完結した夏
1998年 木戸隆行著
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2000年4月号 CM掲載作品
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2000年4月号 CM掲載作品
19(遠)
「きれいなお家」陽子がビニールバッグを片手に見惚れた。
二階建ての白い家。青紫色のレンガ塀。田舎には珍しいモダンな外観は、周囲の家々から抜きん出ていた。
「僕、とってくる」俺は誇らしい気分で玄関の大きなドアを開けた。
ひんやりとした階段を駆け上り、寝室の引き戸の前で躊躇した。だが、目をつむり、思い切り戸を開き、手探りでシーツをつかみ、ぐるぐると丸めた。そして目を開けた。忌まわしい痕跡はシーツの中に収まっていた。
洋服ダンスを次々に引き出し、水着とタオルを引っ張り出した。部屋を出る時、気にかかって振り向いた。障子越しの淡い白光を浴び、シーツを剥がされた布団が重苦しく畳に横たわっていた。
俺は階段を駆け下りて、サンダルに足を突っ込み、夏の日差しへ飛び出した。陽子は道にしゃがみ込み、側溝の縁に根を張るネコジャラシを指でもてあそんでいた。
「とってきた?」
俺は手に持つ荷物を掲げ示した。陽子が口を横に大きく開いて笑った。
ビーチサンダルをペタペタと鳴らして家から農道を一キロほど歩くと、市民プールに到着した。農道を挟んでプールの向かいには清掃工場があり、高く空に突き出した煙突の先から白煙が薄く立ち上っていた。
陽子がオレンジ色の券売機の前で、ショートパンツのポケットに手を突っ込んだ。「みいちゃんのぶんも買ったげるね」百円玉を不器用な手つきで券売機に投入し「お母さんがそうしなさいって」出て来た券を俺に差し出した。
「ありがとう……」
入口の窓には入場係の老夫がいて、ニコニコしながらこちらを見ていた。「はい、二人ね」老父の後ろには発色の悪いテレビがあった。陽子と俺は券を手渡し、男子用と女子用の更衣室に分かれた。
更衣室は広々としていて薄暗く、背の高いブリキのロッカーが列をなして並んでいた。ロッカーの前では何人もの男が着替えをしていて、俺の隣で着替える男は筋ばった尻をうごめかせていた。
俺はロッカーのドアを開け、服を脱ぎ、スクール水着に履き替えた。床に敷かれた人工芝は古びていて水はけが悪く、素足にヌルヌルとした。メッシュの帽子を被り、荷物をロッカーに詰め込み、鍵をかけた。鍵には白いゴム紐で黄色いプラスチックの番号札が結びつけられていて、俺の番号は『6』だった。鍵を手首に通し、プールサイドに跳び出すと、空は青々と快晴だった。
胸まである消毒用のプールに浸かり、身体がビリビリするのを我慢しながら十まで数え、出て、真上でギラつく太陽に目を細めると、陽子が更衣室から駆け出して来た。藍色のスクール水着の胸に縫いつけられた『ふじしろようこ』の名札が消毒プールに浸かり、地の色が透けた。
「みいちゃん、何メートル泳げる?」陽子が準備体操をしながら聞いた。
俺は陽子の動きを真似た。「五十メートル」
「うそ」陽子が屈伸した。俺も真似た。
「うそじゃないよ、ほんとだよ」「うそだね!」「ほんとだよ!だって、山本先生にほめられたもん!」陽子が前屈した。上下するメッシュの帽子から、所々髪が飛び出している。
「……先生の名前なんて、しらない」
陽子が深呼吸した。少し遅れて俺も真似した。
プールサイドについた足跡が、みるみる蒸発して消えて行く。「私なんて、300メートル泳げるんだよ!」陽子がプールに駆け出した。俺も後を追いかけた。「うそだー!」陽子がプールサイドで立ち止まった。
「じゃあ、競争だよ!」そして飛び込んだ。「いいよ!」俺も同じところから飛び込んだ。
水の中は明るかった。エメラルドグリーンがかった何本もの脚や腹や腕がスローモーションで動いていた。頭上の水の表面が揺らめくたびに、何本もの光の筋が差し込んだり消えたりした。
前方で、気泡をまとった陽子の身体が水平にクロールで泳いでいた。俺も負けじとコンクリートの底を蹴り、水をつかむようにクロールした。
俺は息継ぎが苦手だった。水面から顔を上げ、息を吐き出してから吸う時に、必ず小さな水粒が気管支の奥に侵入した。
俺はバタ足が苦手だった。手を動かすことに集中すると足が止まり、足を動かすことに集中すると手がぎこちなくなった。
しばらく泳いで行くと、ターンを終えた陽子がゴボゴボと音を伴って、頭から足の方へと過ぎて行った。少しして、俺の指にも壁が当たり、ターンした。
俺の身体はすぐに重くなった。顔を上げるたびに、自分の呼吸音が耳についた。ゴボゴボと水の音が耳についた。プールの底ではハチの巣のような水紋が揺らめき、そこを自分の影が泳いでいた。水を掻く腕が重くなり、水を蹴る足が重くなり、身体が沈んで息が苦しく……
「バアッ」
俺は足を着いた。人々の声が耳に開けた。揺るがない世界が目に開けた。頭上に青空があり、太陽がギラギラと揺らめいていた。だが、地平線近くの南の空には、どす黒い雲があった。
不意に、俺の背中に何かが触れた。振り返ると、水に潜っている陽子の手だった。
陽子の手は俺の背中から脇腹に移り、上に向かい、脇の下に入り、強烈にくすぐった。俺は身をよじらせた。笑い転げた。陽子の手はなおもくすぐり続けた。俺は悶えながら水の中に倒れ込んだ。
口から気泡がどっとあふれた。俺の身体はスローにうずくまった。陽子の手はさらに脇の下深くに侵入した。俺は脇を絞め、身をよじり、陽子の手をつかみ、引き抜いた。見ると、水中の陽子が頬を膨らませて笑っていた。
「バアッ……ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ……」
陽子が笑いながら俺の背に覆い被さった。俺は陽子を背負ったままスローに水中を走り、笑った。陽子の水着がスポンジのように柔らかく背中に密着し、陽子の腕が肩に軽く食い込んだ。最高だった。
俺は陽子を背負ったまま水に倒れ込んだ。陽子を痛い目にあわせるためだった。水中でスローに倒れながらしばらく陽子を溺れさせ、そして両足を放した。陽子は両手で水を掻き、急いで水上に顔を出した。
「バアッ、ゲホッ、ゲホッ……ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ……」
陽子の笑い顔の表面を、滑らかに水が引いて行った。南の空のどす黒い雲がさっきよりも膨らんでいるように見えた。
「みーいーちゃーん!」陽子がまた俺の脇に手を伸ばした。俺が笑いながら背を向け、逃げようとしたその瞬間、一筋の鮮明な雷光が、南の大地に、突き刺さった。青く鮮明な光の糸が、天と地とを、一本に、繋いだ。
まばたきをした。光の糸は網膜に焼きついていた。直後、地を裂くようなバリバリッという乾いた雷鳴が轟いた。どす黒い雲はみるみる膨れ上がり、まさに迫り来る感じだった。
俺は振り返った。陽子の顔が強張っていた。だがすぐに、ギラギラと好奇の光が目に差した。その光る目は、俺の身体を舐めるように下降し、脇の下に留まり、じっとじっと凝視した。
「きゃあー!」手を伸ばし、陽子が迫った。
「わぁー!」俺は両手をあげ、逃げた。
人々が続々とプールサイドに上がって行く。雷光が突き刺さった。どす黒い雲はものすごいスピードで膨らんで来る。雷光が突き刺さった。陽子が背後に間近に迫る。
雷光が突き刺さった。
俺の身体が船首のように水を掻き分ける。二人だけになったプールに、一粒の雨が落下した。陽子の指が背に触れた。どす黒い雲はすでに頭上近くまで来ていた。二粒目の雨が落下した。すぐにパラパラと三粒目、四粒目が続き、そして、堰を切ったように、大粒の雨が、一気に大地を叩きつけた。
プールの水面は叩きつける雨でハチの巣のように陥没し、プールサイドは跳ね返る雨で白く霞んだ。プールサイドを囲う白い柵の向こうでは、遥かに広がる水田が世紀末の嵐のようにセピア色に波立ち、ざわめいた。肩や背中に叩きつける雨粒が、氷のように、硬く、鋭い。
雷光が辺りを強烈に照らした。
「みいちゃん!」陽子の手が、ついに俺の腕をつかんだ。俺は振り返った。雨に激しく顔を打たれて、陽子の両目はほとんど閉じている。
「……あ……て……!」雨音が強過ぎて聞こえない。「なーにー!」「……がれ……!」「なーにー!」陽子の口が近づいた。
「あの人が、プールからあがれ、って!」
陽子が指差す先を見ると、監視員の男が両手を口に当て、頻りに何か叫んでいた。直後、雷光が監視員ごと辺りを強烈に照らした。
陽子と俺は更衣室の屋根の下に避難し、しばらくプールに叩きつける雨を見ていた。周囲はザーという激しく、しかし優しい雨音で埋め尽くされ、地平線の山々は霞み、不気味に暗い大地は白い靄に覆われていた。空を覆う暗雲の流れは速く、雷光が世界を頻りに照らしていた。
「ねえ、みいちゃん」
プールサイドを叩きつけた雨が分厚い水の板となって側溝に流れ込んでいる。流れ込んだ雨水は勢いよく左から右へと側溝を流れ、曲がり角に来ると、勢い余ってあふれ出している。
「どうして学校なんて、あるのかな」
「うん……」
あふれ出した水は、地面のブロックの継ぎ目に生えている夏草を揺さぶり、そのまま柵の外に流れ落ちている。隣の陽子は嵐に波打つ水田より向こう、地平線に連なる山々よりもっと遠くを、ぼんやりと見詰めている。
「……このまま、ずっと夏休みならいいのにね」
遠くで雷鳴が轟いた。
空は依然、どす黒い雲だった。激しい雨音が止むことなく続いていた。だがそれは依然として優しく、また不思議に静かだった。
しばらくして、プールの閉鎖が告げられた。陽子と俺は歓声を上げて屋根を飛び出し、天然の豪雨のシャワーを身体に浴び、それから更衣した。プールの入口で落ち合った後、陽子が電話ボックスから家に電話した。婦人が車で迎えに来ることになった。
入口の前の階段に座る、陽子の長い髪が濡れてペタンコだった。陽子はヤセッポッチの脚を雨の中に伸ばし、打たせていた。依然として、叩きつける雨は激しさを緩める気配がなかった。陽子は脚を打つ雨を眺めていた。
「私、お父さんが転勤ばっかりだから、友達ができてもすぐにバイバイしなくちゃいけなくて……みいちゃん、転校したこと、ある?」
俺は陽子の横顔に首を振った。
「先生のあとについて教室に入るとき、すごいこわいんだよ……教壇に立つと教室じゅうの目が私にあつまって……それで先生が紹介するの……『今度転校して来た藤館陽子ちゃんです』……そのあいだずっと私、先生の話が終わらないように祈ってる……だって、つぎは私が話さなくちゃいけないから……なにも話すことなんてないのに……」
陽子の伸ばした脚がすっかり濡れている。ビーチサンダルの鼻緒を挟むように、足の指を握ったり伸ばしたりしている。
「それで、やっとできた友達に、お別れ会で……あ、きた!」
ヘッドライトで雨を貫きながら、緑色のシビックが近づいて来る。陽子が脚を引っ込めて立ち上がった。俺はバッグを手に持った。
「お母さーん!」陽子が両手を大きく振った。
シビックは門の間で曲がり、階段のすぐ前に来て、停止した。陽子と俺は車に駆け寄り、後部座席のドアを開け、素早くシートに乗り込んだ。婦人が運転席から振り向いた。
「大変だったわねぇ。さっきテレビでやってたけど、台風が進路を変えたんだって」
「へえー」陽子が助手席のシートに手をかけ、身を乗り出した。
婦人は前に振り向き、発車させた。
門を抜け、農道を進み、フロントガラスに激しく落ちる分厚い雨を、素早くワイパーが払い除ける。婦人の両手がステアーをしっかり握る。
「水面ちゃん、お母さんは?」
バックミラーに映った婦人の顔が、注意深く進路に目配せをしている。車は豪雨の中を突き進んでいる。左右の水田が風雨で悶えている。
「いません……」
陽子が俺に向き返った。「いない?」「うん……今日は、いない……」
「あら……」婦人がミラー越しに俺を見た。「困ったわね……」ワイパーが雨を払い除けた。
陽子が俺に身を乗り出した。「じゃあ今日は家にとまりなよ!」そして婦人に乗り出した。「ね、お母さん!」
しばらく沈黙した後、婦人は複雑な声で俺に泊まって行くように言った。陽子は喜びの声を上げた。車は進んでいた。
雷光が瞬き、雷鳴が轟いた。車内は屋根を叩きつける雨音で満たされていた。俺は婦人の後頭部にお辞儀して「ありがとうございます」とつぶやいた。
20(現)
開店前のスーパーの階段で朝を迎えた。空は非常に白かった。
発見されたものを発見する時代が到来し、人は人生ではなく社会をこなしていた。早朝に犬は散歩され、死は生によってしか求められず、生は死によってしかこなせなかった。精神の最高態は死以外の何物でもなく、少なくとも三百部の新聞はジャージ姿で配達され、生は歴史的事実に名残りを残すだけだった。ありふれたもの以外に真実はなく、2tトラックが靄に霞む鳥の音をかん高く引き裂いていた。
融資限度額とは何だ?
