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完結した夏

1998年 木戸隆行
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2000年4月号 CM掲載作品
 37(遠)

 掃除機の音が家中に響き渡っていた。開け放たれた窓の向こうで、闇に染まった隣家の屋根が生け垣の上で静まり返っていた。俺のかかとに掃除機のノズルが当たった。
「水面、そこどいて」ノズルの向こうに母の足の指が見えた。俺はそこをどいた。
 サイドボードの上には西洋人形やダイヤル式の電話機があり、金メッキの置き時計は深夜一時を指している。天井では涙の形をしたシャンデリアのガラス玉がキラキラと七色に瞬いていて、それは一昨日母が一日中磨き続けたものだった。
 そして……今日は朝から掃除機をかけ続けている。
「どいて」俺はそこをどいた。テーブルの上にあるガラスの灰皿は、口紅のついた吸い殻であふれ……「どいて!」俺はそこをどいた……その横で、男の置き忘れたセブンスターがズタズタに引き裂かれて散らばっている。「どいて!」俺はそこをどいた。「どいて!」俺はそこをどいた。
 だが、ノズルは常に俺の方を向いていた。
 母がノズルを振り上げた。「どうして邪魔ばかりするの!」振り上げられたノズルに、一本の暖色の光の筋が映り込んだ。俺は頭を抱えた。
「あんたは!」ノズルが真っ直ぐ俺の頭に叩き下ろされた。「どうして!」目を見開いた母の顔が現れた。「いつもいつも!」叩き下ろされた。「いつもいつも!」叩き下ろされた。さらに振り上げられた瞬間、玄関でチャイムが鳴った。
 母の筋肉質な腕がノズルを振り上げたまま止まった。腕のつけ根には綺麗に剃られた脇の下があり、ウィーンという掃除機の音が辺りに高らかに響き渡っていた。
「高沢さーん!」
 玄関の方から嗄れた女の声がした。母の鋭利なあごのつけ根が声の方に向けられた。「高沢さーん!お隣りのものですけど!」チャイムが鳴った。母の髪は後頭部に束ねられ、うなじがかすかに汗ばんでいる。「高沢さーん!」女の声が苛立って、直後、チャイムが二回、鳴り響いた。
 母の尖った横顔の向こうをノズルが床に落下した。ノズルはコーンとこもった音を立てて絨毯に跳ね返り、蛇腹のホースが波打った。「高沢さん!」母の背中がドアに消え、俺はノズルについたスイッチを切った。掃除機はウーンと低くうなり、本体を小刻みに震わせて、停止した。
「何の御用ですか?」玄関から母の低い声がした。
「私、お隣に住んでいるものですけど」嗄れた女の声は苛立っていた。「お宅、今、何時だと思ってるんですか?ええ?もう一時、廻ってるんですよ?」俺はそっと顔を出し、玄関の様子を覗いてみた。
 玄関は天井の白熱灯によって暖かな光に満ち、その下に、小太りな婦人が立っている。婦人は両手を腰に当て、垂れた乳房の輪郭が肉厚の腹部に陰を落としている。
「掃除も結構ですけど、時間を考えてやってもらえます?ご近所の方、みなさん迷惑してますよ?」
 婦人の険しい顔が挑発的に傾いた。手前には、淑やかに立っている母の後ろ姿があり、膝丈のスカートの下で、二つのかかとが静かに寄り添っている。
「大変、申しわけございません……」
 母が腰からゆっくりお辞儀をした。上半身が軽く傾くと、今度は首から上をゆっくり下げた。婦人はしばらく母を見据えると、玄関に舌打ちを響かせて「お願いしましたからね!」勇み足で出て行った。
「はい、大変、申しわけございません……」
 俺の網膜に婦人の険しい表情が焼きついていた。玄関先に漏れた光は庭の雑草や塀の裏側を照らし出し、その向こうには、明かりの消えた隣家が見えた。
「大変、申しわけございません……」
 コオロギやスズムシが星の瞬きのように声を響かせていた。しかし、母の頭は上がろうとしなかった。
「大変、申しわけございません……」天井からの暖光が傾いた母の背中を照らしている。
「ママ……」俺は歩み寄って、母のスカートの裾を引いた。「ママ……」「しーっ!」
 母が背中を傾けたまま顔を向け、人差し指を口に当てた。
「しーっ……」
 母の顔がしゃがみ込み、ヒソヒソと耳もとで囁いた。「だめじゃない……起きてきちゃ……ママが一緒じゃないと眠れないの?」
「ママ?」母の手が、俺の頭を優しく撫でた。「さ……一緒に寝てあげるから、二階に上がりましょう?」母の顔が優しく微笑み、俺の肩を優しく抱いた。「もう、夜も遅いのよ……」
 母は家中の明かりを落とし、俺の手を引いて二階に上がり、布団を敷いて添い寝した。月光を浴びた障子はぼんやりと青白く光り、外では夜虫が忙しなく、それでいて緩やかに鳴いていた。
