Original Contents: © LOGOS for web (http://www.logos-web.net/)



完結した夏

1998年 木戸隆行
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2000年4月号 CM掲載作品
 1(現)

 疲れていた。自分に何もなかった。疲れていた。夜だった。疲れていた。空が見たかった。空が動いていれば、それでよかった。
 だから窓を開けた。
 動いていた。空だけでなく、全てが動いていた。どうでもよかった。空の動き方が一番好きだった。苦痛だった。車の音が苦痛だった。隣家の明かりが苦痛だった。空だけあればよかった。警官が俺を見すえながら右から左へ過ぎて行った。警官は嫌いだ、緊張するから。女が好きだ、柔らかく、滑らかだから。どうでもいい、空があれば。蚊に刺された。餌にされた。どうでもよかった。嘘だ。殺していた。手のひらに貼りついたぺしゃんこの蚊の腹部から赤が散っていた。俺の血液かもしれない。
 そして気がついた。驚いたことに、俺を疲れさせているのは、俺だった。

 2(遠)

 それは俺が七歳、小学二年の夏休みだった。俺は母に手を引かれ、夏の日差し照りつける古びたアスファルトの道を歩いていた。
 空気が揺らめく暑さだった。
 道端には夏草がうっそうと生い茂り、三面コンクリートの川面はまばゆく揺らめいていた。川の側面にうじゃうじゃと貼りついたタニシの貝殻は、どれもしっとりと濡れていた。
「水面(みなも)」頭上で母の声がした。
 野球帽のツバを上げると、手を引く母の腕がうっすらと汗ばんでいた。その手首で揺れるブレスレットは汗のために白く曇っていた。
「これからおじゃまするお家はね、藤館智子(ふじしろともこ)さんっていう、ママの学生時代のお友達なのよ」
 ヒマワリ柄の黄色いワンピース。ツバの大きな白い帽子。真っ赤な口紅を引いた唇。くっきりと描かれた眉。まつ毛の一本々々まで分かるマスカラ。
「懐かしいわあ……ママと智子はね、学生時代、二人ともパパのことが好きになってね……」真っ赤な唇が笑みを噛み殺すように歪んだ。
「ママ……おばけ……みたい……」
 その時、すぐ目の前を、物凄いスピードで車が横切った。母のワンピースの裾がはためいた。母は瞬時に帽子を押さえた。俺は野球帽を吹き飛ばされ、振り向くと、大きく宙に舞っていた。
「ああ……」
 母の手を振りほどき、追いかけると、帽子は杉の木陰にふわりと着地した。しゃがみ込んで手に取ると、頭上近くでセミが鳴いた。
 ジィィィイイイイ……
 見上げると、杉の幹の所々でペロリと剥がれた樹皮がぶら下がっていた。その色に溶け込むように、アブラゼミが一匹、二匹、三匹、四匹……
「水面!」
 そう聞こえた気がして振り返った。母の後ろ姿は遠くで帽子を押さえていた。気のせいか肩が小刻みに震えているように見えた。頭上では、セミの声が一段と高鳴った。
 ジィイイ、ジィー、ジィー、ジィー、ジィィィィー……
「うるさい、うるさい、うるさい……」木を見上げ、一番低いところで鳴くセミをつかまえようと跳びはねた。だが、伸ばした指先がわずかに届かない。俺は再び跳びはねた。やはりわずかに届かない。セミはさらに声を高め、前後に尻を振りだした。
 ジィイイ!ジィー!ジィー!ジィー!ジィィィィー……
 俺はなおも跳びはねた。何度も何度も跳びはねた。そのたびに枝葉の隙間から光の筋が差し込んだ。セミの声が前後した。
「水面!」
 今度ははっきりそう聞こえて振り向くと、間近に母が迫っていた。「どうしてあんたは!」
 パァーン!……母が俺の頬を張った。
「あんたはどうして!」母が大きく手を振り上げた。「いつもいつも!」手を振り上げた。「いつもいつも!」手を振り上げた。「いつも!……いつも!」手を振り上げた。
 母は手を振り上げて、何度も何度も頬を張った。風を切る音がして、何度も何度も頬を張った。シャリシャリとブレスレットのぶつかり合う音がして、何度も何度も頬を張った。何度も、何度も、頬を張った。
「マ、マ……」そう言うと、母の手が止まった。
「あんたはあいつにそっくりなんだよ!」
 母はその手で俺の髪をつかみ上げると、引きずりながらどんどん歩いた。セミはまだ高らかに、隙間なく鳴いていた。空は青く、太陽は白く揺らめいていた。流れる風は蒸し暑く、その中に、俺はいつもの夏を見つけた。
 かすかに甘酸っぱい、汗ばんだ母の脇の匂い。

 3(近)