財布には二枚の紙切れがあり、それは俺自身の維持費だった。ビルより頭上には、行使できない自由が果てしなく広がっていた。
「今をこなすことも不可能だ!」
俺は飛び上がるほど勢いよく立ち上がった。なぜなら、アナロジーが細分化の限界を超え、ついに回帰したから。集積所に山積みされたゴミ袋が、カラスによってついばまれたから。
俺はある思いを胸に抱いていた。それは『ある思い』以外の何物でもなく、自分に説明するまでもない『俺のある思い』だった。
そして歩く!
解決できない涙は、だからそれを拭うしかなかった。
21(近)
目を覚ますと、陽子が俺の胸で眠っていた。肩に届かない黒髪が陽子の横顔を覆い、二人の身体に巻きついたシーツが朝日を浴びて純白だった。俺は陽子の髪をそっと掻き上げ、赤子のようにむくんだ寝顔に口づけた。
足下には二人の衣服がもみくちゃに転がっていて、そのすぐ横に、陽子の赤らんだかかとがシーツからはみ出している。俺は足でズボンを引き寄せ、ポケットからタバコを取り出した。
「シュ」
俺の親指の先で希薄な炎が伸びている。俺の鼻先で紙タバコが食い入るようにそれを見詰めている。陽子の寝息がかすかに聞こえた。
炎をタバコに近づけて、部屋の白壁を見渡した。右手の壁は一面がクローゼットになっていて、ベランダ側の突き当たりには化粧台がある。化粧台の少し左には小さな四角い窓があり、はめ込まれたすりガラスを朝日が白く輝かせている。
俺は煙を吸い込んだ。壁の所々では写真や絵画がディスプレイされ、天井には二基のスポットライトが取りつけられている。俺は煙を吐き出した。煙は霞みながら、差し込む朝日の中を泳いだ。胸の陽子が目を覚ました。
陽子は腫れぼったい二重まぶたを重そうに開き、ぼんやりと一点を見詰め、閉じ、また開いた。まぶたを開閉しながら視線を左に移し、戻し、もう一度移し、そして俺の目に向けた。瑞々しくむくんだ口もとがゆっくり笑い、陽子はガラガラの声でささやいた。
「おはよう」
「おはよう」
陽子は裸の腕を伸ばし、俺の口からタバコを抜き取ると、自分の口に移してくわえた。かすかにジュッと音を立て、タバコの炎が浸食した。陽子は口から煙を吐き出し、タバコを俺の口に戻した。
「コーヒー、飲む?」
陽子が手を伸ばしてタオルケットをつかみ、身体に巻き、脇の下で留めて起き上がった。
「んん」
陽子がベッドから足を下ろし、髪を掻き上げ、キッチンへと歩いて行った。俺は深くタバコを吸い込んだ。セミの声は耳を澄まさなければ気づかないほど遠く、かすかだった。
やがて芳醇な香りを漂わせ、陽子がマグカップを手に戻り、傍らに座った。俺は手渡されたコーヒーを口にして、胸の上に置いた。
「みいちゃん」横向きの陽子の輪郭が逆光に消え入るようだった。「ん?」
陽子の消えかけた輪郭がうつむいた。「泣いてもいい?」俺はコーヒーを床に置き、陽子を胸に抱き寄せた。「いいよ」
陽子が声を上げた。
抱き寄せた陽子の頭が小刻みに震えた。抱き寄せた陽子の肩がしきりにひきつった。俺の胸に熱い水が広がった。陽子の首筋に血管や筋が隆起し、陥没した。俺は陽子の頭を繰り返し撫でた。
「うっうっ……うっ、ううっ……」陽子の嗚咽が俺の胸を限りなく締め上げる。「ようちゃん……」陽子の全身が震えている……何て愛おしい……「うっあ……ううっ、うっ……えっ……」陽子を抱く腕に力を込めた。
「泣けよ、受け止めてやるから」
部屋中に陽子の声が解放された。
俺の肩をつかむ陽子の手に力がこもり、俺の胸に陽子の熱く湿った息がかかる。俺の胸に熱い水が広がり、俺は髪ごと陽子の頭に口づけた。陽子の首筋が、肩が紅潮し、汗をびっしり噴き出している。俺は髪ごと陽子の頭に口づけた。
壁で四角い窓が光っている。
陽子は間断なく肩をひきつらせ、鼻をすすり、顔を俺の胸から少し上げた。俺は陽子の泣き顔に貼りついた髪を、手の腹で丹念に剥がした。閉じられたまつ毛に涙の粒がしがみついていた。
俺は両手でそっと液体まみれの陽子の顔を引き寄せて、まぶたを、頬を、舐めて拭いた。歪んだ口もとを濡らす液体を舐めて拭いた。陽子が歪んだ唇で俺の舌を柔らかく挟んだ。そして熱い舌を絡ませた。
そのまま抱き合い、そのまま眠った。
俺は再び目を覚ました。窓は金色の光だった。しわくちゃのシーツもまた、金色だった。隣に陽子の姿はなかった。
そして天井や壁や床もまた、金色だった。
ああ……俺は、窓から広がる金色の光の世界の中で、こうしてベッドに横たわっている……まるでマーラーの緩やかな管楽に包まれるように……俺の身体はベッドごとゆっくり宙に浮き、あるいは地に沈み、そして回転する……俺は両手を開く……俺の身体はベッドを離れて上昇し、シーツは腰から滑り落ち、全く自由な裸体が金光に献上される……光は暖かく、優しく、全くの輝きで……背後で二千年の歴史が二秒で映写された後、巻き終えたフィルムの尾が映写機を鞭打っている……俺は顔を戻す……光の中からカラスの黒い羽根が舞い落ちて来る……それは羽ばたく天使の羽根で……天使は陽子の泣き顔だった……
俺はタバコをくわえて点火した。耳を澄ますと、隣のレコードの部屋から、マーラーが本当に流れていた。
『本当に』?……それは知覚を拒絶できないもの……つまり俺であって俺でないもの……俺以外の俺であるもの……これが全ての混沌を巻き起こす原因……このこれがどれを指すこれかという問題……だがウィトゲンシュタインは言う……いや、言った……全てのものを疑うと何も疑えなくなる……疑うためには疑うという行為それ自体を信じなければならない……例えばこのタバコの煙は存在するだろうか……いや、この視覚は存在するだろうか……だが、この問いを立てている俺は存在していなければならない……つまり俺が時速二千キロ以上で過去から遠ざかっている……この部屋に居ながらにして……だから揉み消すのだ……繋がらないことを、次々に繋げて行くのだ……その可能性など紙一重でしかない……「見ろ、光を!聞け、旋律を!味わえ、肉を!」
「それを待っているに違いないんだ……」つぶやいて、煙を深く吸い込んだ。
みいちゃん!
金色の窓の外、ベランダから、陽子の掠れ声がした。
俺はタバコをくわえたまま裸でベッドを降り、キッチンを通り、マーラーの流れるレコードの部屋を抜け、ベランダに足を下ろした。金色の光を浴びた陽子がタオルケットを身体に巻き、椅子に腰かけ、空を見ていた。「何?」
陽子が振り返って微笑した。
「おはよう」
「おはよう」
俺はそのまま歩き、もう一つの椅子に腰かけた。「やっぱり解放とは、精神のことらしい」
「見て」陽子の顔が金色の光をいっぱいに浴びていた。「神さまの時間」
横に細く棚引く雲があって、空は金色だった。
「ああ」俺は灰皿に灰を落とした。「その方がいい」
陽子がテーブルのコーヒーを口にした。「ねえ」俺は煙を吸い込んだ。「ん?」陽子が俺に目を向けた。「今日、THREE、くる?」
俺は煙を吐き出した。「外人みたいな日本語だな」俺はタバコを揉み消した。「行く」
陽子が笑顔で立ち上がった。「じゃあ、準備しよーっと」陽子が部屋に消えた。
テーブルに残された陽子のマグカップを手に取り、口にした。コーヒーはややぬるく、酸味が強かった。目前で、空はやはり金色だった。俺の胸や腕や組んだ脚もまた、金色だった。マーラーの管楽は止んでいた。
みいちゃん!……部屋の奥から声がした。……私、別れることにしたの!
「……何で?」
何でって……何でも!
「……この部屋は、どうすんだ?」
出る!
「……出て、どうすんだ?」
なんとか、なるよ!