 母は頭を撫でながら、優しくヒソヒソと囁いた。「水面……いい子ね……」障子越しの光を向こうに浴びて、母のほどいた髪の輪郭が綿毛のように柔らかく浮かび上がっていた。「水面……いい子……」撫でる腕に生毛が見え、だが、俺は落ち着かなかった。
「ママ……」「しーっ……」母の影が口に指を当てた。「だめよ、うるさくしちゃ……」「……おしっこ……」「我慢しなさい……もう遅いんだから……御近所の人が迷惑するでしょう?」「だって……」俺は両手で陰茎を握った。「ほら……もう寝なさい?」母が優しく頭を撫でた。「だって……我慢できない……」俺は両手で陰茎を握り、両腿で圧迫した。「ママ……」
 影になった母の肩が動いた。「しょうがない子ね……」母の手が俺の下腹部を探り当て「じゃあここで」そして、強く「しなさい」圧迫した。
「ママ!」ジョ……ジョジョ……「しーっ!」下腹部の辺りがほかほかと濡れ、その温かな水が一気に股間を伝い、尻や背中に広がった。「だめでしょう!うるさくしちゃ!」母はヒソヒソと俺を怒鳴り、俺の下腹部を圧迫し続け、コオロギの声が聞こえ、そして、俺は完全に排尿した。
「……済んだ?」醤油を鉄臭くしたような匂いが部屋に充満していた。「もう寝られるわね?」濡れたパジャマが身体に貼りついていた。「さ……いい子だから……」母のスリップの表面が滑らかに波打ち「ね……」母の手が濡れたタオルケットを胸まで上げた。
「明日は花火が上がるのよ……」母の手が、再び俺の頭を撫でた。
 頭上で天井板の長細い木目が幾重にも輪を重ねて淡く照らされている。「花火……」母の手が優しく頭を撫でた。「懐かしいわね……」母の手が撫でるたび、切ないような幸福感が、胸を締めつけるように弛緩させた。
「水面、覚えてる?……パパとママと三人で、一緒に花火を見た夜のこと……綺麗だったわね……」
 綿毛のような母の頭の輪郭がゆっくり天井に回転し、うっとりとした母の顔の向こう半面が、暗がりに青白く浮かび上がった。
「三人で屋根に上って……澄んだ夜空に……赤や、白や、黄色や緑や……」
 濡れた布団は徐々に冷え、身体を動かすたびにグチャグチャと鳴った。
「明日、パパが旅行から帰ってきたら……また三人で一緒に見ましょうね……だから今日は早く寝て、明日は早く起きるのよ……」
 母の顔がこちらに回転し、俺の頭を優しく撫でた。
「ママ……」母の青白い輪郭が首を傾けた。「なあに?」母の手が頭を撫でた。
「パパは……」俺はうつむいた。言葉を飲み込んだ。
「……パパは、何?」母が頭を撫でながら、顔を間近に近づけた。「……ちゃんと言いなさい?パパは、何なの?」母が頭を撫でながら、耳を顔に近づけた。
「パパは……パパは、死んじゃったんだよ……」
「馬鹿なこと言わないで!」母が俺の髪をつかまえた。「ごめんなさい!」俺は両手で母の手を押さえた。「いい?今度そんなこと言ったら、ただじゃ済まないよ!」母の手が俺の頭を前後に揺すった。「あんたを橋の下に捨ててやるからね!いい!?分かった!?」俺の頭を投げ捨てた。
 母は布団にうつ伏せになり、枕もとにあるタバコに手を伸ばし、ライターの火を点けた。母の顔がライターの小さな炎に明るく照らされ、くわえたタバコの先端がオレンジ色に輝いた。ライターの炎が消えると同時に母の顔も闇に消え、タバコのオレンジだけが宙に残った。立ち上るタバコの煙が月光を浴び、青白く揺れながら天井に上って行った。
「パパ、どんなお土産を買ってきてくれるかしら……」母の輪郭が手を伸ばし、タバコを灰皿で軽く叩くと、曇ったオレンジ光が明るく剥き出した。「水面には……水面は悪い子だから、何も買ってきてもらえないわ……でも、ママには……ママにはきっと、ブラックパールのネックレスを買ってくるわ……だって、ずっとパパに、欲しい欲しいって言ってたんだもの……」母の頭が伸ばした腕にうつ伏せた。「楽しみね……」母の背中が月光を浴びて艶やかだった。
「ママ……」
 ピーンポーン!
 不意に、階下でチャイムが鳴り響いた。ダンダンダンダン!「高沢さぁん!」ガラの悪い声……奴ら、だった。
 ダンダンダンダン!「高沢さぁん!」ダンダンダンダン!「おぉい!高沢ぁ!」ダンダンダンダン!「出てこい!」ピンポンピンポンピンポン!「いるんだろこらぁ!」ダンダンダンダン!「高沢ぁ!」ピンポンピンポンピンポン!「出てこいやぁ!」ダンダンダン、ダーン!
「……ぃいやあぁぁぁ!」母が狂気の叫びを上げた。
 ダンダンダンダン!母の輪郭が両手で頭を抱えた。「やめてえぇぇ!」髪を振り乱しながら転がり、身悶え……
「やめてじゃ」ダーン!「ねえんだ」ダーン!「よ!」ダーン!
 ……膝をたたんでうずくまった。
「やあぁぁぁぁぁ……」
 母の背中が小さくうずくまり、奴らの罵声が夜道に響き、青白い月光を浴びた母の手が頭を抱えながらガクガク震えた。