「水面、お腹すいたよぉ」
 文香(あやか)は全裸で俺の脚に擦り寄った。サラサラとした長い黒髪が俺の脚にまとわりついた。俺は文香の頭をそのまま蹴り上げた。文香はドサリと床に転がった。
「うるっせえんだよ!」
 文香が床に伏せたままつぶやく。
「水面、お願い……お腹がすいて死にそうなの……お願い……」
 文香が両手で床をガリガリ引っ掻いた。俺は文香の髪をつかみ上げ、自分の顔を近づけた。文香の口に血がにじんでいた。
「何で俺がお前なんかに食わせてやんなきゃなんねえんだよ、ああ?」
 そのまま口づけた。柔らかな唇に口づけた。瑞々しい頬に口づけた。まぶたに、額に口づけた。鼻に、傷に口づけた。文香はその細い両腕を俺の首に絡ませた。
「ねえ、お願い……気持ちよくしてあげるから……ねえ……」
「……あ、げ、る?」
 頭を床に投げつけた。文香は深く倒れ伏した。カーテン越しの光を浴びて、その様は美しかった。
 俺は冷蔵庫のドアを開き、残っていた御飯と卵と豆腐とマリネをボウルにぶち込んだ。そこにマヨネーズとケチャップとタバスコをぶちまけて、ゴチャゴチャと掻き混ぜた。
「ほら、食えよ」
 床に伏した文香の顔の前にボウルを置いた。
「……あの……スプーンとか……」
「イヌはそのまま食うんだろ?」
「はい……」
 文香はボウルに顔を突っ込み、うまそうにガツガツ食べた。腕をたたみ、脚をたたみ、背を丸め、ガツガツ食べた。カーテン越しの淡い光を浴びたその姿は神々しく、清らかだった。俺は完全に興奮した。
 文香の柔らかな尻を両手で持ち上げ、挿入した。ボウルの中で文香がうめいた。入れて出し、出して入れ、深度を徐々に増して行った。俺はカーテンを開いた。青空だった。
「文香、いい加減に憶えたか?」
 青空を横切って、カラスが黒い翼を大きく広げた。その羽根の一枚一枚をはためかせながら空をつかんで減速し、羽ばたき、向かいの屋根に着地した。
「恐れを知らない奴は、何一つ知らない奴だと」
 強い日差しを浴びて陰影を際立たせた文香の背筋が、うめきとともにしなやかにのけ反った。俺はさらに激しく動いた。
 ジリジリと青い空。遠く聞こえるセミのノイズ。張り詰め、のけ反る背筋。文香のうめきが高くなる。尻を握る手に力が込もる。突き上げる快楽が怒濤のごとく、止められず、俺は完全に痙攣した。
 最高、だ。
 完全に放出し、滑らかに抜き去ると、文香のボウルが転がった。綺麗に舐められた舌の跡が残っていた。
 俺はジリジリとした日差しの中でうつ伏せる文香を腕に抱き上げた。恍惚の表情を浮かべる文香をベッドに下ろし、口もとに残った一粒の飯粒を舐め上げた。
「文香、セミの欲情が夏を狂わせる、そうだろう?」
 文香の隣に横たわり、見ると、あの窓でカラスが俺をじっと見ていた。

 4(遠)

 母と俺は玄関先に立っていた。平屋の大きな家だった。敷石に沿って三本のタンポポがしおれていた。
 母の指がチャイムを押した。玄関の奥からかすかに返事が聞こえた。屋根では瓦が波打ちながら日差しを強く反射していて、その上に、青空があった。セミが四方から鳴きわめき、世界をくまなく包んでいた。玄関の引き戸のすりガラスに、ぼんやりと人影が浮かび上がった。音も静かにそれが開くと、短い髪の婦人が見えた。すぐに、その満面に笑みが起こった。
「美佳子(みかこ)ー!お久しぶりー!」婦人の髪の向こうには涼しげな廊下が伸びていた。「さあ、どうぞ?上がって?上がって?」
 母は婦人に微笑を浮かべ、軽く首を傾けた。手を引かれ、振り向くと、ブロック塀の天辺から隣家のヒマワリの後頭部がはみ出していた。
「おじゃまします……」
 脱いだスニーカーをきちんと揃え、母の白いハイヒールの隣に寄せた。立ち上がって振り向くと、すぐ向こうの開かれたドアの前で、母と婦人が立ち話をしていた。母は背中を軽くのけ反らせ、片脚を曲げ、唇に指を当てて話している。
 俺の左手にある下駄箱の上にはコバルトブルーの花瓶が乗せてある。その花瓶は陶製で、全面にヒビのような模様があり、レースの敷布に乗せられている。口には白い花が差してあり、青っぽい雌しべが異様な感じで突き出している。
「水面、いらっしゃい?」
 見ると、母と婦人が優しい目つきで俺を見ていた。そして、二人の腰くらいの高さに、真っ黒に日焼けした女の子の顔があった。部屋の中から首だけ出して、俺と同い年くらいの女の子の顔が、じっと俺の目を見ていた。
「水面ちゃん?」
 婦人が優しく名を呼ぶと、その子の顔が引っ込んだ。俺の目にその子の顔が焼きついていた。俺はうつむいた。
 子供の足には大きすぎるスリッパが音を立てないように、ゆっくり、擦り足で歩いた。よく滑った。スースーと、床板の擦れる音がした。メープルの、綺麗に磨かれた廊下だった。柔らかな母の手を握り、見上げると、壁にかけられた花の絵が不気味に暗かった。
「綺麗ね、水面?」
 俺はうなずくようにうつむき、母は俺の帽子を取った。