「……ならなかったら?」
「なーるーのー」陽子が戻って来た。「ね?」陽子が首を傾けた。
そういうことか。
俺は陽子を膝に座らせ、後ろから抱いた。「じゃあ、ここを出るな」
少し間があって、うなずいた陽子の顔を後ろに向けさせ、唇を重ねた。
何とかなるさ……ならなくなったら、何かを止めればいい。
22(遠)
陽子の家のリビングのテーブルに、婦人と陽子が夕食を運んでいた。俺のビーチサンダルはその家の玄関にあった。
「ねえ、お父さんはー?」「今日は仕事でお泊まりよ」「えー、なんでー?」
俺は落ち着かなくソファーに座り、今にも尻が浮き上がりそうだった。「何でって……ねえ水面ちゃん?」トレーを手に入って来た婦人が微笑んだ。「はい……」俺はうつむいた。
「みいちゃん、知ってるの?」陽子がドアを閉めた。
楽しげな食事風景だった。陽子は絶え間なく喋り、婦人はいちいちそれに答え、箸の進みは非常に緩慢だった。俺は沈黙のまま、慎重に食事のペースを合わせていた。
「……ねー、みいちゃん?」しばらくして、食べ終えた陽子が首を傾けた。「うん……」まだ途中だったが、俺も箸を置いた。
「もういいの?」「はい……」「じゃあ陽子、運ぶの手伝って?」「はーい」
「あ、あの、僕も……」
「いいのよ、水面ちゃんは座ってて」「お母さん、これは?」「ええ、それもお願いね」
すっかりテーブルが片づくと、婦人が番茶を煎れた。
「ごちそうさまでした……」「お粗末様でした」「いえ、そんな……」「みいちゃん、お母さん、料理、じょうずでしょう?」「うん……」「私ね……」
婦人が番茶を両手に、優しく照れていた。陽子は目をギラギラさせて喋り続けた。シャンデリアが柔らかな色で部屋を照らし、外では夜の虫が柔らかに鳴いていた。すでに台風は過ぎ去っていた。
「その頭」婦人が真顔で俺を見ていた。「お母さんに切ってもらったんでしょう?」
俺はしばらく考えてから、注意深くうなずいた。「やっぱり……」
陽子が身を乗り出した。「やっぱり、って?」
「ううん……」「ねえ、やっぱり、ってなあに?」「……そうだ……陽子、早くお風呂に入りなさい?水面ちゃんが入れないから、ね?」「お母ぁさーん」「上がったらお話ししてあげるから、ね?ほら、早く?」
陽子が立ち上がった。「ぜったいだよー?」「はいはい。ほら、早く早く」婦人が追い出すように陽子の背を押した。「はぁーい」と、しぶしぶ陽子が部屋を出た。
陽子が浴室に入るのを確認すると、婦人は背中でドアを閉めた。「私もね、水面ちゃんのお母さんに、今の水面ちゃんみたいな頭にされたことがあるのよ……」
婦人は本棚から一冊の本を取り出して、俺の隣に座った。表紙に卒業アルバムと書かれてあった。婦人は俺の目の前にアルバムを置き、パラパラとめくり、止めた。
「これが、それよ……」
婦人の指が一枚の大判なモノクロ写真を指した。頭にハチマキを巻き、半袖半ズボンの体操服を着た三十人ほどの学生が、グランドで整列している写真だった。婦人の指はさらに写真の上をなぞって行った。「それで……これが、私」婦人の指が、ある一人の学生を指して止まった。
「ね?」
その、豆粒大の学生は、ブルマーを履き、体操服の胸が盛り上がってはいるが、首から上はどう見ても丸刈りの男だった。その、恐らく女学生、は今にも泣き出しそうな表情で写っていた。
「これが……おばさん……」俺の目頭が熱くなった。「そう。それで……」婦人の指がその学生の斜め後ろに写っている学生を指した。「これが、水面ちゃんのお母さん」
それは一目で母だと分かった。ハチマキをして、お下げを垂らしている母は、寒気がするほど澄ました顔で写っていた。
「どうして……」俺の目から写真に涙が落ちた。「どうしておばさんがこんな目にあわなくちゃいけないの……」もう一粒写真に落ちた。婦人が俺の背を擦った。
「私もいけなかったのよ……美佳子が英人さん……水面ちゃんのお母さんが、水面ちゃんのお父さんと仲良くしてる、って知っていたのに……二人がおつき合いしている、って知っていたのに……」
俺は鼻をすすった。「……ママから、パパを、とっちゃったの?」
「ううん、そうじゃなくて……水面ちゃんのお父さんが……その……気の多い人、でね……その……私も、気が弱いから……その……断り、切れなくて……」
俺は鼻をすすり、婦人の顔を覗き込んだ。「……とっちゃったの?」
「違うのよ……その……一度だけ……仲良く、しちゃったの……」
婦人が俺から天井に顔を背けた。
「体育祭の最中だったわ……その現場を、美佳子に見られてね……あの時の美佳子の恐ろしい形相、今でもはっきり覚えてるわ……美佳子は私に詰め寄って、髪を力一杯つかんだわ……そのまま廊下を引きずって、階段を引きずって……校舎中を引きずり廻したわ……私、痛くて、恐ろしくて、何度も何度も『ごめんなさい、ごめんなさい』って泣き叫んだの……その声が誰もいない校舎に響くたび、美佳子は悲鳴のような声を上げて私の身体を蹴り上げた……何度も、何度も、何度も……」
婦人は天井を見詰めながら身震いをした。
「それで……教室に入って、机からハサミを取り出した……私は殺されると思った……美佳子がハサミを私の頭に当てて……ザクッ、と音がしたとき……私は、思わず失禁して……でも、美佳子は殺さなかった……教室の床は私の髪で埋め尽くされて……私の頭は丸刈りになって……それで、美佳子は私に、顔を突き合わせてこう言ったの……その頭で体育祭に出たら、許してあげる……」
婦人は恍惚とした表情で写真に目を戻した。
「そう美佳子は……美佳子は、許してくれたのよ……あんなひどい仕打ちを……何て優しい……私がその立場だったら、許せたかどうか……ううん、無理ね……まして、友達でなんて、いられない……この時だけじゃないわ……結婚してからだって……」ハッと口をつぐんだ。
異様な空白だった。
俺は身を乗り出して、婦人の顔を覗き込んだ。婦人の目は俺だけを避けるように泳いでいた。
「……結婚してからも、パパと、仲良くしたの?」
婦人が危なっかしい手つきで番茶をすすった。
「う、ううん、そうじゃなくてね……その……と、とにかく美佳子を恨まないであげてね?美佳子は、その……感情に対して一生懸命なのよ……その……水面ちゃんの頭をそんな風にしちゃったのも、愛情の裏返しなのよ……分かるでしょう?」
俺はゆっくりとうなずいた。婦人は慎重な手つきで番茶をテーブルに戻した。
「おばさんは、ママを、ゆるして、くれますか?」
「許すだなんて……」婦人の顔が悲しげに和らいだ。「……水面ちゃんは、お母さん思いの優しい子ね」
婦人はいたわしげに微笑んで、俺の頭を優しく撫でた。
「水面ちゃんは優しい子だから、お母さんの言うことを良く聞いて、いっぱいお手伝いしてあげてね……美佳子は強がっていたけど、英人さんは死んだ時に今のお家しか残さ……こんなこと水面ちゃんに言っても仕方がないわよね……とにかく……美佳子が一人で水面ちゃんを育てていくっていうのは、すごく大変なことなのよ……だから、水面ちゃんはできるだけお母さんを助けてあげてね?ね?おばさんのお願い」
俺は婦人の顔を真っ直ぐ見上げた。婦人の顔の向こうでシャンデリアの明かりが柔らかだった。
「はい」
23(近)
道玄坂から細い路地に入り、地響きに向かってしばらく歩いた。左を歩く陽子の身体が外灯の光の円錐をいくつも通り抜けた。陽子の顔の凹凸が、光を受けるたびに陰を作った。やがて、赤い光を夜道に放射する地響きの穴が見えた。
『club THREE』
ネオンサインがコンクリートの壁で発光している。階下に続く階段は、ぼんやりとした赤い光に満たされている。
陽子の背中に続いて地響きの震源地へ下りて行くと、行き止まりに、巨大な黒い鉄扉が閉ざされていた。
陽子の手が鉄扉に触れた。手の腹が押し潰れ、二の腕が筋ばり、陽子が全身でもたれかかった。
扉が重々しく押し開かれ、隙間から轟音が漏れ出した。
陽子は中に入り、受付の女と話をした。しかし、内容はリズムで聞こえない。恐らく、仕事のことと俺のことだろう。俺はドアのところで待った。
厚さ七センチの鉄扉は手に冷たく、重く、力強く閉じようとする。俺は爪先を引っかけて待った。受付の女の頬が笑い、俺に目配せした。俺は目を逸らさなかった。陽子が俺に振り返った。話がついたらしい。俺は受付の女に会釈して爪先を外した。鉄扉はゆっくり、重々しく、完全に、閉じた。
陽子が口を俺の耳に近づけた。「じゃあ私、仕事するから、みいちゃん、中で遊んでて?」俺はうなずいて奥に進み、もう一つの扉を開いた。爆風が鼓膜の奥を貫いた。
点滅する暗がりが、ハウスの衝撃で満たされていた。
躍動し、脈打つ肉体が点滅している。沈み、翻る肩が点滅している。フロアを埋め尽くす無数の肉体が、いや、ハコそのものが、カエルの解剖で見た心臓だ。
何て心地いい一体感。
濃密な宇宙で胎児がうごめくように、あるいは無限の合わせ鏡に吸い込まれるように、圧倒的なリズム波が、頭蓋骨から脳をはみ出させる。
ある身体はグラスを片手に、ある身体はペットボトルの水を手に、またある身体はもう一つの身体と密着し、全ての身体は溶け出したユートピアのようなこの空間に全く身を委ねている。
何て心地いい一体感。
陽子はバーカウンターの中にいた。カウンターには丸がりのゲイが尻をついて身体を揺らし、その横で交わったリングが蛍光しながら回転している。カウンターの横で踊る女のドレスの脇からは、乳房の側面が覗いている。
「なに飲む?」
左耳近くで掠れ声がした。陽子がいつの間にか隣に立っていた。
「……テキーラ」
「テキーラの、なに?」
「分からない」
「じゃあ……トマトジュースで割ったのは?」
「それでいい……名前は?」
「ストローハット」陽子が俺の腕に触れて微笑み、カウンターへ歩いて行った。
ブースの男の鋭い視線がフロアを伺う……来た!最適な移行に歓声が上がる。女のだぶついた肉が揺れる。ゲイの腰がしなる。男の爆発した青い髪がざわめく。
俺の身体の底からも、こらえ切れない躍動が沸き起こる。
そうか……身体はリズムだ……だがなぜだろう……身体の躍動とは正反対の、この、精神の静けさは……まるで早朝の靄の中で波紋一つ立てない湖面のように……そして……そうか……俺は身体をまるごと持って行かれたようだ……いや……身体から解放されたようだ……すぐ目の前で俺と同じ動きをするこの白人女……ジョディーフォスターを少しセクシーにしたような……じっと俺の目を覗き込んでいる……いや、目の中のこの静けさにいる俺を見詰めている……そして俺もこいつの中のこいつを見詰めている……遥か遠いところでリズムが流れ、そこで俺の身体とこいつの身体が触れるか触れないかの距離で踊っていて……だが、精神体の俺とこいつは湖上に浮かび、雲のような姿で性交している……女の目の奥が覗いている……女の目の奥を覗いている……『精神的性交』?……それもいい……陶酔がある……
突然、腕をガクンと後ろに引かれた。陽子だ。陽子は女を一瞥し、俺の手にグラスを持たせると、身体を密着させて踊り出した。女は軽く微笑して、踊りながら離れて行った。いい時間だった。
今度は陽子が俺に仕かけた……目を合わせ、陽子の中の陽子で俺の中の俺を覗き込む……合わせた腰を水のように波打たせ……俺の身体を手で辿り……そして陽子の表情が次第に艶を帯びて来る……濡れた唇……微笑を含んだ口もと……瑞々しい肌……誘惑の目……それらが俺を子宮のように包み込み……陶酔させる……