 38(近)

 それは近寄るまでもなかった。部屋の奥に見えるベッドが、ベッドの上の文香の身体が、文香の向こうのカーテンが、壁が、天井が……向こうに見える、何もかもが……
「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ!」俺は玄関に膝を突いたまま、腹を抱えた。「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ!」腹を抱え、うずくまった。「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ!」うずくまり、コンクリートの地べたに額を突いた。「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ……」腹を抱えてうずくまり、沸騰した目頭がコンクリートに滴った。
「ハ……ハ、ハ……ハ、ハ、ハ、ハ!ハッハッハッハッハ……」
 俺の顔が歪むのを抑え切れない。「ハッ……う……ハッ……」よだれや涙や鼻水が額に向けて流れ落ちるのを抑え切れない。「う……ううっ……ハ……」嗚咽が漏れるのを抑え切れない。
「うっ……くそっ……くそぉ……くそお……」俺は顔を上げた。血に染まったカーテンが赤く発光していた。「くそおおお!」俺は自分の腕に噛みついた。渾身の力で噛みついた。前歯が肉に食い込んで、ぷりぷりとした生温かい感触がした。鉄臭い味がして、その液が滴った。

 ……少女のように下着を露出させ、地べたに座り込む文香に手を差し伸べた。文香はじっと俺を見詰めたまま差し出した手に手を伸ばし、二つの指先は軽くしびれるように触れ合った。絡み合った……

「くそおぉ……」

 ……一言も交わさず部屋に入り、じっと見詰め合い、互いの服を音を立てて引き裂いた。二つの裸体が向き合って、文香の身体は素晴らしかった……

「くそぉ……」

 ……首から肩に架けての急激な曲線、両肩の鋭利な曲線、三角筋と上腕筋との境目の絶妙な断絶感、そして少女のような指。小振りだが豊潤な形状の柔らかな乳房、見えるが見え過ぎない肋骨、わずかに飛び出した腰骨、涙型の上がった尻。片栗粉よりもさらに滑らかな腿の内側、かわいい膝頭と艶かしいふくらはぎ、そして赤らんだかかと、そして……

「くそ……くそ……」

 ……文香の顔を覆う黒髪を握りながら払い除け、そしてその感触を楽しみ、文香は手のひらで俺の身体の凹凸を楽しみ、互いを深く犯すように見詰め合い、水風船のように柔らかな文香の唇に噛みつき、味わい……