 5(近)

 目を覚ましたのは夜のことだった。両脇に開け放たれたカーテンの間に、堂々と星空が広がっていた。窓枠の右上には一際白いもやがあり、月のありかが伺えた。
 文香はその淡い月明かりを浴びて、隣でうつ伏せに眠っている。向こうに向いた頭から、手前に黒髪が広がっている。俺は身を乗り出して、文香の寝顔を眺めた。
 顔を覆う髪。その隙間に覗く文香の唇が、少しめくれている。月明かりをかすかに反射して、艶やかで瑞々しい。耳を近づけるとかすかな寝息がくすぐる。口の前で軽く握られている小さな手。その腕、尖った肘、肩。俺の腿に乗せられたもう片方の手。脇腹の曲線。尻の柔らかな膨らみ。交差した艶やかな脚。
 何て美しい。
 俺は文香の背中を微妙に愛撫した。きめ細やかな肌。滑らかな凹凸。背中から脇腹へ、脇腹から腰へ、尻へ愛撫を進める。そして腿の内側へ。
 次第に文香の身体は反応を示し、湿り気を帯び、背中の筋肉が隆起し、陥没した。寝息が一瞬、高まった。
 俺はタバコに手を伸ばし、その先端に火を馴染ませた。そして横たわった。
 煙を吸い込むと同時に文香の髪をわしづかみにし、高々と引っ張り上げた。文香の首が人形のように曲がった。吐き出した煙が月明かりの中を突き抜けて、薄れた。
「あ、あう、ああ……」
 アザラシの曲芸のように反り返る文香の姿は美しかった。目を閉じたまま開き切っている文香の口に、ゆっくりタバコを吸わせた。タバコの光が闇に際立ち、反り返った身体の先端から煙がゆっくり棚引いた。
「起きろ」
 くぼんだ文香の鎖骨の下で、小振りな胸が揺れている。青白いシーツを背景に、尖った胸の先端が陰になって揺れている。
「またがれ」
 文香は反り返ったまま片脚を上げ、俺の腰に乗せかけた。タバコを吸うと、オレンジ色の光が文香の胸もとを照らした。開き切った文香の口から唾液が伸び、俺の胸に滴った。
 俺はタバコを揉み消した。文香は完全にまたがり、深く腰を沈めた。文香の首を解放すると、長い髪は振り子のように落下して、パラパラと文香の顔を打った。俺は胸の唾液を両手ですくい、まんべんなく口にした。味はしなかった。
 文香は激しく腰を前後させ、恥骨と恥骨が擦れ合う。ベッドがきしみ、浮き沈み、合わせた腰が潤滑して行く。
 ギシ、ギシ、コツ、コツ……ギシ、ギシ、コツ、コツ……
 文香がうめく。文香が髪を振り乱す。文香がのけ反る。のけ反りながら前後する。俺は真っ直ぐ手を伸ばし、文香の乳房をわしづかむ。文香が大きくうめきを上げる。俺は握る手に力を込める。文香の腰が激しく動く。俺は文香の乳首をひねる。文香の乳首をひねり潰す。文香の股間に手を差し入れる。
「あ……う……」
 文香の腰が速度を落とし、ひきつりながら──動き、止まり、動き──止まった。
「お前……」
 文香は俺の胸に倒れ込み、激しく息を切らした。文香の口の前に垂れた髪の束が呼吸に合わせて前後した。文香の背中にびっしり噴き出した汗の粒を、青い月明かりが照らしていた。
「……どけ」
 息を切らして動かない文香をそっと横にどけ、俺は足を床に下ろした。クローゼットを開け、シャツを取り出し、袖を通した。「水面……」文香は息を切らしながら起き上がり「ゆるして……」ベッドから転げ落ちた。そして俺を見上げた。
「ねえ水面……」
「……最低だ」俺はベルトを締めて靴を取り出し、足を突っ込んだ。
「お願いゆるして……ねえ……お願い!」俺はドアをそっと閉じた。文香の声をそっと遮断した。階段を下り、夜道に出て、タバコに火を点けた。足下の明るさに気づいて顔を上げると、夜空に月が煌々と輝いていた!
 俺の唇は完全に脱力し、タバコがするりと落下した。
 何て美しい。純白に輝く月が鮮明で、全く動かない。漆黒の夜空が澄み切っていて、どこまでも高く、遠い。完敗だ。何て美しい。
 涙が頬を伝った。月に向かって歩き出した。いや、月に歩かされた。鼻水が唇を通過した。俺は完全に脱力した。
 月に向かって246を横切った。外灯のない細道を上り、下りた。ビルの隙間を駆け抜けた。公舎の塀を乗り越えた。ブレスレットが千切れ飛んだ。駐車場を横切って、生け垣を身体ごと突き抜けた。女にぶつかった。女は勢い良く倒れた。俺はなおも突き進んだ。突然ガクン!……として、見ると、女が俺の足をつかんでいた。
「ちょっと!」
 振り向いて見下ろすと、赤いターバンを頭に巻いた女が鋭く俺を見上げていた。眉の鋭い、いかにも気の強そうな、そんな女だった。沈黙のまま次に出される言葉を待つと、鋭く見上げる女の両目が、突然、ふっと、和らいだ。そして掠れ声が静寂に響いた。
「みい、ちゃん?」
 タクシーが背中から通過して、俺は全てを理解した。

