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完結した夏

1998年 木戸隆行
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2000年4月号 CM掲載作品
 10(現)

 部屋を窓から飛び出した。屋根の間を流れる雲がよかった。
 ゲスな女の股の匂いが高貴な男をゲスにする。愛とはそうしたものをも含んでいた。そして雲が流れていた。
 美しいスズムシの声。絡むようにコオロギの声。
 それらは四方から光の粉のように降り注いだ。夏夜に羽織ったオーバーコートは、それでも蚊の針撃を許した。
 もはや世界の創生主は金ではなく、人でもなかった。陸橋を通過する車窓の明かりは、資本家のものですらなかった。外灯に虫が群がるように女に取り巻かれたい願望を誰もが持ち、俺は持たなかった。
 俺は自らの心音を煩わしく感じた。自らの呼吸音に耳を塞いだ。だが、それは叶わなかった。自然から分離した人間は、自然のことを知り尽くしたのだ。 
 そして、もはやそのようなことを聞きたくはない。いや、聞かないでいたい。疲労や苦労や労災や、病気や狂気や監禁や、愛や膣や陰茎や……
「従うこと」
 それは徹底的に決別することだ。

 11(遠)

「やめてよ、やめてよ、ママ、ママ、マーマー!」
 タイル貼りの浴室に、かん高いわめき声が反響した。全裸の母が全裸の俺をタイルの床に押さえつけていた。硬いタイルが背に冷たい。
「あんた、あの子となにした!」
 俺は両足をジタバタさせた。母は俺の頬を張り、軽石を手に取ると、俺の胸を激しく擦った。俺の胸が赤剥けた。
「いたい!」
「うるさい!」
 母がまた頬を張った。「うるさいよ!」頬を張った。熟した乳房が揺れた。
「汚れたその身体、綺麗に洗い流すんだよ!」
 母は俺を押さえつけたまま勢いよくシャワーを捻った。湯気立ち上る熱湯が俺の顔面を叩きつけた。
「あつい!」
「うるさいって言ってるでしょ!」母が俺の両唇を非常な強さで噛んだ。俺の両目から熱いものが流れ出た。俺は脱力した。
 母は俺にシャワーを浴びせながら、軽石で丹念に擦って行った。痛みが走り、直後、透き通る冷気が吹き抜け、そうして、全身を覆い尽くして行く。
「私を裏切るなんて……許さない……許さないよ!」
 母は軽石を叩きつけた。俺の髪を強烈につかみ、立ち上がらせた。俺は全く脱力していた。余分な肉のない母の身体が視界を覆い、その肌は蛍光灯に透き通っていた。
 母は髪をつかんだままハサミを手にした。浴室を映し込んだ鋭い二枚の金属が、開き、そして閉じた。シャキンという音が頭骸骨に響き、黒い髪の束が次々に落下した。
「あんたはあいつの血を引いてる……そっくりなんだよ……」目の前を髪の束が落下した。「だから、しっかり、しつけなきゃ……」足下のタイルが黒い髪の毛で埋め尽くされて行く。「しっかり、縛りつけなきゃ……」黒い髪の毛が母の脚に貼りついて行く。
「……水面、ママのことが好きなら、分かるわね?」最後の髪の束が目の前を落下した。「はい、できたわよ?鏡を見てみなさい?ほら、素敵ね?」
 鏡では、トラ刈りの俺が切れ毛にまみれていた。「よかったわね?」まだらの頭は青々とし、所々で地肌が露出していた。
「うん……」
 母がシャワーを優しく当てた。頭から顔、胸から腹へ、爪先へ。今度は母が脚を曲げ、自らに付着した毛髪に当てた。母の身体の表面を水の膜が一気に覆い、黒い毛髪を巻き込んだ。そのまま髪は渦巻いて、間もなく全ては排水された。
 そして俺は抱き抱えられながら湯に浸かり、大きなバスタオルに包まれるように拭かれ、パジャマをきちんと着せられた。母は優しく微笑んで、俺はそれを見上げていた。窓の外からシャンシャンとスズムシが緩く鳴いていた。