 文香文香文香文香……俺は拳を握り締めた……文香文香文香文香……壁をぶち抜いた……文香文香文香文香……拳に激痛が走った……文香文香文香文香……折れたようだった……文香文香文香……だが、まだまだ不足だった……文香文香……文香……
 俺は立ち上がった。左腕の熱い液体が指先に伝い滴った。右拳に走る激痛を強く握り締めて味わった。そしてゆっくりと近寄った。
 ベッドはスポンジのように、たっぷりと血を吸って真っ赤に染まり、底辺からは吸い切れない血がポタポタと滴っている。床には表面に脱脂粉乳のような膜を張ったどす黒い血が広がり、ベッドから滴り落ちる血がその膜に鈍い波紋を立てている。山型に染まったカーテンはまだらに赤く発光し、その赤光に照らされた壁や天井には激しい血飛沫が飛び散っている。そして、その赤い光景の中心点で、文香は……
「くっ……」
 どす黒く染まった裸体……巻きついたアザを切り取るように、何度も何度もえぐられた左腕……そこから飛び出す肉のわた……あごのつけ根にパックリ開いた深い裂け目……血でドロドロの髪……微笑んでいるかのように膨らんだ頬……宙に見開いたままの眼球……そして……俺は深く目を閉じた。
 ……血肉にまみれたサバイバルナイフをしっかり握る文香の右手……
 俺は血に染まった五本の指を一本一本剥がして行った。かすかにビリッと音を立てながら……親指……人差し指……中指……薬指……そして……
「ううっ……」開かれた文香の赤い手のひらに、ナイフの柄が赤く横たわっている……
 俺はナイフを投げ捨てて、文香の身体に覆い被さった。血まみれの乳房を両手でつかみ、血まみれの乳首を舌で転がした。血まみれの唇に口づけ、弾力を吸い込み、血まみれの耳殻を噛んだ。
 文香の微笑んでいるような頬……スッとした鼻筋……上向いたまつ毛……乾いた眼球……動かない、よどんだ眼球……そこにかすかに俺が映り……そして深く挿入した。
 首筋の深い裂け目が開閉し、あごがつけ根から上下した。血まみれの両脚を割り、押し広げ、さらに深く前後した。開かれた文香の脚のV字の向こうで、文香の上半身が血まみれで揺れている。陰茎を抜き、口に突っ込み、激しく腰を前後させると、前歯がゴリゴリと亀頭を剥いた。右手を取り、握らせると、冷えた感触が皮膚に苦しかった。
 俺は再び膣に挿入した。ガサガサの感触だったが、やはりここが一番だった。俺は激しく前後した。前後して、前後して、前後した。文香の頭が激しく前後した。文香の黒目が首ごと前後した。文香の白目がちらつきながら前後した。
 そして前後した。
 亀頭のつけ根にかゆみのような快感が走り、俺は文香の瞳を凝視した。文香の瞳が宙に揺れ、そして、子宮に強く、射精した。
 俺の腰が脈打って、文香の膣が潤った。
 それでも文香は死体だった。人形ではなく、死体だった。心臓は拍せず、血は流れず、土色にくすむ死体だった。髪をわしづかみにして引っ張れば、その通りに首の傾く死体だった。深く切り刻んだ裂け目からもくもくと肉わたがはみ出すような、皮膚が中身を抑え切れない死体だった。
 俺は膣から陰茎を引き抜いた。文香から俺を引き抜いた。膣から精液が流れ出た。文香から俺が流れ出た。文香の両目をそっと閉じた。死体の両目をそっと閉じた。そして隣に寄り添い、タバコを吸った。死体に寄り添い、タバコを吸った。
 他に、何もなかった。
 血染めのカーテンを開け、空を見ると、赤紫の上に紺があった。そして雲が流れていた。文香の身体に光が差し、その鮮やかな色彩に嘔吐した。そしてタバコを吸った。
 それは一週間後も同じだった。ただ、文香の身体がボロボロと崩れ始めているのが違うだけだった。不快な杏子の臭いがあり、夜空に雲は素早く流れ、自転車の警官が見上げながら通過した。隣家の明かりが目の奥に差し、車が何台も騒音を上げた。添い寝する俺の胸には文香の頭があり、しかしその髪を引っ張ることはできなかった。バサバサと抜け落ちるのが怖かった。
 そして……そして……そして……

 39(遠)

「パン、パラララ……ドン!……ドン!」スズメの飛び交う早朝に、音だけの打ち上げ花火が上げられた。「パン、パラララ……ドン!……ドン!」隣で背中を向けて眠っている母のほどけた黒髪が枕に沿って流れていた。
「パン、パラララ……ドン!……ドン!」