 6(遠)

 壁一面のレースのカーテンが純白に輝いている。カーテンを通過した緩やかな光がガラスのローテーブルで砕けている。
 母は深緑色のソファーで脚を組み、タバコをゆったりと蒸かしている。黄緑色のカーペットには口紅で書かれたいたずら書きがあり、奥のピアノの手前では女の子がカーペットに直に座っている。
「今回の転勤、一緒に来ようかどうかずいぶん迷ったのよ?」
 紅茶の香りとともに婦人の脚が目の前を横切った。女の子の目は婦人の動きをじっと追い、母に移り、婦人に戻った。クーラーの音が高く切り替わった。
「いくらここが故郷だと言っても、東京の便利な生活に慣れちゃうとなかなか思い切れなくてね……」
 婦人はティーカップを二つ、オレンジジュースの入ったコップを二つ、テーブルに置いた。女の子は目を落とし、着ている真っ赤なタンクトップの裾をいじり始めた。ピアノの上の日本人形が薄気味悪く笑っている。天井のシャンデリアが消えている。目を戻すと、女の子の視線とぶつかった。俺はすぐに目を落とした。靴下のかかとが薄くなっていた。
「それに、陽子(ようこ)も、もう三年生でしょう?だから……」
 婦人は紅茶を口にしながら俺に目を留めた。
「そうだ……水面ちゃん、陽子のお友達になってあげてくれない?陽子、転校して来たばかりで遊び相手がいないのよ……ね、陽子?」
 女の子は何も言わずに首を横に振った。ポニーテールが現れて、消えた。俺は目を落とした。膝のかさぶたに白く細い糸が混じっていた。顔を上げると、母はやはりタバコを蒸かしていた。
 サイドボードの棚にはくすんだ緑色のナポレオンの瓶が立っていて、その横に、ティーカッブが口を下にして並んでいる。カラン、と涼しい音がして、見ると、母の指につままれた金色のティースプーンがカップの中身を掻き回していた。ジュースの入ったコップの汗が一気にテーブルに流れ落ちた。コップの底の周りには張り詰めた水が溜まっていた。俺は目を落とした。
「智子、高校二年の体育祭、おぼえてる?」
「二年?……そうね……何かあったかしら……もう十年も昔のことだから……」
 母のティースプーンが回転速度を増した。
「ふざけないでよ……私とあなたで英人(ひでと)の取り合いになった時のことよ。ハハ、あのときのあなた、傑作だったわ……」
 目頭がぼんやりと熱くなってきて、不意に、腕をつかまれた。見ると、デニムのショートパンツを履いた黒い脚があった。俺は目を逸らした。つかまれた腕が敏感になった。
「行こ?」
 女の子の掠れた声が頭上に聞こえた。見ると、母が口を歪めて話していた。その向こう、婦人がティーカップを口に当てていた。掠れ声が再び聞こえた。
「行こ?」
 俺は音を立てないように、そっと立ち上がった。そして手を引かれるままに歩いた。女の子の真っ赤なタンクトップの背中でポニーテールが左右に揺れた。
 リビングを出ると、そこはセミの鳴き声だった。女の子はさらに手を引いた。俺はスリッパを足に引っかけた。スリッパは磨かれた廊下でくるくると回り、速度を落とし、やがて止まった。女の子が振り向いた。
「ここ」
 ドアを開け、部屋に入ると、ムッと熱い空気がこもっていた。女の子は窓を開け放した。セミの声が一段と高まった。網戸のすぐ向こう、桑の木が枝を低く垂れている。
「あんたのお母さん、きれいだけどきらい。だあれ、ひでとって?」
「僕の、パパ……」
 女の子は勉強机の椅子を引き、背もたれを前にして腰かけた。俺は目を落とした。足の指を握ったり開いたりした。
「あんたのお父さん、そんなにかっこいいお父さんなの?」
「知らない……」
「どうして?」
「だって……知らないから……」
「知らないわけないじゃない、あんたのお父さんなんでしょ?」
「だって……死んじゃったから……」
 女の子は背もたれに肘を乗せ、頬杖を突いた。
「ふうーん」
 勉強机には真っ赤なランドセルが乗っていて、その下部には白文字で『ふじしろ ようこ』と書かれてある。ベッドには黄色いカバーが被せられ、クマの柄の入った枕が転がっている。
「ねえ、名前、なんていうの?」
「たかさわ……たかさわみなも……」
「みなも?……じゃあ、うーんと……みいちゃん、は、いま何年生?」
「二年生……」
「じゃあ私のほうがおねえさんだ。私は三年生。名前は、藤館陽子」
「ようちゃ、ん……」
「そ。……ねえ、なにして遊ぶ?」
 洋服ダンスの上には汚れたクマのぬいぐるみがあり、勉強机の棚には少女マンガが立てられている。「ねえ、なにして遊ぶ?」陽子が脚を上下に揺すった。
「僕……わからないよ……」
「じゃーあー……おそと行こう!」陽子が立ち上がり、俺の手を引いた。
 少し内股で歩く日焼けした後ろ姿。その背中で揺れるポニーテール。玄関から差し込む逆光の中、ヤセッポッチの陽子がヤセッポッチの俺を引いて歩く。リビングの前を過ぎる時、母の視線が突き刺さった。俺は目を伏せた。
 スニーカーのマジックテープを留め、玄関を飛び出した。タンポポを跳び越えた。ギラギラと青い空。ジージーとセミの声。ひらひらと目の前を横切るモンシロチョウの向こうで、夏の日差しを浴びた真っ黒な陽子が大きく俺に手招きをする。
「こっち!」
 車庫の陰に消えた陽子を追うと、隣家のブロック塀と車庫との隙間が苔むす日陰の細道だった。横歩きに進む陽子の影の向こうには、遥か山の麓まで、青々と水田が広がっていた。