 リビングのソファーに座り、母が料理を運んだ。豚足の香草焼き、ブロッコリーと赤ピーマンのサラダ。マリネ、ワイン。次々に並べられる豪華で異様な夕食を、俺はただ見詰めていた。
 母は裾の短いナイトドレスに着替え、俺の向かいに腰かけた。カーテンは完全に閉じられ、虫の音も遠かった。
「いただきましょう?」
 そう微笑んで母がグラスにワインを注いだ。真っ赤なワインが波打って、二つのグラスを満たして行った。
 その時、電話が鳴り響いた。
 母は立ち上がり、俺に背を向け、受話器をとった。
「はい、高沢でございます……ああ、お母さん……」母が天を仰いだ。「またその話?もう聞き飽きたわ……ええ、探してるわ……そう言うけど、女が職に就くことがどんなに難しいか、お母さんも知って……うん……うん……だから!その話は何度もしてるでしょ!お母さんと私は違……そう。だったら……うん……だからもう一月、お願いよ……うん……うん……大丈夫、サラ金なんて……うん、分かったわ。ええ。それじゃあね。お休みなさい」
 母は受話器を置き、しばらく立ち尽くした。細い肩の向こうに頭が沈んでいた。シャンデリアのガラス玉で弾けた光が白い天井をまだらに彩っていた。玄関の靴底に隠した四葉を思い、陽子の後ろ姿が呼び起こされた。母のくるぶしが回転し、歪んだ微笑が現れた。
「いただきましょう?」
 母は俺の向かいに座り、俺の手にグラスを握らせた。「乾杯」
 母はうっとりした目でグラスを傾け、ワインを回転させ、鼻にし、口にした。俺は手に持つアルコール臭に吐き気をもよおし、母が豚足を切り分ける隙を見計らい、そっと遠くに置いた。
「はい、あーん」
 今度はフォークに突き刺さった肉塊が、迫った。母は嬉しそうに目を細めていた。俺は息を止め、口を開いた。ゼリー状の不快な物体が、舌の上に残された。それはグチャグチャに腐ったゴムのように、あるいは満開のドクダミのように、俺の吐き気を誘引した。
 俺は何本も欠落した歯と歯でそれを噛み切り、息を止めたまま飲み込んだ。塊は喉の奥で支え、胸の間で支え、胃の底に落ちた。涙がにじんだ。
「はい、あーん」
 それは尽きる事なく繰り返された。母は五回に一回、口にするだけだった。ワインを口にするたびに紅潮して行く母の目もと。溶けて行くまぶた。下ろされ、湿っている長い黒髪。俺の胃袋から込み上げて来る酸の液。皮膚が張り裂けそうに膨脹した腹。
 ワインを口に流し込まれ、吐き気が上昇し、世界は蜃気楼のように回転した。ひとしきり空になったテーブルの皿に残る、汁やタレやそれらどろどろしたものが回転した。
 母がワインを大きく傾け口にした。俺は「トイレ……」と部屋を出た。暗がりの廊下を駆け、ドアを開き、陶器の便器に顔を突っ込んだ。放出。
 よくあることだった。揺れる便器の水面に、鬼気迫る子供の顔が映っていた。スズムシとコオロギの声は近く、俺の嘔吐の声はそれ以上だった。
 よくあることだった。黄土色の腐った水が渦巻いて消えた。非常な苦味が口を満たしていた。非常な酸味が鼻を突いていた。腹の膨脹は治まっていた。
 四角いトイレの窓で、真っ黄色の月がぼやけていた。
 俺は地べたに座り込んだ。もたれかかるドアで心安らいだ。ぼやけた黄色の月光が、トイレの陰影を保っていた。だが、俺はすぐに立ち上がらなければならなかった。
 口に付着したガビガビのカスを見たら、母はまた料理を作るだろう。
 俺はよく洗面し、急いで廊下を戻って行った。夜虫の声は青い廊下で交錯し、キッチンを過ぎて角を曲がると、明かりの漏れるドアの隙間から、母の鼻唄が聞こえた。

 12(近)