陽子はあの女が俺からすっかり離れたのを横目で確認し、もう一度俺を見て、振り返ってカウンターに戻って行った。だが、陶酔は、リズムによって、なおも時空を無限に広げつつあった。
点滅する暗がり。間隔狭まるロッキーの木霊。身体の先端を巡るテキーラ。そして肉体、肉体、肉体。
やがて宇宙が込み上げて、すべてはまるごと脈打った。
24(遠)
朝まだ早いうち、俺は布団で目を覚ました。ドアの外、恐らくキッチンから、トントングツグツ音がする。
昨晩はこの畳の間に広げられていた三組の布団が、今は二組しかない。俺が横たわっている布団と、隣で寝息を立てている陽子の布団。もう一組の婦人の布団は、すでに押し入れに上げられたのだろう。
「ようちゃん……」そう呼びかけたが、陽子の寝顔に反応はなかった。俺はもう一度呼びかけた。「ねえようちゃん……」だが、やはり反応がなかった。
俺の膀胱に圧迫感があった。一言で、排尿したかった。だが、陽子は眠っている。そして、婦人は起きている。俺は天井の木目に意識を逸らし、タオルケットの中で脚を交差させ、それでも足りず、両手で陰茎を握り、圧迫していた。
「ねえ……」
力の抜け切った陽子の寝顔が枕に少し沈んでいる。「ねえ……」と言いかけて、俺は諦めて起き上がった。廊下に出て、婦人に気づかれないように慎重にトイレに入った。
何て爽快な放尿。
陰茎の先から勢いよく噴射する透明な水の棒が、音を立てて便器の壁に突き刺さり、砕ける。光を強めて行く窓が、込み上げて来るセミの音が、俺の顔に降り注ぎ、タイルのトイレは満たされる。
最後の一滴まで絞り出し、俺の排尿が完了した。
トイレを出て、気づかれないように再び布団に潜った。陽子が向こうに寝返りを打った。すでに畳の部屋は隅々まで明るく、セミの声は高まっていた。朝は完全にやって来ていた。
俺はしばらく陽子の後ろ頭を見たり、天井の木目を見たり、床の間を眺めたりしながら、婦人が陽子を起こしてくれる時を待った。あるいは陽子が自ら目覚める時を待った。この布団から解放される時を待った。しばらくして、ようやくドアの外で足音が近づいた。俺は目を閉じた。
「陽子?陽子?起きなさい?陽子?」婦人の声が隣で聞こえ、俺は今目覚めたように目を擦った。「あ……おはようございます……」
嫌がって、タオルケットを頭まですっぽり被った陽子の枕もとで、婦人が優しく微笑んだ。
「おはよう、水面ちゃん。今日は台風一過の晴天よ」
それからみんなで食卓に着き、味噌汁やご飯や焼き魚や漬け物や、それら質素で豪華な朝食を残さず平らげ、婦人の笑顔を見て、陽子が俺を遊びに誘った。
「ねえみいちゃん、今日はどこ行く?」
婦人が食器を集めて重ねた。「陽子、遊びもいいけど、宿題はちゃんとやってるの?お母さんたち、今年は手伝ってあげないわよ?」
陽子が椅子の上であぐらをかいた。「だいじょうぶだよ、あと20日もあるんだから」
「去年も一昨年もそうやって延ばし延ばしにして、最後にはお父さんとお母さんに泣きついて来たじゃないの」
陽子が身を乗り出した。「こんどはー、だいじょうぶなのー!」
「今度、今度って……いつもそう言うけど……陽子が一人でちゃんとやり終えたものが何か一つでもある?ないでしょう?」
「こんどはー、ほんとうにー、だいじょうぶなのー!」
婦人が肩を脱力し、目を閉じた。「……はいはい、分かりました。もう陽子の好きなようにやりなさい?」婦人の手が再び食器を集めた。「後で何を言っても、お母さんたちは知りませんからね」集めた食器をトレーに乗せた。
しばらく沈黙があった後、陽子が椅子を立ち、俺の手を取った。「……いいの?……行くよ?ほんとに、行っちゃうよ?」
婦人がトレーを持って卓を離れた。「どうぞ、ご自由に」
陽子が唇を噛んだ……悔しそうな陽子の目……その目が婦人をじっとにらみつける……少し潤んでいるような……そして、俺の手をぐっと引いた……
「あ、あの、ごちそうさまでした」婦人の背中がドアに消えた。
陽子は勢いよく玄関を出て、強い日差しが照りつける中を黙ったままズンズン歩いて行った。俺は早足で陽子の背中に着いていった。
昨日の台風が嘘のように、抜けるような青空の下、建ち並ぶ平屋の家々の屋根は一様にまぶしく波打っている。夏草の緑は鮮やかで、歩道の砂埃は白く乾いている。前を歩く陽子の黒い腕が、いきり立った速さで振られている。
「……ねえ、どこ行くの?」
放物線が下降するように、陽子の歩みが急激に緩んだ。
二階建ての銀行を右に曲がり、高いネットで囲まれた空地を左に曲がり、陽子の背中はなおも進んだ。道の突き当たりには円柱型の巨大な石油タンクがあり、タンクの横には黒い貨物列車がある。列車の表面には小さな動くものがあり、よく見ると、人間が何やら作業をしているところだった。
「ねえ、ようちゃん……」
「みいちゃん」陽子の背中が立ち止まった。「私、やっぱり帰る」そのまま走って行った。
鮮明な道を、鮮明な陽子の背中が走って行く。見渡す限りの低い屋根の上には青空がどこまでも広がっていて、もくもくと巨大な入道雲が空高く鮮明に突き出している。小さくなった陽子の姿が空地の角で曲がって消えると、右手近くでセミが鳴いた。
俺は一人でタンクに歩いた。タンクの手前には二本の赤茶けたレールが走っていて、夏草を挟んでさらに手前にはフェンスが張り巡らされている。フェンスの足下にはマーガレットが群生し、小さなミツバチが忙しそうに行き来している。
俺はフェンスに沿って歩いて行った。しばらくすると、レールは立ち上がって終点になり、さらに歩いて行くと、幾棟もの倉庫が現れた。倉庫の壁には錆びたトタンの波板が貼られていて、錆びのひどいところでは穴が空いている。その穴からは列車の車輪が見える。整備工場らしい。
小川を飛び越え、フェンスに沿ってなおも進んで行くと、鉄格子のような大きな門の前に出た。
門の向こうには舗装のされていない黄土色の道が伸びていて、その両脇に倉庫が建ち並んでいる。道には四本の深いわだちがあって、濁った水が溜まっている。倉庫のシャッターはどれも降ろされているが、中から金属音がカンカンカンと聞こえて来る。
俺は門に背中をもたれて地べたに座った。
尻の下の地面が少し緩んでいる。乾いた表面を剥がしてつまむと、ぼろぼろと崩れて落ちた。もう一度剥がしてつまんでみても、やはりぼろぼろと崩れ落ちた。
それは何度やっても同じだった。
見ると、腿の内側に藪蚊がとまっていた。俺の皮膚にしっかりと針を刺し、身動きもせずに黙々と吸っている。俺は蚊が血を吸い終えた時、例えば蠅が前足を擦り合わせるように、どんな満足そうな仕種をするのか知りたくなった。
そして待った。だが、蚊は針を引き抜くと、すぐさま宙に飛び去った。
腿の皮膚が徐々に盛り上がって行く。毛穴を大きくへこませて、山のように腫れて行く。モンシロチョウがたどたどしく横切った。エンジン音がして、大きなトラックが目の前に停止した。
青い制服を着た運転手の男が窓から顔を出して何かを叫ぼうとした。俺はその前に立ち上がり、少し離れたところに隠れて様子を伺った。倉庫から作業着姿の男が出て来て大きな鉄格子の門を開いた。トラックは短くクラクションを鳴らし、黒煙を巻き上げて入って行った。
そして門は閉じられた。
その後、どれくらい虫を捕まえ、川に手を突っ込み、土を掘り起こしただろう。俺の握りこぶしから顔を覗かせていたアマガエルがようやく這い出て跳び去る頃、辺りはヒグラシの声とコオロギの声とで濃密になり、イチジクの木の枝を通して、空が赤く夕焼けているのが見えた。
そしてその赤も、家に着く頃には辛うじて地平線近くの空に残っているだけだった。
夕闇の道には家々の明かりが連なり、だが、その列にぽっかり穴を空けたように、俺の家だけは暗く、ひっそりとしていた。
俺は玄関を開けた。青い廊下に蝶番のきしむ音が響いた。静まり返った階段に照明のスイッチを入れる音が響いた。鍵をかける音が、ビーチサンダルを脱ぎ捨てる音が、鼻をすする音が、玄関に反響し、こもった。
俺は次々に家中の照明を点けて廻った。スイッチの音がパチッと空しく響いた。蛍光灯の点灯音がカーンカンカンと空しく響いた。
ソファーには、誰も座っていなかった。トイレには、誰も座っていなかった。浴槽には、誰も浸かっていなかった。キッチンには、誰も立っていなかった。布団には、誰も眠っていなかった。
耳に聞こえるのは、俺の足音だった。目に動くものは、俺の影だった。
「宿題しなくちゃ……」だが、宿題は終わっていた。
俺は勉強机のライトを点けた。机の上は片づいていた。俺は計算ドリルを開いた。答えの欄は全て埋まっていた。俺はシャープペンシルを動かした。書かれてある数字を二回ずつなぞった。赤い丸すらなぞった。だが、背後で渦巻く静寂は消えなかった。
俺は窓から空を眺めた。青い夜空に満月があった。
俺は腹が減っていることにした。階段を下り、キッチンの照明を消して点け、冷蔵庫の扉を開けた。食パンとバターと牛乳とワインと牛肉の塊とワインと氷とアイスクリームと氷とワインがあった。俺は棚を開けた。缶詰めとジャガイモと調味料と調味料があった。俺はレンジを開けた。何も入っていなかった。俺は蛇口を捻った。洗い桶にたまった食器に弾けた。
俺は風呂に入れられることにした。湯のない浴槽に座り、百まで数えた。そして褒められたことにして、バスタオルで包まれたことにした。
リビングに食事が運ばれることにした。ソファーに行儀よく座り、目の前に皿が並べられ、グラスにワインが注がれたことにした。そしてトイレに駆け込み、吐いたことにした。すぐにリビングに戻らなくてはならないことにした。
そして、ソファーで泣いた。
天井を見上げ「マぁーマぁー!」と濁りながら叫んだ。繰り返し、繰り返し叫んだ。だが、少しも気は紛れなかった。不安は増す一方だった。
叫ぶたびに母の仕種が目の前をよぎった。微笑んで撫でてくれる母、キッチンで振り返る母、一緒の浴槽で微笑む母、一緒の布団で撫でてくれる母、いろんな母が目の前をよぎった。
「マぁーマぁあああー!」
自分で聞き取れるほど、叫び声は家中に反響していた。まるで何十人もの自分が一斉に泣いているかのようだった。
「あぁあーあー……」
その時、チャイムが鳴り響いた。「ぁ……」俺の叫びが胸に詰まった。再びチャイムが鳴り響いた。
俺は音を立てないようにそっとソファーを立ち、廊下に出た。さらにチャイムが鳴り響いた。玄関のドアの横にあるすりガラスに、二人の男の影が浮かび上がっていた。立て続けにチャイムが鳴り響いた。
「高沢さぁーん!」ガラの悪い、ドスの効いた声だった。チャイムが鳴り響いた。「高沢さぁーん!」男の影がドアを叩いた。「おぉい!いるんだろ!」激しくドアを叩いた。「おい!」激しくチャイムが鳴り響き、激しくドアが叩かれた。
「そこにいんだろぉ?なぁ、いい加減に、金返したらどうだぁ?あぁ?こっちも遊びでやってんじゃねぇんだぞ?おぉ!」
ダン!男の影がドアを蹴った。
俺は後退さり、そっと階段に足をかけた。きしまないように両手をついた。
「……なぁ、まず開けろや?んん?」
男の顔が近づき、目鼻がガラスに浮かび上がった。ぼんやりと浮かぶ黒目が、こちらを捉えているような気がした。
俺は音を立てずに階段を上り切り、寝室に飛び込み、布団を頭まで被った。だが、ドアの叩かれる音は、チャイムの鳴り響く音は、よけいに鮮明に聞こえて来た。男の叫び声が夜道に響き渡っていることまで分かった。
俺は耳を塞いだ。心臓がはちきれそうに高鳴っていた。俺は身体を縮こまらせ、きつく両目を閉じた。
だが、それでも、恐怖は玄関先にあり続けた。
うう……聞こえる……ダン……開けろこらぁ!