 7(近)

「まさかあんなことになるなんて思わなかったから……」
 山手通りから脇道に入り、急勾配の坂を上る。暗闇に点々と続く外灯。道の右手にはコンクリートの壁があり、左手の林では忙しなくコオロギが鳴いている。
「私、何度もみいちゃんの家にあやまりに行ったんだよ?」
 赤い路面、白いガードレール。右手頭上を走る高速3号から、ガタンガタンとトラックの通過音が聞こえて来る。陽子は道を左に折れて、少し奥まったマンションを指差した。マンションの足下で看板が点灯していた。
『LOUNGE BAR BALZAC』
 テクノの流れる薄暗い店内に入り、窓辺にある革張りのソファーに座り、もたれかかった。窓のすぐ外にバイクが飾られている。
『BMW R90/6 900cc』
 ビールの注がれた細長いグラスが細長いテーブルに二つ並べられた。
「それで、今、どうしてる?」
「うん……」
 右奥の小さなカウンターの向こうで、店員の女がゆったりとタバコを蒸かしている。天井のプロペラの影がその女の表面で回転している。
「叔父さんの仕送りで、大学行ってる……」
「そう……よかった……ほんとに、あのときはごめん……」
「いいよ……俺も、悪かったんだから……」
「……ありがとう」
 カウンターの上のプロジェクターから光線が伸び、白壁に『クルックリン』が映写されている。女はタバコを蒸かしている。煙は光線の中を流れている。
「……ハハハハ!」
 不意に、陽子の掠れた笑い声が響いた。見ると、口を完全に開いて天を仰ぐ陽子の笑い顔が頭上から青いライトを浴びていた。
「みいちゃんが『俺』って……クク……なんか……ククク……ハハハハハ!」
「うん……」
 陽子はそのままうずくまり、なおも笑い続けた。赤いターバンが震えた。女はタバコを蒸かしていた。俺はビールを口にした。ソファーの下から照らし上げるオレンジ色のライトが傾けたグラスの中で乱反射した。綺麗だった。
「ハハハ……ごめん……ハハ……」
 陽子は露な細い肩を上下させ、涙を拭って笑いをおさめると、もう一度、肩を上下させた。
「ハハ……ごめん、バカにしてるんじゃないんだよ。ただ、ちっちゃいころのイメージがあまりにも強すぎるから……」陽子はグラスを手に取り、口にした。ブレスレットが細い腕をかすかに滑り落ちた。
「それで、なんの話だった?」
「うん……ようちゃんは……今、どうしてるの?」
「私?」陽子が膝の上でグラスをもてあそんだ。「道玄坂の『THREE』ってクラブで働いてる。……知ってる?」俺は首を横に傾けた。「ちょっと入ったとこにあるからわかりにくいかも。でも、すごいいい空気流れてるんだよ。くる人も……」
 俺はタバコに火を点けた。首を縦に二回振った。肩を組んだ男女がBMWの向こうを横切り、マンションに入って行った。
「……みいちゃんは、どんな音楽聞くの?」
「俺……」陽子は今度は笑わなかった。「そういうの、よく分からないから……」
「ふぅーん……」陽子がグラスを置いた。「じゃあこれから家こない?いろいろ貸したげるから」
 俺はうなずいて、トイレに立ち上がった。
 赤い光に満たされたタイル貼りのトイレは広々としていて、便器がぽつんと神々しかった。俺は便器から一メートル下がり、アーチを描いて放尿した。一滴も外さず、痛快だった。
 蛇口を捻り、手を打たせた。爽快だった。顔を上げ、鏡を覗くとそこには、縮れウェーブの短髪男がじっと俺を見詰めていた。
 ドアを開け、テクノをトイレに流し込み、蓋をした。陽子はすでに立ち上がり、女と挨拶を交わしていた。赤いターバン、黒いキャミソール、カーゴパンツ、スニーカー。白壁で三人の黒人が笑い、天井でプロペラが回転している。青いライトがテーブルに落ち、BMWが窓に見える。グラスに残ったビールの泡は、取り残されたレースのカーテンだった。陽子が俺の腕にそっと手をかけた。
「行こ?」
「うん……」
 店を出て、見上げると、純白の月がいまだ夜空に煌々と輝いていた。