 日が昇り、俺は二階の窓にいた。空はやたらに青く、ムシムシと熱い風が流れていた。家の前の通りには豆絞りを頭に巻いた青いはっぴの子供たちが「わっしょい、ピーピー、わっしょい、ピーピー」車輪付きの御輿に繋がれた紅白の綱を輪になって引いていた。
「わっしょい、ピーピー、わっしょい、ピーピー」
 先頭では、二人の少年が大きなうちわを扇ぎ、後方では、笛をくわえた四人の大人が御輿の舵を取っていた。
「わっしょい、ピーピー、わっしょい、ピーピー……」
 集団はのろのろと賑やかに通り過ぎ、門前で歓声を上げていた婦人たちは互いに会釈して家に戻った。ジーというセミの音が砂漠の陽炎のようにうっそうと揺らめき、青空では太陽が閃光を放っていた。
 俺は寝室に戻った。母はやはり背を向けて、胎児のような格好で、布団で横になっていた。スリップ姿の母の身体は全身軽く汗ばんでいて、部屋の奥にある開け放された窓からは、気休め程度の風が吹き込んでいた。
「ママ……」歩み寄って覗き込むと、母の両目は開いていた。母の両目は開かれたまま、どこを見るでもなく、窓と畳の中間位置に注がれていた。「ママ……」俺が腕を揺すっても、その視線は動かなかった。
 しばらくして、俺は再び窓にいた。今度は白足袋に藍色のはっぴを着た大人の男たちが「わっしょい、わっしょい」御輿を肩にやって来た。
「わっしょい、わっしょい」
 御輿は男たちの肩上で前後左右に上下して、屋根についた金の飾りが跳ね上がったり裏返ったりした。男たちの低くて勇ましい声が辺りに響き、門前では、やはり婦人たちが歓声を上げていた。
「わっしょい、わっしょい……」
 御輿はすぐに見えなくなった。野球帽の少年たちが歓声を上げて後を追い、婦人たちは家に消え、そして道には誰もいなくなった。見上げると、軒先にあった太陽が軒の裏に隠れていた。振り向くと、暗くひんやりとした廊下の床に、背中の窓からの白光が淡く長く伸びていた。
 そして俺はまた寝室に戻った。「ママ……」歩み寄り、背を向けて横たわる母の顔を覗き込むと、二つのまぶたが閉じていた。見上げると、開け放した窓に隣家の瓦屋根が見え、その上には青空しかなかった。部屋の中に目を戻すと、目がくらんだように全てはグレーがかって見え、母の身体もその内の一つだった。
 日が落ちて、夕闇に一粒の明星が見えた。そして俺は窓にいた。灯された外灯は空と同じ明るさで電柱にあり、ヒグラシやコオロギの声に紛れて笛や太鼓の音が遠くで響いていた。ゲタやツッカケの音が響き、何組もの親子や恋人たちが家の前を横切った。浴衣やTシャツやポロシャツや、短パンやGパンや薄手のワンピースが家の前を横切った。
「何見てるの」
 不意に、背中で母の声がした。振り向くと、暗い廊下に、さらに暗い母の影が立っていた。
「出かけるから支度しなさい?」そう言って、影が階段を下りて行った。「……あ、それと、電気は点けちゃだめよ!」
 俺は寝室のドアを開けた。畳の上には布団がなく、大きなバッグが二つあった。俺はパジャマを脱ぎ、シャツと短パンを引っ張り出した。三面鏡の鏡は開かれていて、開け放された窓からは、闇から現われつつある星空が見えた。シャツを着て、短パンに足を突っ込むと、ピンポーン……階下でチャイムが鳴り響いた。
 とっさに俺は身構えた……「ごめんくださーい」だが、それは陽子だった。
 ピンポーン……部屋を出て、廊下を走り、暗がりの階段に足を下ろすと「ごめんくださーい」上り口には母がいた。母の影は玄関から差す淡い青光の廊下に立ち、じっと俺を見上げていた。
 ピンポーン……母の影がじっと俺を見上げている……ピンポーン「ごめーんくーださーい!」……徐々に目が慣れ、母の影に顔が浮んでくる……ピンポーン……険しい目つき……ピンポーン……鋭く切れ上がった眉……「いないのかなあ……」ピンポーン……それらがじっと俺を見上げている……ピンポーン……「んー……」
 淡い青光に立つ険しい母の影の向こうで、陽子の靴音が遠のいて行った。
 母の影が見上げていた。「……何であの子がこの家を知ってるんだい?」俺の身体が強張った。「……わからない、よ……」母の影が見上げていた。「あんた、ママに隠れて、何してた?」母の影が見上げていた。「……なにも、してないよ……」母の影が手摺に手を乗せた。「き、きっと、ようちゃんのママがおしえ……」
「早く支度しなさい」母の影が上り口から消えた。
 しばらくして、家から少し離れた場所に黒いタクシーが到着した。ハザードランプが夜道を燈色に点滅させた。「トランク、開けてくださる?」車を下りた白髪の運転手が「お客さん、もうじっきに花火が上がりますのに」トランクにバッグを乗せるのを手伝った。「ご旅行ですかね?」
 夜空にはグレーの千切れ雲があり、その流れよりも遥か上方、純白の月がじっと動かなかった。
「いえ、急用ができたものですから」母と俺は後部座席に乗り込んだ。「大変ですねえ、こんげなときに」運転手の白手袋がハンドルを右に半回転させた。
 ダッシュボードの左端では彼の顔写真が照らし出され、フロントガラスの向こうでは、民家の窓や外灯が夜道を薄暗く照らしている。
「いやほんきに、用事ってのは、こっちの都合に合わせてくれないもんですて……私もこないだね、娘の結婚式に東京まで行って来ましてさ……三十にもなっていい男の一人も連れて来ない、なぁんて家のがんと二人で嘆いてたったんですが……」
 車内が明るく照らされた。「お……」バックミラーの運転手の目が背後の空を伺った。「始まったげだ」俺は身体ごと振り返った。
 民家の屋根の少し上、夜空に色が花開いていた。
 ドン!乾いた破裂音が空気を重く震わせた。光の蛇が夜空に這い上り……ヒュゥゥゥゥ……色とりどりに破裂した。……ドン!光の蛇がまた上り……ヒュゥゥゥゥ……まぶしく瞬きながら飛び散った。……ドン!パララララ……
「水面、お行儀悪いわよ」母の手が俺の身体を引き摺り戻した。その瞬間……ヒュゥゥゥゥ……母の後頭部が色彩を浴びた。
 ドン!……ドン!
「いいがねえ、奥さん」バックミラーの運転手の目が俺に優しく微笑みかけた。「花火見ってぇもんなあ、ボク?」車内のシートや天井が明るく照らされた。俺は目を伏せた。
 ドン!隣に座る母の手が腕からブレスレットを外していた。