「きれいなお家」陽子がビニールバッグを片手に見惚れた。
二階建ての白い家。青紫色のレンガ塀。田舎には珍しいモダンな外観は、周囲の家々から抜きん出ていた。
「僕、とってくる」俺は誇らしい気分で玄関の大きなドアを開けた。
ひんやりとした階段を駆け上り、寝室の引き戸の前で躊躇した。だが、目をつむり、思い切り戸を開き、手探りでシーツをつかみ、ぐるぐると丸めた。そして目を開けた。忌まわしい痕跡はシーツの中に収まっていた。
洋服ダンスを次々に引き出し、水着とタオルを引っ張り出した。部屋を出る時、気にかかって振り向いた。障子越しの淡い白光を浴び、シーツを剥がされた布団が重苦しく畳に横たわっていた。
俺は階段を駆け下りて、サンダルに足を突っ込み、夏の日差しへ飛び出した。陽子は道にしゃがみ込み、側溝の縁に根を張るネコジャラシを指でもてあそんでいた。
「とってきた?」
俺は手に持つ荷物を掲げ示した。陽子が口を横に大きく開いて笑った。
ビーチサンダルをペタペタと鳴らして家から農道を一キロほど歩くと、市民プールに到着した。農道を挟んでプールの向かいには清掃工場があり、高く空に突き出した煙突の先から白煙が薄く立ち上っていた。
陽子がオレンジ色の券売機の前で、ショートパンツのポケットに手を突っ込んだ。「みいちゃんのぶんも買ったげるね」百円玉を不器用な手つきで券売機に投入し「お母さんがそうしなさいって」出て来た券を俺に差し出した。
「ありがとう……」
入口の窓には入場係の老夫がいて、ニコニコしながらこちらを見ていた。「はい、二人ね」老父の後ろには発色の悪いテレビがあった。陽子と俺は券を手渡し、男子用と女子用の更衣室に分かれた。
更衣室は広々としていて薄暗く、背の高いブリキのロッカーが列をなして並んでいた。ロッカーの前では何人もの男が着替えをしていて、俺の隣で着替える男は筋ばった尻をうごめかせていた。
俺はロッカーのドアを開け、服を脱ぎ、スクール水着に履き替えた。床に敷かれた人工芝は古びていて水はけが悪く、素足にヌルヌルとした。メッシュの帽子を被り、荷物をロッカーに詰め込み、鍵をかけた。鍵には白いゴム紐で黄色いプラスチックの番号札が結びつけられていて、俺の番号は『6』だった。鍵を手首に通し、プールサイドに跳び出すと、空は青々と快晴だった。
胸まである消毒用のプールに浸かり、身体がビリビリするのを我慢しながら十まで数え、出て、真上でギラつく太陽に目を細めると、陽子が更衣室から駆け出して来た。藍色のスクール水着の胸に縫いつけられた『ふじしろようこ』の名札が消毒プールに浸かり、地の色が透けた。
「みいちゃん、何メートル泳げる?」陽子が準備体操をしながら聞いた。
俺は陽子の動きを真似た。「五十メートル」
「うそ」陽子が屈伸した。俺も真似た。
「うそじゃないよ、ほんとだよ」「うそだね!」「ほんとだよ!だって、山本先生にほめられたもん!」陽子が前屈した。上下するメッシュの帽子から、所々髪が飛び出している。
「……先生の名前なんて、しらない」
陽子が深呼吸した。少し遅れて俺も真似した。
プールサイドについた足跡が、みるみる蒸発して消えて行く。「私なんて、300メートル泳げるんだよ!」陽子がプールに駆け出した。俺も後を追いかけた。「うそだー!」陽子がプールサイドで立ち止まった。
「じゃあ、競争だよ!」そして飛び込んだ。「いいよ!」俺も同じところから飛び込んだ。
水の中は明るかった。エメラルドグリーンがかった何本もの脚や腹や腕がスローモーションで動いていた。頭上の水の表面が揺らめくたびに、何本もの光の筋が差し込んだり消えたりした。
前方で、気泡をまとった陽子の身体が水平にクロールで泳いでいた。俺も負けじとコンクリートの底を蹴り、水をつかむようにクロールした。
俺は息継ぎが苦手だった。水面から顔を上げ、息を吐き出してから吸う時に、必ず小さな水粒が気管支の奥に侵入した。
俺はバタ足が苦手だった。手を動かすことに集中すると足が止まり、足を動かすことに集中すると手がぎこちなくなった。
しばらく泳いで行くと、ターンを終えた陽子がゴボゴボと音を伴って、頭から足の方へと過ぎて行った。少しして、俺の指にも壁が当たり、ターンした。
俺の身体はすぐに重くなった。顔を上げるたびに、自分の呼吸音が耳についた。ゴボゴボと水の音が耳についた。プールの底ではハチの巣のような水紋が揺らめき、そこを自分の影が泳いでいた。水を掻く腕が重くなり、水を蹴る足が重くなり、身体が沈んで息が苦しく……
「バアッ」
俺は足を着いた。人々の声が耳に開けた。揺るがない世界が目に開けた。頭上に青空があり、太陽がギラギラと揺らめいていた。だが、地平線近くの南の空には、どす黒い雲があった。
不意に、俺の背中に何かが触れた。振り返ると、水に潜っている陽子の手だった。
陽子の手は俺の背中から脇腹に移り、上に向かい、脇の下に入り、強烈にくすぐった。俺は身をよじらせた。笑い転げた。陽子の手はなおもくすぐり続けた。俺は悶えながら水の中に倒れ込んだ。
口から気泡がどっとあふれた。俺の身体はスローにうずくまった。陽子の手はさらに脇の下深くに侵入した。俺は脇を絞め、身をよじり、陽子の手をつかみ、引き抜いた。見ると、水中の陽子が頬を膨らませて笑っていた。
「バアッ……ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ……」
陽子が笑いながら俺の背に覆い被さった。俺は陽子を背負ったままスローに水中を走り、笑った。陽子の水着がスポンジのように柔らかく背中に密着し、陽子の腕が肩に軽く食い込んだ。最高だった。
俺は陽子を背負ったまま水に倒れ込んだ。陽子を痛い目にあわせるためだった。水中でスローに倒れながらしばらく陽子を溺れさせ、そして両足を放した。陽子は両手で水を掻き、急いで水上に顔を出した。
「バアッ、ゲホッ、ゲホッ……ハハハハ、ハハハハ、ハハハハ……」
陽子の笑い顔の表面を、滑らかに水が引いて行った。南の空のどす黒い雲がさっきよりも膨らんでいるように見えた。
「みーいーちゃーん!」陽子がまた俺の脇に手を伸ばした。俺が笑いながら背を向け、逃げようとしたその瞬間、一筋の鮮明な雷光が、南の大地に、突き刺さった。青く鮮明な光の糸が、天と地とを、一本に、繋いだ。
まばたきをした。光の糸は網膜に焼きついていた。直後、地を裂くようなバリバリッという乾いた雷鳴が轟いた。どす黒い雲はみるみる膨れ上がり、まさに迫り来る感じだった。
俺は振り返った。陽子の顔が強張っていた。だがすぐに、ギラギラと好奇の光が目に差した。その光る目は、俺の身体を舐めるように下降し、脇の下に留まり、じっとじっと凝視した。
「きゃあー!」手を伸ばし、陽子が迫った。
「わぁー!」俺は両手をあげ、逃げた。
人々が続々とプールサイドに上がって行く。雷光が突き刺さった。どす黒い雲はものすごいスピードで膨らんで来る。雷光が突き刺さった。陽子が背後に間近に迫る。
雷光が突き刺さった。
俺の身体が船首のように水を掻き分ける。二人だけになったプールに、一粒の雨が落下した。陽子の指が背に触れた。どす黒い雲はすでに頭上近くまで来ていた。二粒目の雨が落下した。すぐにパラパラと三粒目、四粒目が続き、そして、堰を切ったように、大粒の雨が、一気に大地を叩きつけた。
プールの水面は叩きつける雨でハチの巣のように陥没し、プールサイドは跳ね返る雨で白く霞んだ。プールサイドを囲う白い柵の向こうでは、遥かに広がる水田が世紀末の嵐のようにセピア色に波立ち、ざわめいた。肩や背中に叩きつける雨粒が、氷のように、硬く、鋭い。
雷光が辺りを強烈に照らした。
「みいちゃん!」陽子の手が、ついに俺の腕をつかんだ。俺は振り返った。雨に激しく顔を打たれて、陽子の両目はほとんど閉じている。
「……あ……て……!」雨音が強過ぎて聞こえない。「なーにー!」「……がれ……!」「なーにー!」陽子の口が近づいた。
「あの人が、プールからあがれ、って!」
陽子が指差す先を見ると、監視員の男が両手を口に当て、頻りに何か叫んでいた。直後、雷光が監視員ごと辺りを強烈に照らした。
陽子と俺は更衣室の屋根の下に避難し、しばらくプールに叩きつける雨を見ていた。周囲はザーという激しく、しかし優しい雨音で埋め尽くされ、地平線の山々は霞み、不気味に暗い大地は白い靄に覆われていた。空を覆う暗雲の流れは速く、雷光が世界を頻りに照らしていた。
「ねえ、みいちゃん」
プールサイドを叩きつけた雨が分厚い水の板となって側溝に流れ込んでいる。流れ込んだ雨水は勢いよく左から右へと側溝を流れ、曲がり角に来ると、勢い余ってあふれ出している。
「どうして学校なんて、あるのかな」
「うん……」
あふれ出した水は、地面のブロックの継ぎ目に生えている夏草を揺さぶり、そのまま柵の外に流れ落ちている。隣の陽子は嵐に波打つ水田より向こう、地平線に連なる山々よりもっと遠くを、ぼんやりと見詰めている。
「……このまま、ずっと夏休みならいいのにね」
遠くで雷鳴が轟いた。
空は依然、どす黒い雲だった。激しい雨音が止むことなく続いていた。だがそれは依然として優しく、また不思議に静かだった。
しばらくして、プールの閉鎖が告げられた。陽子と俺は歓声を上げて屋根を飛び出し、天然の豪雨のシャワーを身体に浴び、それから更衣した。プールの入口で落ち合った後、陽子が電話ボックスから家に電話した。婦人が車で迎えに来ることになった。
入口の前の階段に座る、陽子の長い髪が濡れてペタンコだった。陽子はヤセッポッチの脚を雨の中に伸ばし、打たせていた。依然として、叩きつける雨は激しさを緩める気配がなかった。陽子は脚を打つ雨を眺めていた。
「私、お父さんが転勤ばっかりだから、友達ができてもすぐにバイバイしなくちゃいけなくて……みいちゃん、転校したこと、ある?」
俺は陽子の横顔に首を振った。
「先生のあとについて教室に入るとき、すごいこわいんだよ……教壇に立つと教室じゅうの目が私にあつまって……それで先生が紹介するの……『今度転校して来た藤館陽子ちゃんです』……そのあいだずっと私、先生の話が終わらないように祈ってる……だって、つぎは私が話さなくちゃいけないから……なにも話すことなんてないのに……」
陽子の伸ばした脚がすっかり濡れている。ビーチサンダルの鼻緒を挟むように、足の指を握ったり伸ばしたりしている。
「それで、やっとできた友達に、お別れ会で……あ、きた!」
ヘッドライトで雨を貫きながら、緑色のシビックが近づいて来る。陽子が脚を引っ込めて立ち上がった。俺はバッグを手に持った。
「お母さーん!」陽子が両手を大きく振った。
シビックは門の間で曲がり、階段のすぐ前に来て、停止した。陽子と俺は車に駆け寄り、後部座席のドアを開け、素早くシートに乗り込んだ。婦人が運転席から振り向いた。
「大変だったわねぇ。さっきテレビでやってたけど、台風が進路を変えたんだって」
「へえー」陽子が助手席のシートに手をかけ、身を乗り出した。
婦人は前に振り向き、発車させた。
門を抜け、農道を進み、フロントガラスに激しく落ちる分厚い雨を、素早くワイパーが払い除ける。婦人の両手がステアーをしっかり握る。
「水面ちゃん、お母さんは?」
バックミラーに映った婦人の顔が、注意深く進路に目配せをしている。車は豪雨の中を突き進んでいる。左右の水田が風雨で悶えている。
「いません……」
陽子が俺に向き返った。「いない?」「うん……今日は、いない……」
「あら……」婦人がミラー越しに俺を見た。「困ったわね……」ワイパーが雨を払い除けた。
陽子が俺に身を乗り出した。「じゃあ今日は家にとまりなよ!」そして婦人に乗り出した。「ね、お母さん!」
しばらく沈黙した後、婦人は複雑な声で俺に泊まって行くように言った。陽子は喜びの声を上げた。車は進んでいた。
雷光が瞬き、雷鳴が轟いた。車内は屋根を叩きつける雨音で満たされていた。俺は婦人の後頭部にお辞儀して「ありがとうございます」とつぶやいた。
20(現)
開店前のスーパーの階段で朝を迎えた。空は非常に白かった。
発見されたものを発見する時代が到来し、人は人生ではなく社会をこなしていた。早朝に犬は散歩され、死は生によってしか求められず、生は死によってしかこなせなかった。精神の最高態は死以外の何物でもなく、少なくとも三百部の新聞はジャージ姿で配達され、生は歴史的事実に名残りを残すだけだった。ありふれたもの以外に真実はなく、2tトラックが靄に霞む鳥の音をかん高く引き裂いていた。
融資限度額とは何だ?