 8(遠)

 細道を抜け、小川を跳び越え、あぜ道の十字路をいくつも過ぎた。一反先を歩く陽子は鳥のように両手を広げ、夏の日差しを浴びていた。蒸し暑い風がむっと流れ、青々とした稲穂の海をうねうねと巨大に波立たせていた。俺はしゃがみこんだ。稲穂の根元の水面に二匹のアメンボが波紋を立てて跳ねていた。つかまえようと手を伸ばすと、アメンボはものすごい速さで段階的に離れて行った。水が手に温かった。
「みいちゃん、はやくー!」
 見ると、陽子が大きく手招きをしていた。その向こうに遥かに広がる青い水田。振り返れば陽子の家が遠く小さい。陽子の家のある住宅地の左手には小さな雑木林が広がり、セミの音を遠く響かせている。
「はーやーくー!」
 そう呼ばれて走り出した途端、水田にガクンと右足を落とした。急いで引き上げるとスニーカーが泥水を飲んでいた。
「ハハハハハ!」
 足を振って泥水を飛ばし、また走った。右足が地面に着くたび、スニーカーの中の生温い水がガポガポと音を立てた。陽子は両手で腹を抱えて笑った。
 しばらくあぜ道を歩いて行くと、コンクリートの農道に出た。農道は東西に真っ直ぐ風景を貫いていて、それに沿って農業用の川が流れている。西の方には陽子と俺が通う小学校が遠く小さく見える。
「私、あの学校きらい」
 陽子が農道の脇の土手に茂る夏草にしゃがみ込んだ。
「いじわるで、うそつきばっかり」
 陽子のポニーテールが肩から肩へと撫で回った。俺は陽子の隣にしゃがみ込んだ。土手にはびっしりとクローバーが生い茂り、それは農道に沿って続いている。
「ね、知ってる?四葉のクローバーを見つけると、幸せになれるって」
「うん……」
 陽子はヤセッポッチの膝にあごを乗せ、手で探りながら四葉を探した。ミツバチが顔を横切り、川の流れに魚の影が見えた。
「あった?」
「まだ……」
 陽子は目の前に四葉がないことを認めると、しゃがんだまま横に移動した。俺は反対側の土手に移り、四葉を探した。
 うっそうと茂る濃緑の葉を掻き分けて、四葉と思って手に取ると、それはいつでも三葉だった。茎を辿って根をつかみ、プチプチッと土ごと掘り起こすと、そこには褐色のミミズが乳白色の腹をくねらせていた。
 土に頭をねじり込むその太いミミズを引っ張り出すと、ミミズは指の下でくねくねとうごめいた。俺はミミズを路面のコンクリートに押えつけ、鋭く尖った石を見つけ、擦り潰すように切り裂いた。切り口からぐちゃぐちゃの液体が漏れ出した。二つになったミミズはそれぞれに、のたうちまわった。見詰めるほどに気味が悪く、手にした石を投げつけた。
 石はミミズに跳ね返り、しゃがみ込む陽子の背中まで転がった。陽子の腕は、まだ四葉を探っているようだった。日はやや傾き、空は黄色味を帯び始めていた。振り返り、掘り返した土を元の穴に被せると、背中で陽子の声が上がった。
「あった!」
 振り向くと、陽子が一気に立ち上がり、駆けて来て、手にした四葉を差し示した。陽子の指につままれた細長い茎の先に、青々と四枚の葉が、大きく空に開いていた。
「ね?」
「うん!」
 陽子が八重歯を見せて笑った。汗ばんだ陽子から、石鹸のいい匂いがした。陽子はつまんだ四葉をプロペラのようにくるくる回転させた。
「ぅおぉーい!」
 向こうから、白い軽トラックがゆっくりと近づいてきた。小豆色の農協の帽子を被った老父が、しわまで日に焼けた顔を窓から出した。
「こんげ遅くまで遊んでっと、家のしょが心配するぞ。はよ帰れぇ?」
「おじさん、いま何時ー?」陽子が掠れ声で聞いた。空はすっかり傾いた日によって、美しく金色に染まっていた。
「今なぁ……もう六時だわやぁ。おめたち家どこだねぇ?」
 陽子が振り向いて指差した。「あそこー」
「あーの、赤っけぇ屋根ん家かぁ?」
「うん」軽トラックのタイヤの下で、切り裂いたミミズが内臓を飛び出させていた。
「こないだ越して来た藤館さんとこの子だかぁ?」
「うん」
「んー……なら近くまで送ってってやっから、ほら、後ろ乗れぇ」
「ありがとー」
「ありがとうございます」
 陽子と俺は車の荷台に手をかけた。荷台には農薬を散布する機械が積んであり、粉っぽい匂いが鼻にツンとした。後ろタイヤに足をかけ、二人は難なく乗り込んだ。
「おじさん、いいよー!」陽子が運転席の小窓をたたくと軽トラックがガクンと発車した。座る尻が一瞬浮いた。
 ガタガタと、農道が後ろに流れて行く。サワサワと、西日を浴びた田園が後ろに流れて行く。カナカナカナと、そこらじゅうでヒグラシが鳴いている。見上げると、地平線辺りの空がほんのり赤く染まっている。
「みいちゃん、これ」トラックのあおりにつかまりながら、陽子が四葉を差し出した。「これ……あげる」
 そして目を閉じた。
「みいちゃんが、お父さんのぶんまで幸せになれますようにー……はい」
 陽子の手から四葉を受け取ると、俺の口が歪もうとした。川面に反射する空は金色で、二人の影は道に長かった。
 農道の十字路をいくつか曲がり、雑木林を左に見た時、一匹のセミが頭上を越えた。ヒグラシの合唱は線香花火のように反響し、ミンミンゼミの声が右から左から迫り来る。アスファルトの道に出て、信号機を上に見た時、車のライトが点灯した。夕闇の空に外灯が灯り、無数の虫が群がり始めた。
 車が停まり、お礼を言うと、陽子が俺の手を取った。
「みいちゃん、また、遊ぼうね?」
「うん!」
 陽子の家が近づくにつれ、俺はつなぐ手に力を込めた。

