドに荷物を投げた。陽子はそのまま窓に進み、カーテンを両手で開いた。カーテンレールがシャーッと音を立てた。俺はソファーでタバコに火を点けた。
「きれい……」鳥のように両手を広げる陽子の影の向こうに金色の水平線が見えた。俺はすぐに目を逸らした。目の前のテーブルにあるガラスの灰皿で金光が乱反射していた。
「ねえ見て」だが、俺は壁にかけられたルノワールのパリジェンヌが、金光の中で色彩をうねらせているのを見ていた。「ねえ、みい……」「俺は、いい」ソファーを立ち、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「……さっきから、なに怒ってるの?」俺は浴室のドアを開けた。
広い……二十平米はあるだろうか。浴室というより、浴場に近い。白いタイル貼りの床や壁や天井は神々しく、隈なくライトの柔光に満たされている。奥にはゆったり身体を伸ばせる大きな大理石の浴槽があり、右手の壁には大きな鏡とレトロな感じの金の蛇口、シャワーがある。部屋によっては窓がついていて海が眺められそうだが、幸い、ここの浴室には窓がない。
「ねえ!」陽子の掠れ声が浴室に反響した。「なんとか言ったらどう!」「……何を?」俺はビールを傾けた。「いい風呂だ」ビールを置いた。浴槽に湯が張られているのが見えた。
湯に浸かりながらビールを飲もうと、俺はシャツのボタンを一つ一つ外し始めた。すぐに陽子の手が伸びてきて俺の手を止めさせた。
「お願い……なにを怒ってるのか教えてよ……せっかくこんな素敵なところにきたのに……みいちゃんがそんなんじゃ……」哀願するような陽子の目が見えた。
「何も怒ってない」俺は陽子の手をそっと外し、ボタンを全て外してシャツを脱いだ。ベルトのバックルを解除して、ズボンと下着を脱ぎ下ろした。「じゃあなんでお風呂に入ろうとしてるの?なんで一人で入ろうとしてるの?」俺は置いた缶ビールを手に取った。
「……何が問題なんだ?俺が風呂に入ろうとしてることか?それとも一人で入ろうとしてることか?」ビールを口にしてシャワーを捻った。
「そうじゃない……」シャワーの音に陽子の涙声が混じった。「……なんでわからないの……なんのために海辺のホテルにきたの……二人で一緒に……」
「俺は海が嫌いだと言ったはずだ」身体を軽く流し終わり、シャワーを止めた。「海には一緒に行けない」そして立ち上がった。ビールを持って浴槽に歩いた。
「……わかった。私、一人で行ってくる」「ああ」浴槽に身体を沈めると、あふれた湯が大理石の表面を流れ落ちた。「……なんなの!そんなに海が嫌いなら、最初からこんなところにこなければよかったでしょ!」ドアの閉じられる音が荒々しく響いた。
俺は目を閉じ、ほどよく熱い湯を全身に感じながらビールを口にした……ああ……こうして身体を伸ばし、温かな流動と同化する感覚……むせ込むような湯気は俺を内側から満たし……身体の重さも、緊張も、全てが溶け出して行く……湯を掻けば、浴室に反響する水の音……排水口に流れ落ちる音……まぶたの裏の赤……目を開けば腕の表面から引いて行く湯の膜……鏡に映る、タイルの艶やかな表面……タイル……タイル……タイル……
「くそっ……」俺はビールの缶を放り投げた。缶は黄色い液体をまき散らしながらゆっくりと宙を回転し、壁に跳ね返り、落下した。落下した缶はコロコロと音を響かせながら斜めにドアへと転がり、当たって止まった。止まった缶の口から黄色い液体がトクトクと音を立てて白いタイルに広がった。
「くそっ……」俺の声が低く反響した。
浴槽を出てバスローブを羽織り、海の夜景をいまいましくカーテンで塞ぎ、缶ビールをまた取り出した。バスタオルで頭を掻きながらソファーに深く腰かけて、タバコをくわえて火を点けた。壁のまだら模様がかすかに渦を巻いてうごめいたような気がした。見ると、閉じられた部屋のドアが、閉じられたカーテンのヒダが、その輪郭を主張し始めた。
「こんなところに閉じ込めやがって……」それは陽子に向けた言葉ではなかった。
俺は静寂が聞こえてくる前に部屋を出て、エレベーターで一階に下り、ロビーを抜け、ホテルのバーのドアを開いた。