財布には二枚の紙切れがあり、それは俺自身の維持費だった。ビルより頭上には、行使できない自由が果てしなく広がっていた。
「今をこなすことも不可能だ!」
俺は飛び上がるほど勢いよく立ち上がった。なぜなら、アナロジーが細分化の限界を超え、ついに回帰したから。集積所に山積みされたゴミ袋が、カラスによってついばまれたから。
俺はある思いを胸に抱いていた。それは『ある思い』以外の何物でもなく、自分に説明するまでもない『俺のある思い』だった。
そして歩く!
解決できない涙は、だからそれを拭うしかなかった。
21(近)
目を覚ますと、陽子が俺の胸で眠っていた。肩に届かない黒髪が陽子の横顔を覆い、二人の身体に巻きついたシーツが朝日を浴びて純白だった。俺は陽子の髪をそっと掻き上げ、赤子のようにむくんだ寝顔に口づけた。
足下には二人の衣服がもみくちゃに転がっていて、そのすぐ横に、陽子の赤らんだかかとがシーツからはみ出している。俺は足でズボンを引き寄せ、ポケットからタバコを取り出した。
「シュ」
俺の親指の先で希薄な炎が伸びている。俺の鼻先で紙タバコが食い入るようにそれを見詰めている。陽子の寝息がかすかに聞こえた。
炎をタバコに近づけて、部屋の白壁を見渡した。右手の壁は一面がクローゼットになっていて、ベランダ側の突き当たりには化粧台がある。化粧台の少し左には小さな四角い窓があり、はめ込まれたすりガラスを朝日が白く輝かせている。
俺は煙を吸い込んだ。壁の所々では写真や絵画がディスプレイされ、天井には二基のスポットライトが取りつけられている。俺は煙を吐き出した。煙は霞みながら、差し込む朝日の中を泳いだ。胸の陽子が目を覚ました。
陽子は腫れぼったい二重まぶたを重そうに開き、ぼんやりと一点を見詰め、閉じ、また開いた。まぶたを開閉しながら視線を左に移し、戻し、もう一度移し、そして俺の目に向けた。瑞々しくむくんだ口もとがゆっくり笑い、陽子はガラガラの声でささやいた。
「おはよう」
「おはよう」
陽子は裸の腕を伸ばし、俺の口からタバコを抜き取ると、自分の口に移してくわえた。かすかにジュッと音を立て、タバコの炎が浸食した。陽子は口から煙を吐き出し、タバコを俺の口に戻した。
「コーヒー、飲む?」
陽子が手を伸ばしてタオルケットをつかみ、身体に巻き、脇の下で留めて起き上がった。
「んん」
陽子がベッドから足を下ろし、髪を掻き上げ、キッチンへと歩いて行った。俺は深くタバコを吸い込んだ。セミの声は耳を澄まさなければ気づかないほど遠く、かすかだった。
やがて芳醇な香りを漂わせ、陽子がマグカップを手に戻り、傍らに座った。俺は手渡されたコーヒーを口にして、胸の上に置いた。
「みいちゃん」横向きの陽子の輪郭が逆光に消え入るようだった。「ん?」
陽子の消えかけた輪郭がうつむいた。「泣いてもいい?」俺はコーヒーを床に置き、陽子を胸に抱き寄せた。「いいよ」
陽子が声を上げた。
抱き寄せた陽子の頭が小刻みに震えた。抱き寄せた陽子の肩がしきりにひきつった。俺の胸に熱い水が広がった。陽子の首筋に血管や筋が隆起し、陥没した。俺は陽子の頭を繰り返し撫でた。
「うっうっ……うっ、ううっ……」陽子の嗚咽が俺の胸を限りなく締め上げる。「ようちゃん……」陽子の全身が震えている……何て愛おしい……「うっあ……ううっ、うっ……えっ……」陽子を抱く腕に力を込めた。
「泣けよ、受け止めてやるから」
部屋中に陽子の声が解放された。
俺の肩をつかむ陽子の手に力がこもり、俺の胸に陽子の熱く湿った息がかかる。俺の胸に熱い水が広がり、俺は髪ごと陽子の頭に口づけた。陽子の首筋が、肩が紅潮し、汗をびっしり噴き出している。俺は髪ごと陽子の頭に口づけた。
壁で四角い窓が光っている。
陽子は間断なく肩をひきつらせ、鼻をすすり、顔を俺の胸から少し上げた。俺は陽子の泣き顔に貼りついた髪を、手の腹で丹念に剥がした。閉じられたまつ毛に涙の粒がしがみついていた。
俺は両手でそっと液体まみれの陽子の顔を引き寄せて、まぶたを、頬を、舐めて拭いた。歪んだ口もとを濡らす液体を舐めて拭いた。陽子が歪んだ唇で俺の舌を柔らかく挟んだ。そして熱い舌を絡ませた。
そのまま抱き合い、そのまま眠った。
俺は再び目を覚ました。窓は金色の光だった。しわくちゃのシーツもまた、金色だった。隣に陽子の姿はなかった。
そして天井や壁や床もまた、金色だった。
ああ……俺は、窓から広がる金色の光の世界の中で、こうしてベッドに横たわっている……まるでマーラーの緩やかな管楽に包まれるように……俺の身体はベッドごとゆっくり宙に浮き、あるいは地に沈み、そして回転する……俺は両手を開く……俺の身体はベッドを離れて上昇し、シーツは腰から滑り落ち、全く自由な裸体が金光に献上される……光は暖かく、優しく、全くの輝きで……背後で二千年の歴史が二秒で映写された後、巻き終えたフィルムの尾が映写機を鞭打っている……俺は顔を戻す……光の中からカラスの黒い羽根が舞い落ちて来る……それは羽ばたく天使の羽根で……天使は陽子の泣き顔だった……
俺はタバコをくわえて点火した。耳を澄ますと、隣のレコードの部屋から、マーラーが本当に流れていた。
『本当に』?……それは知覚を拒絶できないもの……つまり俺であって俺でないもの……俺以外の俺であるもの……これが全ての混沌を巻き起こす原因……このこれがどれを指すこれかという問題……だがウィトゲンシュタインは言う……いや、言った……全てのものを疑うと何も疑えなくなる……疑うためには疑うという行為それ自体を信じなければならない……例えばこのタバコの煙は存在するだろうか……いや、この視覚は存在するだろうか……だが、この問いを立てている俺は存在していなければならない……つまり俺が時速二千キロ以上で過去から遠ざかっている……この部屋に居ながらにして……だから揉み消すのだ……繋がらないことを、次々に繋げて行くのだ……その可能性など紙一重でしかない……「見ろ、光を!聞け、旋律を!味わえ、肉を!」
「それを待っているに違いないんだ……」つぶやいて、煙を深く吸い込んだ。
みいちゃん!
金色の窓の外、ベランダから、陽子の掠れ声がした。
俺はタバコをくわえたまま裸でベッドを降り、キッチンを通り、マーラーの流れるレコードの部屋を抜け、ベランダに足を下ろした。金色の光を浴びた陽子がタオルケットを身体に巻き、椅子に腰かけ、空を見ていた。「何?」
陽子が振り返って微笑した。
「おはよう」
「おはよう」
俺はそのまま歩き、もう一つの椅子に腰かけた。「やっぱり解放とは、精神のことらしい」
「見て」陽子の顔が金色の光をいっぱいに浴びていた。「神さまの時間」
横に細く棚引く雲があって、空は金色だった。
「ああ」俺は灰皿に灰を落とした。「その方がいい」
陽子がテーブルのコーヒーを口にした。「ねえ」俺は煙を吸い込んだ。「ん?」陽子が俺に目を向けた。「今日、THREE、くる?」
俺は煙を吐き出した。「外人みたいな日本語だな」俺はタバコを揉み消した。「行く」
陽子が笑顔で立ち上がった。「じゃあ、準備しよーっと」陽子が部屋に消えた。
テーブルに残された陽子のマグカップを手に取り、口にした。コーヒーはややぬるく、酸味が強かった。目前で、空はやはり金色だった。俺の胸や腕や組んだ脚もまた、金色だった。マーラーの管楽は止んでいた。
みいちゃん!……部屋の奥から声がした。……私、別れることにしたの!
「……何で?」
何でって……何でも!
「……この部屋は、どうすんだ?」
出る!
「……出て、どうすんだ?」
なんとか、なるよ!