 9(近)

 月光の夜道を歩き、松見坂のマンションに到着した。十二階建の現代的なマンション。陽子の部屋は最上階の角部屋だと言う。オートロックをカードで解除し、エレベーターで上って行く。
「どうして私がこんなとこに住めるか、不思議でしょ?」
 俺は陽子の顔を見た。鋭い眉に鋭い目。すっとした鼻筋にやや薄い唇。大人びた輪郭。昔の面影があまりない。エレベーターが到着し、通路を歩き、陽子が部屋のドアを開いた。
「駅から3分、2DK、オートロック、最上階、角部屋」
 陽子がスニーカーを脱いだ。玄関には靴が折り重なるように密集していた。
「どうぞ」
 キッチンを抜け、壁一面がレコードの部屋に入った。陽子が奥で何やらいじると、緑色のライトが壁を丸く照らした。
「それで、ベランダが16平米」陽子が奥のガラス戸を開け放した。「どう?いいでしょ」
 月明かりの下、ベランダには丸テーブルが一つ、鉄製の肘掛椅子が二つ、赤い自転車が一台、鉢植えの木が左右に二本、あった。俺はサンダルに足を突っ込み、ベランダの端に歩み出た。
 眼下に広がる夜景が美しい。光るビルの海、一際明るい車の帯、高速3号を流れる明かり。頭上の月光。陽子がロウソクを片手に部屋から出て来た。
「こんなとこに住んでたら、お金なんていくらあっても足りないよ」
 陽子はロウソクをテーブルの中心に置くと、また部屋に戻って行った。「みいちゃんも手伝ってよ!」
 レコードの部屋を通過し、キッチンに行くと、陽子が鍋を火にかけていた。
「その冷蔵庫から好きなお酒出して持ってって。あ、それからグラスも」
「……何、作ってるの?」
「これ?」陽子が鍋を掻き混ぜた。「ポトフ。昨日の残りもの」陽子が逆の手でグラスを差し出した。
 俺はグラスを受け取り、冷蔵庫からビールを取り出した。コロナ。
「ようちゃんは、何を、飲むの?」
「自分で持ってく」陽子が火を止めた。「いいよ、先に飲んでても」
 俺は陽子の背中に軽くうなずいてキッチンを出た。「あ、レコードかけて!」俺は緑のライトの下、レコードプレーヤーを探した。「今乗ってるのでいいから!」プレイボタンを押した。カチャッという音とともに針が起動し、旋回し、溝に落ちた。フェードインするリズム。
 俺はベランダに出た。月が純白だった。椅子に腰かけ、コロナをビンのままあおった。テーブルの中心に置かれたロウソクの炎が、紫色のガラス容器の中で揺らめいている。その横に置かれた小さなプラスティック製の灰皿の表面に、ガラスの紫が映り込んでいる。
 タバコに火を点けると、陽子が器を片手に出て来た。
「結構おいしいんだよ」
 陽子は陶磁の器を二つ並べ、また部屋に戻って行った。コンソメの匂いが立ち上った。俺はタバコを光らせた。オレンジ色の光が口を目がけてパチパチと浸食した。陽子がグラスを片手に出て来た。ジンソーダ。やはり月は純白だった。
 グラスとビンをカチンと合わせ、ポトフをすくって口にした。上出来だ。
「どう?」
「うん」
 陽子が笑った。
 夜風が心地好く身体を吹き抜け、開け放たれた部屋からテクノのリズムが流れ出している。紫色に照らし出された陽子はターバンを脱ぎ去り、肩に届かない髪を風になびかせた。
「私ね」陽子がジンを口にした。「今、妻子持ちの人とつき合ってるの」
「うん……」
 陽子が指でグラスをもてあそんだ。「その人、夜の過ごし方がすごいうまくて……」陽子がジンを口にした。「そう……最高なの……」