黒を基調とした薄暗い店内は海側の壁が全面ガラス張りになっていて、それに向かってテーブルが四つ並べられている。テーブルでは一組の老夫婦と二組の中年夫婦がくつろいだ雰囲気で話をし、それぞれの手もとに落ちたピンスポットの青い光が清涼感を醸し出している。俺はボーイの目配せから席を選び、海を背にしてカウンターに座った。
「ターキー、ロックで」ボーイはカウンター内でグラスを拭きながら、それがないことを目で詫びた。「バーボンなら何でもいい」俺はタバコに火を点けた。よく聞こえなかったが、ボーイは「かしこまりました」と言ったようだった。
ピアソラの旋律に紛れて聞こえる背中の夫婦たちの控えめな会話は、俺の陰口に聞こえないでもなかった。それは丁重に差し出されたバーボンのグラスの表面を上って行くタバコの煙を見たからには仕方のないことかもしれなかった。グラスを傾けて濃厚なアルコールを味わえば、脳天に一本の針が突き刺さるような感覚がし、その感覚がまたグラスを傾けさせた。
いや、実際は……カウンターで座る俺自身という意識の存在が示すように……なぜグラスを傾けるのか、それは恐らく、ほとんど強迫観念だった。
静寂で水が滴るように、ピアノの旋律が途切れ途切れに聞こえてくる。カウンターのボーイはいつまでも手の中の布でグラスを回し、向こうに座る体格のいい男は、さらに向こうの女の視線を浴びている。再びグラスを傾けると、カランと透き通った音を立て、氷がグラス内を転がった。酒とタバコと自慰……不意に、全てはその三つに集約されるという思いに囚われた。
だとしたら……目の前に落ちている青い光の円……何なんだ……負のカオス、そうとしか言いようがない……新しいバーボンがその円の中に差し出される……グラスの中の琥珀色の水の中で、蜃気楼のように解けて行くアイスボール……女がしっとりと歩いて来る……割といい女だ……
「ご一緒しません?」「しない」
去って行く女の背が美しい……だが、今は何もいらない……何もないことが必要だ……絶望感?いや……そんなことは問題じゃない……とにかく、もう寝るのがいい……今日は考え過ぎる……
カウンターに金を置き、バーを出て、ロビーにある革張りのソファーの上を歩いて通過し、エレベーターで四階に上った。部屋までの通路には、毛足の長い絨毯が敷いてあり、腹這いで行くにはちょうどよかった。404のルームナンバーは存在せず、実質的に405がそれだった。406、つまり実質的に405の俺の部屋のドアが淡いクリーム色に照らされていて、立ち上がって金のドアノブを引くと、陽子がソファーに座っていた。
陽子は俺を見るなり立ち上がり、駆けてきて、抱きついた。
何のことだ?……あごの下にある陽子の頭から、潮の匂いがする。日だまりに干された布団が太陽の匂いを吸い取るように、陽子の髪も潮の匂いを吸い取ったのだ。陽子が両腕で俺の身体をきつく抱き締めた。
「ごめんね……私……気づかなかったの……みいちゃんが海嫌いなの、あたりまえなのに……それなのに……海辺のホテルに行きたいだなんて……一緒に海に行こうだなんて……無理やり……私……ごめんね……ごめんね……ごめんね……」
30(現)
新幹線のシートを背中で倒した。右手の窓に時速二百キロの水田があり、左に座る男の胃袋は腐っていた。
みんな狂っている……つまり俺だけが狂っていた。
ミニパトの婦警は血眼で日本中のタイヤにチョークして廻り、杖を突いた老人は日だまりの遊歩道でヒステリックに叫んでいた。集団化した子供は狂喜して声を張り上げ、特殊と一般を混同する者が絶えることはなかった。
関係よりもそれ自体を愛すこと……そこに答えである問題がある。
世界を二つにしか分けられない者が時として輝きを放つように、車内販売の女の尻をすり抜けて時速二百キロのトイレに駆け込みたい。山間地帯の田園に巨大な夕日が溶け込むように、切り刻んだ腕の裂け目から鮮血に染まった肉わたが飛び出すように、隣の腐敗臭の口内に汚れ切ったボロ雑巾を時速二百キロ以上で突っ込みたい。
そして……今、俺のバッグには、慣性の法則に従うナイフがある。