「……ならなかったら?」
「なーるーのー」陽子が戻って来た。「ね?」陽子が首を傾けた。
そういうことか。
俺は陽子を膝に座らせ、後ろから抱いた。「じゃあ、ここを出るな」
少し間があって、うなずいた陽子の顔を後ろに向けさせ、唇を重ねた。
何とかなるさ……ならなくなったら、何かを止めればいい。
22(遠)
陽子の家のリビングのテーブルに、婦人と陽子が夕食を運んでいた。俺のビーチサンダルはその家の玄関にあった。
「ねえ、お父さんはー?」「今日は仕事でお泊まりよ」「えー、なんでー?」
俺は落ち着かなくソファーに座り、今にも尻が浮き上がりそうだった。「何でって……ねえ水面ちゃん?」トレーを手に入って来た婦人が微笑んだ。「はい……」俺はうつむいた。
「みいちゃん、知ってるの?」陽子がドアを閉めた。
楽しげな食事風景だった。陽子は絶え間なく喋り、婦人はいちいちそれに答え、箸の進みは非常に緩慢だった。俺は沈黙のまま、慎重に食事のペースを合わせていた。
「……ねー、みいちゃん?」しばらくして、食べ終えた陽子が首を傾けた。「うん……」まだ途中だったが、俺も箸を置いた。
「もういいの?」「はい……」「じゃあ陽子、運ぶの手伝って?」「はーい」
「あ、あの、僕も……」
「いいのよ、水面ちゃんは座ってて」「お母さん、これは?」「ええ、それもお願いね」
すっかりテーブルが片づくと、婦人が番茶を煎れた。
「ごちそうさまでした……」「お粗末様でした」「いえ、そんな……」「みいちゃん、お母さん、料理、じょうずでしょう?」「うん……」「私ね……」
婦人が番茶を両手に、優しく照れていた。陽子は目をギラギラさせて喋り続けた。シャンデリアが柔らかな色で部屋を照らし、外では夜の虫が柔らかに鳴いていた。すでに台風は過ぎ去っていた。
「その頭」婦人が真顔で俺を見ていた。「お母さんに切ってもらったんでしょう?」
俺はしばらく考えてから、注意深くうなずいた。「やっぱり……」
陽子が身を乗り出した。「やっぱり、って?」
「ううん……」「ねえ、やっぱり、ってなあに?」「……そうだ……陽子、早くお風呂に入りなさい?水面ちゃんが入れないから、ね?」「お母ぁさーん」「上がったらお話ししてあげるから、ね?ほら、早く?」
陽子が立ち上がった。「ぜったいだよー?」「はいはい。ほら、早く早く」婦人が追い出すように陽子の背を押した。「はぁーい」と、しぶしぶ陽子が部屋を出た。
陽子が浴室に入るのを確認すると、婦人は背中でドアを閉めた。「私もね、水面ちゃんのお母さんに、今の水面ちゃんみたいな頭にされたことがあるのよ……」
婦人は本棚から一冊の本を取り出して、俺の隣に座った。表紙に卒業アルバムと書かれてあった。婦人は俺の目の前にアルバムを置き、パラパラとめくり、止めた。
「これが、それよ……」
婦人の指が一枚の大判なモノクロ写真を指した。頭にハチマキを巻き、半袖半ズボンの体操服を着た三十人ほどの学生が、グランドで整列している写真だった。婦人の指はさらに写真の上をなぞって行った。「それで……これが、私」婦人の指が、ある一人の学生を指して止まった。
「ね?」
その、豆粒大の学生は、ブルマーを履き、体操服の胸が盛り上がってはいるが、首から上はどう見ても丸刈りの男だった。その、恐らく女学生、は今にも泣き出しそうな表情で写っていた。
「これが……おばさん……」俺の目頭が熱くなった。「そう。それで……」婦人の指がその学生の斜め後ろに写っている学生を指した。「これが、水面ちゃんのお母さん」
それは一目で母だと分かった。ハチマキをして、お下げを垂らしている母は、寒気がするほど澄ました顔で写っていた。
「どうして……」俺の目から写真に涙が落ちた。「どうしておばさんがこんな目にあわなくちゃいけないの……」もう一粒写真に落ちた。婦人が俺の背を擦った。
「私もいけなかったのよ……美佳子が英人さん……水面ちゃんのお母さんが、水面ちゃんのお父さんと仲良くしてる、って知っていたのに……二人がおつき合いしている、って知っていたのに……」
俺は鼻をすすった。「……ママから、パパを、とっちゃったの?」
「ううん、そうじゃなくて……水面ちゃんのお父さんが……その……気の多い人、でね……その……私も、気が弱いから……その……断り、切れなくて……」
俺は鼻をすすり、婦人の顔を覗き込んだ。「……とっちゃったの?」
「違うのよ……その……一度だけ……仲良く、しちゃったの……」
婦人が俺から天井に顔を背けた。
「体育祭の最中だったわ……その現場を、美佳子に見られてね……あの時の美佳子の恐ろしい形相、今でもはっきり覚えてるわ……美佳子は私に詰め寄って、髪を力一杯つかんだわ……そのまま廊下を引きずって、階段を引きずって……校舎中を引きずり廻したわ……私、痛くて、恐ろしくて、何度も何度も『ごめんなさい、ごめんなさい』って泣き叫んだの……その声が誰もいない校舎に響くたび、美佳子は悲鳴のような声を上げて私の身体を蹴り上げた……何度も、何度も、何度も……」
婦人は天井を見詰めながら身震いをした。
「それで……教室に入って、机からハサミを取り出した……私は殺されると思った……美佳子がハサミを私の頭に当てて……ザクッ、と音がしたとき……私は、思わず失禁して……でも、美佳子は殺さなかった……教室の床は私の髪で埋め尽くされて……私の頭は丸刈りになって……それで、美佳子は私に、顔を突き合わせてこう言ったの……その頭で体育祭に出たら、許してあげる……」
婦人は恍惚とした表情で写真に目を戻した。
「そう美佳子は……美佳子は、許してくれたのよ……あんなひどい仕打ちを……何て優しい……私がその立場だったら、許せたかどうか……ううん、無理ね……まして、友達でなんて、いられない……この時だけじゃないわ……結婚してからだって……」ハッと口をつぐんだ。
異様な空白だった。
俺は身を乗り出して、婦人の顔を覗き込んだ。婦人の目は俺だけを避けるように泳いでいた。
「……結婚してからも、パパと、仲良くしたの?」
婦人が危なっかしい手つきで番茶をすすった。
「う、ううん、そうじゃなくてね……その……と、とにかく美佳子を恨まないであげてね?美佳子は、その……感情に対して一生懸命なのよ……その……水面ちゃんの頭をそんな風にしちゃったのも、愛情の裏返しなのよ……分かるでしょう?」
俺はゆっくりとうなずいた。婦人は慎重な手つきで番茶をテーブルに戻した。
「おばさんは、ママを、ゆるして、くれますか?」
「許すだなんて……」婦人の顔が悲しげに和らいだ。「……水面ちゃんは、お母さん思いの優しい子ね」
婦人はいたわしげに微笑んで、俺の頭を優しく撫でた。
「水面ちゃんは優しい子だから、お母さんの言うことを良く聞いて、いっぱいお手伝いしてあげてね……美佳子は強がっていたけど、英人さんは死んだ時に今のお家しか残さ……こんなこと水面ちゃんに言っても仕方がないわよね……とにかく……美佳子が一人で水面ちゃんを育てていくっていうのは、すごく大変なことなのよ……だから、水面ちゃんはできるだけお母さんを助けてあげてね?ね?おばさんのお願い」
俺は婦人の顔を真っ直ぐ見上げた。婦人の顔の向こうでシャンデリアの明かりが柔らかだった。
「はい」
23(近)
道玄坂から細い路地に入り、地響きに向かってしばらく歩いた。左を歩く陽子の身体が外灯の光の円錐をいくつも通り抜けた。陽子の顔の凹凸が、光を受けるたびに陰を作った。やがて、赤い光を夜道に放射する地響きの穴が見えた。
『club THREE』
ネオンサインがコンクリートの壁で発光している。階下に続く階段は、ぼんやりとした赤い光に満たされている。
陽子の背中に続いて地響きの震源地へ下りて行くと、行き止まりに、巨大な黒い鉄扉が閉ざされていた。
陽子の手が鉄扉に触れた。手の腹が押し潰れ、二の腕が筋ばり、陽子が全身でもたれかかった。
扉が重々しく押し開かれ、隙間から轟音が漏れ出した。
陽子は中に入り、受付の女と話をした。しかし、内容はリズムで聞こえない。恐らく、仕事のことと俺のことだろう。俺はドアのところで待った。
厚さ七センチの鉄扉は手に冷たく、重く、力強く閉じようとする。俺は爪先を引っかけて待った。受付の女の頬が笑い、俺に目配せした。俺は目を逸らさなかった。陽子が俺に振り返った。話がついたらしい。俺は受付の女に会釈して爪先を外した。鉄扉はゆっくり、重々しく、完全に、閉じた。
陽子が口を俺の耳に近づけた。「じゃあ私、仕事するから、みいちゃん、中で遊んでて?」俺はうなずいて奥に進み、もう一つの扉を開いた。爆風が鼓膜の奥を貫いた。
点滅する暗がりが、ハウスの衝撃で満たされていた。
躍動し、脈打つ肉体が点滅している。沈み、翻る肩が点滅している。フロアを埋め尽くす無数の肉体が、いや、ハコそのものが、カエルの解剖で見た心臓だ。
何て心地いい一体感。
濃密な宇宙で胎児がうごめくように、あるいは無限の合わせ鏡に吸い込まれるように、圧倒的なリズム波が、頭蓋骨から脳をはみ出させる。
ある身体はグラスを片手に、ある身体はペットボトルの水を手に、またある身体はもう一つの身体と密着し、全ての身体は溶け出したユートピアのようなこの空間に全く身を委ねている。
何て心地いい一体感。
陽子はバーカウンターの中にいた。カウンターには丸がりのゲイが尻をついて身体を揺らし、その横で交わったリングが蛍光しながら回転している。カウンターの横で踊る女のドレスの脇からは、乳房の側面が覗いている。
「なに飲む?」
左耳近くで掠れ声がした。陽子がいつの間にか隣に立っていた。
「……テキーラ」
「テキーラの、なに?」
「分からない」
「じゃあ……トマトジュースで割ったのは?」
「それでいい……名前は?」
「ストローハット」陽子が俺の腕に触れて微笑み、カウンターへ歩いて行った。
ブースの男の鋭い視線がフロアを伺う……来た!最適な移行に歓声が上がる。女のだぶついた肉が揺れる。ゲイの腰がしなる。男の爆発した青い髪がざわめく。
俺の身体の底からも、こらえ切れない躍動が沸き起こる。
そうか……身体はリズムだ……だがなぜだろう……身体の躍動とは正反対の、この、精神の静けさは……まるで早朝の靄の中で波紋一つ立てない湖面のように……そして……そうか……俺は身体をまるごと持って行かれたようだ……いや……身体から解放されたようだ……すぐ目の前で俺と同じ動きをするこの白人女……ジョディーフォスターを少しセクシーにしたような……じっと俺の目を覗き込んでいる……いや、目の中のこの静けさにいる俺を見詰めている……そして俺もこいつの中のこいつを見詰めている……遥か遠いところでリズムが流れ、そこで俺の身体とこいつの身体が触れるか触れないかの距離で踊っていて……だが、精神体の俺とこいつは湖上に浮かび、雲のような姿で性交している……女の目の奥が覗いている……女の目の奥を覗いている……『精神的性交』?……それもいい……陶酔がある……
突然、腕をガクンと後ろに引かれた。陽子だ。陽子は女を一瞥し、俺の手にグラスを持たせると、身体を密着させて踊り出した。女は軽く微笑して、踊りながら離れて行った。いい時間だった。
今度は陽子が俺に仕かけた……目を合わせ、陽子の中の陽子で俺の中の俺を覗き込む……合わせた腰を水のように波打たせ……俺の身体を手で辿り……そして陽子の表情が次第に艶を帯びて来る……濡れた唇……微笑を含んだ口もと……瑞々しい肌……誘惑の目……それらが俺を子宮のように包み込み……陶酔させる……