「うん……」俺は音を立てないようにスプーンを置いた。
「THREEで知り合って……お互い、相手の空気を認めてた……それで……」
 陽子が笑った。
「私、なんでこんなことしゃべってんだろう」
「……いいセックス、だった?」
 陽子がうなずいた。「だからつき合ったの」陽子がポトフをすくった。「みいちゃんに言われると、なんか、へん……」陽子が笑った。
「うん……」
 俺はコロナを口にした。陽子が髪を押さえながらポトフを口にした。鉢植えの枝葉が夜風にそよいだ。
「……その人、一流の商社マンで……この部屋も、その人に借りてもらってる……」
「うん……」
 ロウソクの炎が急激に伸び、縮んだ。陽子が脚を組み替えた。俺はコロナを口にした。高速3号からガタンとトラックの通過音が聞こえた。部屋から流れて来るリズムがいつまでも繰り返されている。
「これ、テクノ、だよね……」
「あ、そうだ。みいちゃんにレコード貸すんだったよね。じゃあ、ちょっときて」
 陽子は立ち上がると、部屋の方に歩き出した。歩くたび、陽子の腰が妖艶に上下した。歩くたび、カーゴパンツ越しの陽子の尻が柔らかく弾力的にうごめいた。歩くたび、赤らんだかかとが前後した。
 部屋に入ると、陽子が壁からあちこちとレコードを引っ張り出した。
「みいちゃん、プレーヤー持ってるよね?」
「え……あ……CDのなら……」
「え?」陽子の顔がひきつった。「そう」陽子はレコードを壁に戻した。
 緑のライトに照らされて、フロアーは幽玄に淡かった。テクノのリズムに満たされて、フロアーは幽玄に淡かった。緑のライトを反射して、陽子の髪が艶やかだった。髪が揺れるたびに見え隠れする、陽子の首筋が艶やかだった。腕を動かすたび隆起する、陽子の肩が艶やかだった。キャミソールの曲線で分かる、陽子の腰が艶やかだった。フロアに座って軽く押し潰れている、陽子の尻が艶やかだった。
 俺は陽子に手を伸ばした。「よう……」陽子が振り向いた。
「これは?」陽子がCDを差し出した。「あ……」俺はそれを受け取った。「うん……」陽子が立ち上がった。
「それ、いいよ。AOA。BALZACで流れてたやつだよ、覚えてる?」
「うん……」俺はそれをライトに照らしてみた。「ありがとう……」
 陽子が笑った。少し遅れ、俺も、笑った。
 ベランダに戻り、少しの間飲み直した後、俺は玄関で靴を履いた。陽子は脚を休ませて立ち、それを見ていた。陽子の背後には閉められたドアがあり、それはレコードの部屋の隣の部屋だった。
「そのドアは?」
「これ?」陽子が髪を掻き上げた。「ベッドルーム」
「見ても……」陽子が首を横に振った。「だめ」
「うん……」俺は笑みを繕った。「じゃあ、これ、借りるね……」俺は玄関のドアを開いた。「どうやって、返せば、いいの?」陽子がドアの外まで見送った。
「ここに持ってきて。いつでもいいから」陽子が笑った。
「うん」俺も本当に笑った。
 マンションを出て、山手通りに出ると、東の空が白んでいた。スズメの声が響き、カラスの声が響き、一匹のセミが鳴き始めると、つられて他のセミも鳴きだした。
 道を下り、手にしたCDを朝焼けの空にかざした。傾けるたびに七色を放つその表面には、背後の陽子のマンションが、極めて鮮明に映し出されていた。
go next page