 しばらく夜道を走って行くと、家屋が徐々に疎らになり、家屋と家屋の隙間から夜の田園が見えてきた。家屋の間隔はさらに広がり、辺りいっぱいに田園が開け、やがて外灯すらなくなり、だが、淡い月明かりの夜道を、タクシーはなおも走り続けた。
 左右に広がる黒い稲穂の海、地平線の黒い山。夜空に黒い枝を張り出す不気味な杉林を抜け、コンクリートに固められた山肌の脇をすり抜ける。竹林を抜けて橋を渡ると、川面で月が砕けていた。母はじっと前方を見ている。運転手の背中は振り返らない。断続的に無線が入り、赤い数字がぼやけて見える。ヘッドライトが夜道を照らす。車が小さな集落に入る。
「ここで」「はい」
 タクシーは家々を燈色に点滅させながら速度を落とし「ありがとうございます」停止して、ガチャッとトランクが持ち上がった。
「えー……四千二百円です」着いたのは、数年前のお盆以来、ずっと来ていなかった母の実家だった。
 タクシーの屋根で四角い箱が光った。運転手がウィンドウ越しに白髪の頭を下げ、母がバッグを両手に会釈した。エンジン音が静かに高鳴り、テールランプが遠のいて行った。
 見上げると、月にかかった雲がぼんやりと白く光っていた。辺りではスズムシやコオロギの声が濃密な星空のように瞬き、それとはまた違った速度でヒキガエルの声も低く瞬いていた。小さなため池の表面上では羽虫が丸く群れを成し、とうに枯れた柿の木が、空に鋭く剥き出していた。
「何しに来た」背後で男の声がした。
 振り向くと、母が向こうの玄関先で両手のバッグを地面に下ろしていた。その向かい、叔父が毅然と立っていた。
 玄関の明かりは夜の中で煌々とし、地面を四角く照らしている。地面の四角い明かりには叔父と母の影があり、母の影は手を動かしてバッグの中を探っている。
「何してる」母がバッグから何かを取り出した。「何だ」母の姿が立ち上がり、叔父の方に真っ直ぐ向いた。「何なんだ」「いいから見て」叔父の姿がそれを受け取ったように見えた。「借用……」叔父の頭がそれに傾き、その手前、母の後ろ姿が静淑に立っていた。
「どういうことだ?」叔父が母に顔を上げた。「どうしてここに、俺の名前がある?」叔父がそれを母に突き示した。「ん?答えろ……答えろ!どうして俺の名前がある!」
 母がうつむき、低く答えた。「ごめんなさい……」
「お前!」叔父の手が振り上がった……パン!……母の頬を張った。母の姿が地面に崩れた。「お前はどこまで!」叔父が崩れた母を足蹴にした。「俺を!」足蹴にした。「苦しめれば!」足蹴にした。母が地面に深く倒れ伏した。「気が!」倒れた母を足蹴にした。「済むん!」足蹴にした。「だ!」足蹴にした。
「ああ!おい!」叔父は身を乗り出して、倒れた母を見下ろした。
 母が地面から顔を上げ、頭上の叔父を真っ直ぐ見上げた。「……お願い……助けてよ……他に頼るあてがないの……お願い……お願いだから……」
「……助けて、だぁ?」叔父の足が上がった。「ふざけるのもいい加減に」上がった足が母を蹴り下ろした。「しろ!」母は完全に地面に伏した。
「……お願い……お願いよ……助けて……助けてよ……」
 叔父が母を見据えながら「帰れ!」地面のバッグに手をかけた。「二度とこの家に近づくな!」叔父がバッグを持ち上げて、母がその手をつかまえた。「お願い……お願いだから!」「うるさい!」叔父は母の手をその身体ごと振り払い、バッグを道に投げ出した。
 バッグは上昇しながら光の領域を越え、月光の中を降下した。
「このゴキブリめ!」叔父は玄関の内に入り、その引き戸を荒々しく閉めた。母は四角い光の中で地面に深く伏していた。引き戸のガラスの向こうでは叔父の姿が奥に消え、その直後、母を照らす四角い明かりがパッと消えてなくなった。
 地面に伏した母の姿が月光の中でゆっくりと起き上がった。起き上がった姿は身体を払い、投げ出されたバッグを拾い、ゆっくりとこちらに歩いて来た。母の上げられた髪は闇でも分かるほどボロボロに乱れ、細い腕にはバッグが提げられている。萌黄色のワンピースは月光に青く、裾から伸びるすらりとした脚が、ゆっくり交互に前後する。
 俺は母に駆け寄って、手からバッグを引き取った。「ありがとう……」母は空いた手で俺の頭を撫でると、夜空の下で力なく微笑し「そうだわ……」振り返って家の二階を指差した。
「水面、あそこがママの部屋よ……」だが、その窓の明かりは消えていた。
 公衆電話からタクシーを呼び、来た道を戻って行った。暗い車内で母はじっと道先を見やり、運転手の白手袋が何度も回った。やがて家に差しかかり、通過して、なおもタクシーは走り続けた。俺は母を見上げた。母は道先を見やったまま、じっと両目を動かさなかった。