陽子はあの女が俺からすっかり離れたのを横目で確認し、もう一度俺を見て、振り返ってカウンターに戻って行った。だが、陶酔は、リズムによって、なおも時空を無限に広げつつあった。
点滅する暗がり。間隔狭まるロッキーの木霊。身体の先端を巡るテキーラ。そして肉体、肉体、肉体。
やがて宇宙が込み上げて、すべてはまるごと脈打った。
24(遠)
朝まだ早いうち、俺は布団で目を覚ました。ドアの外、恐らくキッチンから、トントングツグツ音がする。
昨晩はこの畳の間に広げられていた三組の布団が、今は二組しかない。俺が横たわっている布団と、隣で寝息を立てている陽子の布団。もう一組の婦人の布団は、すでに押し入れに上げられたのだろう。
「ようちゃん……」そう呼びかけたが、陽子の寝顔に反応はなかった。俺はもう一度呼びかけた。「ねえようちゃん……」だが、やはり反応がなかった。
俺の膀胱に圧迫感があった。一言で、排尿したかった。だが、陽子は眠っている。そして、婦人は起きている。俺は天井の木目に意識を逸らし、タオルケットの中で脚を交差させ、それでも足りず、両手で陰茎を握り、圧迫していた。
「ねえ……」
力の抜け切った陽子の寝顔が枕に少し沈んでいる。「ねえ……」と言いかけて、俺は諦めて起き上がった。廊下に出て、婦人に気づかれないように慎重にトイレに入った。
何て爽快な放尿。
陰茎の先から勢いよく噴射する透明な水の棒が、音を立てて便器の壁に突き刺さり、砕ける。光を強めて行く窓が、込み上げて来るセミの音が、俺の顔に降り注ぎ、タイルのトイレは満たされる。
最後の一滴まで絞り出し、俺の排尿が完了した。
トイレを出て、気づかれないように再び布団に潜った。陽子が向こうに寝返りを打った。すでに畳の部屋は隅々まで明るく、セミの声は高まっていた。朝は完全にやって来ていた。
俺はしばらく陽子の後ろ頭を見たり、天井の木目を見たり、床の間を眺めたりしながら、婦人が陽子を起こしてくれる時を待った。あるいは陽子が自ら目覚める時を待った。この布団から解放される時を待った。しばらくして、ようやくドアの外で足音が近づいた。俺は目を閉じた。
「陽子?陽子?起きなさい?陽子?」婦人の声が隣で聞こえ、俺は今目覚めたように目を擦った。「あ……おはようございます……」
嫌がって、タオルケットを頭まですっぽり被った陽子の枕もとで、婦人が優しく微笑んだ。
「おはよう、水面ちゃん。今日は台風一過の晴天よ」
それからみんなで食卓に着き、味噌汁やご飯や焼き魚や漬け物や、それら質素で豪華な朝食を残さず平らげ、婦人の笑顔を見て、陽子が俺を遊びに誘った。
「ねえみいちゃん、今日はどこ行く?」
婦人が食器を集めて重ねた。「陽子、遊びもいいけど、宿題はちゃんとやってるの?お母さんたち、今年は手伝ってあげないわよ?」
陽子が椅子の上であぐらをかいた。「だいじょうぶだよ、あと20日もあるんだから」
「去年も一昨年もそうやって延ばし延ばしにして、最後にはお父さんとお母さんに泣きついて来たじゃないの」
陽子が身を乗り出した。「こんどはー、だいじょうぶなのー!」
「今度、今度って……いつもそう言うけど……陽子が一人でちゃんとやり終えたものが何か一つでもある?ないでしょう?」
「こんどはー、ほんとうにー、だいじょうぶなのー!」
婦人が肩を脱力し、目を閉じた。「……はいはい、分かりました。もう陽子の好きなようにやりなさい?」婦人の手が再び食器を集めた。「後で何を言っても、お母さんたちは知りませんからね」集めた食器をトレーに乗せた。
しばらく沈黙があった後、陽子が椅子を立ち、俺の手を取った。「……いいの?……行くよ?ほんとに、行っちゃうよ?」
婦人がトレーを持って卓を離れた。「どうぞ、ご自由に」
陽子が唇を噛んだ……悔しそうな陽子の目……その目が婦人をじっとにらみつける……少し潤んでいるような……そして、俺の手をぐっと引いた……
「あ、あの、ごちそうさまでした」婦人の背中がドアに消えた。
陽子は勢いよく玄関を出て、強い日差しが照りつける中を黙ったままズンズン歩いて行った。俺は早足で陽子の背中に着いていった。
昨日の台風が嘘のように、抜けるような青空の下、建ち並ぶ平屋の家々の屋根は一様にまぶしく波打っている。夏草の緑は鮮やかで、歩道の砂埃は白く乾いている。前を歩く陽子の黒い腕が、いきり立った速さで振られている。
「……ねえ、どこ行くの?」
放物線が下降するように、陽子の歩みが急激に緩んだ。
二階建ての銀行を右に曲がり、高いネットで囲まれた空地を左に曲がり、陽子の背中はなおも進んだ。道の突き当たりには円柱型の巨大な石油タンクがあり、タンクの横には黒い貨物列車がある。列車の表面には小さな動くものがあり、よく見ると、人間が何やら作業をしているところだった。
「ねえ、ようちゃん……」
「みいちゃん」陽子の背中が立ち止まった。「私、やっぱり帰る」そのまま走って行った。
鮮明な道を、鮮明な陽子の背中が走って行く。見渡す限りの低い屋根の上には青空がどこまでも広がっていて、もくもくと巨大な入道雲が空高く鮮明に突き出している。小さくなった陽子の姿が空地の角で曲がって消えると、右手近くでセミが鳴いた。
俺は一人でタンクに歩いた。タンクの手前には二本の赤茶けたレールが走っていて、夏草を挟んでさらに手前にはフェンスが張り巡らされている。フェンスの足下にはマーガレットが群生し、小さなミツバチが忙しそうに行き来している。
俺はフェンスに沿って歩いて行った。しばらくすると、レールは立ち上がって終点になり、さらに歩いて行くと、幾棟もの倉庫が現れた。倉庫の壁には錆びたトタンの波板が貼られていて、錆びのひどいところでは穴が空いている。その穴からは列車の車輪が見える。整備工場らしい。
小川を飛び越え、フェンスに沿ってなおも進んで行くと、鉄格子のような大きな門の前に出た。
門の向こうには舗装のされていない黄土色の道が伸びていて、その両脇に倉庫が建ち並んでいる。道には四本の深いわだちがあって、濁った水が溜まっている。倉庫のシャッターはどれも降ろされているが、中から金属音がカンカンカンと聞こえて来る。
俺は門に背中をもたれて地べたに座った。
尻の下の地面が少し緩んでいる。乾いた表面を剥がしてつまむと、ぼろぼろと崩れて落ちた。もう一度剥がしてつまんでみても、やはりぼろぼろと崩れ落ちた。
それは何度やっても同じだった。
見ると、腿の内側に藪蚊がとまっていた。俺の皮膚にしっかりと針を刺し、身動きもせずに黙々と吸っている。俺は蚊が血を吸い終えた時、例えば蠅が前足を擦り合わせるように、どんな満足そうな仕種をするのか知りたくなった。
そして待った。だが、蚊は針を引き抜くと、すぐさま宙に飛び去った。
腿の皮膚が徐々に盛り上がって行く。毛穴を大きくへこませて、山のように腫れて行く。モンシロチョウがたどたどしく横切った。エンジン音がして、大きなトラックが目の前に停止した。
青い制服を着た運転手の男が窓から顔を出して何かを叫ぼうとした。俺はその前に立ち上がり、少し離れたところに隠れて様子を伺った。倉庫から作業着姿の男が出て来て大きな鉄格子の門を開いた。トラックは短くクラクションを鳴らし、黒煙を巻き上げて入って行った。
そして門は閉じられた。
その後、どれくらい虫を捕まえ、川に手を突っ込み、土を掘り起こしただろう。俺の握りこぶしから顔を覗かせていたアマガエルがようやく這い出て跳び去る頃、辺りはヒグラシの声とコオロギの声とで濃密になり、イチジクの木の枝を通して、空が赤く夕焼けているのが見えた。
そしてその赤も、家に着く頃には辛うじて地平線近くの空に残っているだけだった。
夕闇の道には家々の明かりが連なり、だが、その列にぽっかり穴を空けたように、俺の家だけは暗く、ひっそりとしていた。
俺は玄関を開けた。青い廊下に蝶番のきしむ音が響いた。静まり返った階段に照明のスイッチを入れる音が響いた。鍵をかける音が、ビーチサンダルを脱ぎ捨てる音が、鼻をすする音が、玄関に反響し、こもった。
俺は次々に家中の照明を点けて廻った。スイッチの音がパチッと空しく響いた。蛍光灯の点灯音がカーンカンカンと空しく響いた。
ソファーには、誰も座っていなかった。トイレには、誰も座っていなかった。浴槽には、誰も浸かっていなかった。キッチンには、誰も立っていなかった。布団には、誰も眠っていなかった。
耳に聞こえるのは、俺の足音だった。目に動くものは、俺の影だった。
「宿題しなくちゃ……」だが、宿題は終わっていた。
俺は勉強机のライトを点けた。机の上は片づいていた。俺は計算ドリルを開いた。答えの欄は全て埋まっていた。俺はシャープペンシルを動かした。書かれてある数字を二回ずつなぞった。赤い丸すらなぞった。だが、背後で渦巻く静寂は消えなかった。
俺は窓から空を眺めた。青い夜空に満月があった。
俺は腹が減っていることにした。階段を下り、キッチンの照明を消して点け、冷蔵庫の扉を開けた。食パンとバターと牛乳とワインと牛肉の塊とワインと氷とアイスクリームと氷とワインがあった。俺は棚を開けた。缶詰めとジャガイモと調味料と調味料があった。俺はレンジを開けた。何も入っていなかった。俺は蛇口を捻った。洗い桶にたまった食器に弾けた。
俺は風呂に入れられることにした。湯のない浴槽に座り、百まで数えた。そして褒められたことにして、バスタオルで包まれたことにした。
リビングに食事が運ばれることにした。ソファーに行儀よく座り、目の前に皿が並べられ、グラスにワインが注がれたことにした。そしてトイレに駆け込み、吐いたことにした。すぐにリビングに戻らなくてはならないことにした。
そして、ソファーで泣いた。
天井を見上げ「マぁーマぁー!」と濁りながら叫んだ。繰り返し、繰り返し叫んだ。だが、少しも気は紛れなかった。不安は増す一方だった。
叫ぶたびに母の仕種が目の前をよぎった。微笑んで撫でてくれる母、キッチンで振り返る母、一緒の浴槽で微笑む母、一緒の布団で撫でてくれる母、いろんな母が目の前をよぎった。
「マぁーマぁあああー!」
自分で聞き取れるほど、叫び声は家中に反響していた。まるで何十人もの自分が一斉に泣いているかのようだった。
「あぁあーあー……」
その時、チャイムが鳴り響いた。「ぁ……」俺の叫びが胸に詰まった。再びチャイムが鳴り響いた。
俺は音を立てないようにそっとソファーを立ち、廊下に出た。さらにチャイムが鳴り響いた。玄関のドアの横にあるすりガラスに、二人の男の影が浮かび上がっていた。立て続けにチャイムが鳴り響いた。
「高沢さぁーん!」ガラの悪い、ドスの効いた声だった。チャイムが鳴り響いた。「高沢さぁーん!」男の影がドアを叩いた。「おぉい!いるんだろ!」激しくドアを叩いた。「おい!」激しくチャイムが鳴り響き、激しくドアが叩かれた。
「そこにいんだろぉ?なぁ、いい加減に、金返したらどうだぁ?あぁ?こっちも遊びでやってんじゃねぇんだぞ?おぉ!」
ダン!男の影がドアを蹴った。
俺は後退さり、そっと階段に足をかけた。きしまないように両手をついた。
「……なぁ、まず開けろや?んん?」
男の顔が近づき、目鼻がガラスに浮かび上がった。ぼんやりと浮かぶ黒目が、こちらを捉えているような気がした。
俺は音を立てずに階段を上り切り、寝室に飛び込み、布団を頭まで被った。だが、ドアの叩かれる音は、チャイムの鳴り響く音は、よけいに鮮明に聞こえて来た。男の叫び声が夜道に響き渡っていることまで分かった。
俺は耳を塞いだ。心臓がはちきれそうに高鳴っていた。俺は身体を縮こまらせ、きつく両目を閉じた。
だが、それでも、恐怖は玄関先にあり続けた。
うう……聞こえる……ダン……開けろこらぁ!