「ありがとうございました……」タクシーを下りると、湿った潮風が吹き抜けた。母について暗がりの坂道を上って行くと、アスファルトに砂がこぼれていた。さらに歩いて行くと、堤防が砂に埋まっていた。母はなおも歩いて行った。砂丘を越え、バッグを手に、ゆっくり闇の海へと歩いて行った。
「ママ!」そして俺はそれに続いた。
「ママ……」母の手が闇の砂浜にバッグを下ろした。目の前には、ひたすら黒い空間があって、それは空なのか海なのか分からなかった。近くでは灰色の波頭が見え隠れし、足下には、黒くうごめく波打ち際の先端があった。潮騒が周囲にこだましていて、潮風がじめじめと肌寒かった。
 母の手がバッグの中身を探っていた。「ママ……なに、するの……」月光の下、母の手がバッグからスカーフを取り出した。「腕、出しなさい」スカーフが母の両手の間で細くねじれ、母のほつれ髪が潮風になびいた。「早く!」俺は腕を差し出した。
 母は俺の腕を取り、自分の腕を寄り添わせ、ねじったスカーフで二本を縛り合わせた。
「ママ……」二本の腕をきつく縛ると、母は海に歩きだした。「なにするの……」俺の腕を引っ張りながら、母の背中が黒い空間に歩きだした。「……やだよ……」すぐ向こうの足下にはハチの巣状の灰色の泡がうごめいていて、後続の波に飲み込まれてはまた広がっていた。
「……いやだぁ!」俺は両足を踏んばった。母の脚がガクンと止まった。
 母が振り返った。「水面……」母の顔がしゃがみ込んだ。「ママのことが、嫌いなの?」「嫌いじゃない!」「じゃあ、一緒に行くのよ……」母の足が立ち上がり、再び海に歩きだした。俺は再び踏んばった。「いーやーだー!」踏んばった足のスニーカーに、冷たい水が被さった。
 母の姿が振り向いた。「もう!どっちなの!」母の顔がしゃがみ込み、両手で俺の肩をつかんだ。「あんた、一人ぼっちになってもいいの!?それでもいいの!?」母の手が俺の肩を揺すった。「ええ!?どうなの!?」「いーやーだー!」「じゃあ一緒に行くの!」母の足が立ち上がった。「やーめーてー!」ぐいぐいと引っ張る母の手に、俺は足を踏んばった。「やーめーてー!」スニーカーは砂を掘り、母の爪先も掘っていた。黒い波が打ち寄せて、くるぶしの周りを引いて行った。
「もう!いい加減にしな!」母が振り向いた。俺は砂に尻をついた。母がしゃがみ込んでスカーフを解き「あんたの勝手にすればいい!」一人でどんどん歩いて行った。
 俺は母を追いかけた。「ママ!だーめー!」波の中を跳びながら走り、母の腕を両手でつかんだ。「マーマ!」月光を浴びる母の手を陸の方に引っ張った。「放しな!」夜空に母の顔が振り向いた。「いーやーだー!」「放すんだよ!」母が力強く俺の手を振りほどいた。「マーマー!」俺はもう一度走って手をつかんだ。
「水面!」母が物凄い形相で振り向いた。
 そして腕を引き抜いた。
 俺は波の中に座り込んだ。「マーマー!」母の姿が波を掻き分けて歩いて行った。「マーマー!」水平線にはタンカーの光があり、母の姿は沈んで行った。「マーマー!」俺は底から砂をつかみ、母に向かって投げつけた。母は肩まで沈んでいた。「マーマー!」月の欠片は波に揺らめき、潮騒は夜空に響き渡った。「マーマー……」小さくなった母の頭が徐々に徐々に空に傾き、そして、ついに、沈んで、消えた。
「……マぁあマぁああああ!」

 40(現)

 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今嘔吐している。
 そして俺は今その海にいて嘔吐している。
 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今その海にいてジッパーを下ろしている。
 そして俺は今その海にいて取り出している。
 そして俺は今その海にいてしごいている。
 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今その海にいる。
 そして俺は今その海にいる!
 そして俺は今その海に射精している!
 そして俺は今その海にいる!
 そして俺は今その海にいる!
 そして俺は今その海にいる!その海にいる!
 そして俺は今その海に!今その海にいて泣き伏せている!

 41(現)

 チャイムを押した。金色の空。ガラス戸を開いた。内に歩いた。
 正面の土壁。西日に投げられた俺の影。古びた廊下。黒光る廊下。右手の障子戸。開け放された障子戸。日焼けした畳。色褪せた畳。虫の音。虫の音。一斉に鳴く虫の音。充満する虫の音。「はぁい」女の返事。きしむ廊下。足音。よれよれの女。毛玉だらけのフェルトズボン。首のよれた袖なし肌着。叔父の妻、義理の叔母、育ての母。「な……」立ち止まる叔母。露骨な嫌悪。「あんたぁ!」振り返る後頭部。西日に光るほつれ毛。
 土壁の俺。その頭髪。その一本一本。その俺は生きている。前後にうごめいている。渦巻いている。切迫する。ヒグラシの異様な叫び。アブラゼミの異様な叫び。ミンミンゼミの異様な叫び。俺の脳で交錯する。反響する。乱反射する。「何しにきた」男の声。人影。陰から光の領域へ。ミイラのように干からびた身体。ハゲタカのようにギョロついた目。「何しにきたんだ!」迫る叔父。

 ……俺は、何しに来たんだ?

「何でお前がここにいる!」叔父のしわくちゃの手が胸倉をつかんだ。「学校はどうした!」叔父の口もとのしわが縦に伸びた。「ああ!誰に許しをもらってこんなところにいる!」叔父の唾が顔に降り注いだ。「おお!答えろ!」降り注いだ唾が臭気を発する。
 ……俺は、何しに……「終わらせにきた」
 俺はバッグに手を突っ込んで、タオルに包んだナイフを取り出した。「何だ、それは」包んだタオルをゆっくり開いた。俺の目が潤んだ。それはまるでヘソの緒だった。「何の、つもりだ」文香の血肉に染まった黒いナイフは白い糸を身にまとい、まるで文香のヘソの緒だった。「何を、する気だ……」叔父の足がわずかに後退さった。
 俺はナイフを握り締めた。「終わらせにきた」
 そして握り締めたナイフの柄を向けて、叔父の胸に差し出した。「な、ん……」そしてわけも分からず開いた感じの叔父のしわくちゃの手のひらに、神聖なナイフを握らせた。そしてまたバッグに手を突っ込んだ。ある紙切れを取り出した。ある紙切れを取り出して、逆の手に握らせた。
 ……お前が保証する、借用証書だ。
 おずおずと、しわくちゃの手が証書を広げ、ミイラの頭がそれに傾き、ハゲタカの目が読み取った。
 ……さあ、どうなる。
 文香に染まったそのナイフが、俺をぐちゃぐちゃに切り裂くか?その前にどんな罵声を浴びる?それとも夫婦で突然か?それとも叔母が駆けて来て単独でか?さあ、どうなる?さあ……さあ!
「ハ……」叔父の目が、生きたまま、まぶたの裏を見た。「ハ、ハ、ハ、ハ……」ナイフと紙を持った叔父の手が、力なくダラリと垂れ下がった。
「ハ、ハハハハハ!ハハハハハハ!」
 家中に声が響き渡った。裏返り、嗄れて、悲鳴のような、笑いのような、そんな叫びが外まで響いた。叔母が奥で半身を出した。叔父は白目を剥いて頭を抱え、むちゃくちゃな力を顔に込め、しわというしわが伸び切った。
「ハーッハッハッハー!ぃやぁーはっはっはぁぁ!」
 叔父の口から泡立った唾液が糸を引いて垂れ落ち、叔父の股間が一気に染みて、タンパク臭い小水が足から床に広がった。
「あんた!」叔母が奥から駆けて来て「しっかりして!」狂い笑う叔父を揺すった。向かい合う二人の姿は西日を浴びて美しく「あんたぁ!」その二人の身体の表面に、俺の影が落ちていた。
 ……くそ……
 俺は背を向けた。向かいの屋根には夕日があって、その金光が目の奥に差した。庭には松の木が並び、密集した針葉を金色の光の筋が貫いている。その足下では紫色のトルコ桔梗が鮮やかに咲き……ぁぁあああああ!背後に狂った声が迫った。

 瞬間、激しい痛みが腰を突いた。

「あひゃぁはは、はははは……」振り向くと、よだれまみれの叔父の顔があり、俺の腰にナイフがあり、しわくちゃの手がそれを握っていた。水風船に刺したナイフをイメージした。「えっへっ、えっ……」白目を剥いた叔父の顔が嬉しそうに歪み、ナイフが鈍い痛みを残して抜けた。
 きゃぁああああああ!叔母の叫びが辺りに響いた。
 俺の腰から鮮血が噴き出した。放物線を描いてドクドクと噴き出した。その強弱は胸の鼓動と一致して、腰の痛みはぼんやりとした高熱に変化した。噴出はその力を次第に弱め、快楽的な目眩が襲い、俺の膝がガクンと折れた。
 頬に地面の砂粒を感じた。
 いつだったか……「子供なら女の子がいい」そう答えたことがあった……いつだったか……「シーツを見せて」の要求を頑なに拒んだことがあった……
 呼吸が深くできなくなった。
 いつだったか……それは美しい夜だった……跡形もなく道路になった陽子の家や……「馬場」という表札のある母と過ごしたあの家……枝の向こうを落ちて行く夕日……打ち寄せる波……
 どうしようもない寒さが全身を襲った。
 いつだったか……しわくちゃのシーツ……誰か分からない笑った口もと……俺の部屋……肉わたの飛び出した腕……満員のクラブ……後れ毛のほつれた細い首筋……集まってくる脚……脚……脚……
 俺は目を閉じたか、視力を失った。
 いや『脚』は現実だ……だがそれももう意味がない……全ては不可避的に訪れて不可逆的に去って行く……俺の分からない言葉で話す俺が俺を動かし、動いた俺を俺が見る……そうだ……差異はますます乖離して消滅するまで収束しない……
 究極的な快楽が全てを包んだ。
 優しく微笑む母の顔……嬉しそうに喘ぐ文香の顔……おどけて笑う陽子の顔……笑顔、笑顔、笑顔……純白の光……そして……何だこれは……いや……もういいじゃないか……

 やっと、終わったんだ