 ドアを開いた瞬間、強烈な臭気が鼻を、目を刺した。俺は一瞬顔をしかめ、腕を鼻に当てた。靴を脱ぎ、部屋に目をやると、床に広がる汚物の上で、文香が膝を抱えてじっと座っていた。
 一目見て、汚物は嘔吐と失禁によるものだと分かった。文香の口から流れた嘔吐の痕跡が、髪に、乳房に、膝に、腕に、足首に、床に向かって干からびていた。目の下の隈はくっきりとし、真っ赤に腫れた文香のまぶたはじっと一点を見詰めていた。目尻から頬を伝い、あごに向かって二筋の涙の痕跡が白く干からびていた。
 俺はクローゼットを開け、シャツを脱いだ。文香のまぶたは動かなかった。ズボンを下着ごと下ろし、ベッドに横たわった。文香の後ろ頭は動かなかった。
 CDをそっとサイドテーブルに置き、タバコに火を点けた。カーテンは真昼の日差しを受けて明るく発光していた。文香の背中は動かなかった。俺の鼻は異臭に麻痺し、知覚を忘れていた。目の異常な乾きは、タバコの煙のせいか、尿素のせいか、分からなかった。膝を抱える文香の腕は動かなかった。
「おぉ!」
 俺は足を振り上げ、文香の背中を蹴飛ばした。文香は膝を抱えたまま汚物に倒れた。ビチャッという音を立て、汚物は文香の側面にはねた。カーテン越しの光を向こうに浴びて、その様は実に美しかった。文香のすすり泣きが聞こえ始めた。
 俺はタバコをくわえたまま起き上がり、冷蔵庫を開いた。冷気の霧がこぼれた。そこからハイネケンを取り出して、そのプルタブを引き上げた。
 文香は汚物に伏せて顔を覆い、身体を震わせ、すすり泣いた。冷えたハイネケンが喉に冷たかった。
 カーテンを開いた。入道雲が彼方に積もっていた。一気にハイネケンを飲み干した。日が強過ぎるのでカーテンを閉じた。
「水面……」
 文香が汚物に伏せたまま、むせび泣きながら、繰り返した。俺は歩み寄り、立ちはだかり、陰茎をつかんで文香の顔面に向けた。
「うるっせえんだよ!」
 下腹部に力を込め、勢いよく放尿した。尿は黄色い棒となり、文香の顔に突き刺さった。文香はくしゃくしゃの泣き顔を上げ、口を開き、ゴボゴボと受け止めた。タバコの煙が横に流れた。
 放尿を終え、陰茎を振ると、汚物まみれの文香が俺の脚に巻きついた。「ゆるし……」俺は文香を蹴り上げた。髪をわしつかみにし「あ……」汚物の床に打ちつけた。「あぁ……」打ちつけた。「あああ……」打ちつけた。
 電話が鳴った。
 俺は文香の頭を投げ捨て、汚れた右手で受話器を上げた。受話器に汚物がドロドロとついた。
「あい」「水面か?」「あい」「俺だ」「知ってる」「……お前、学校にはちゃんと行ってるのか」「あい」「本当か」「あい」「じゃあ送られて来た『出席状況に関する通知』に書かれてるこれは何だ!おぉ!答えろ!」「俺を陥れるために仕組まれたナチの工作です」「……お前は自分の置かれている状況が分かってるのか?俺の送金が止まれば、お前は美佳子……あのゴキブリと同じ道を辿ることになるんだぞ?なあ、分かってんのか?……分かってんのか!」「……あい」
 俺はタバコを蒸かした。煙は天井を流れるエアコンの風に乗り、忙しないベルトコンベアーのように流れ散った。
「……あのゴキブリめ!いくらでも金を吸い上げやがった!……俺が……おふくろが、どれだけの汗と血を流してあの金を作り出したか……それを……それをあのゴキブリ!あのゴキブリは、高沢家に、永遠に消えぬ、恥を塗りたくったんだ!」
 目をやると、文香が床から顔を上げ、目を潤ませて喜んでいた。俺はさらにタバコを蒸かした。
「蔑視!断絶!解雇!解雇!そしてその中をおふくろは死んだ……焼けたんだ……頭蓋骨が真っ赤に燃えて……粉々になって……」
「母を家に入れなかったのはあんただ、叔父さん」
「そうだ!その通りだ!だがお前を引き取った!引き取ったんだ!俺の子を……望まれてやまなかった俺の子を……中絶、させてまでだぁ!おぅぅぅああぁ……」
 文香が床を這い、俺の足首に手をかけた。
「だが俺は、一日に一食しか与えられなかった」
 文香の舌が、俺の脚を這い上がって来る。
「当然だ!そしてお前が今、大学に通えているのは、至上の幸福だ!そのために俺が何をしたと思う?汚職!病院の死体を転がしたこともあった……殴打!遺棄!他に何がある?金は作り出す意志のない者には入って来ない!」
 文香の舌が内股を這い上がり、達し、肛門をつついた。
「何を言っているのか全く分かりません、叔父さん」
「何!」
 文香のどろりとした舌が、肛門から陰嚢に向けて辿り、つつき、迂回し、そして吸いついた。
「分からないです、叔父さん、何が望みなのか」
 ブツッ!
 電話が切れた。文香が熱い舌で陰嚢を舐め回し、熱い口に頬ばり、転がした。股下で文香の頭がうごめく。再び電話が鳴った。
「俺だ」「考えがまとまったんですか、叔父さん」「……とにかく学校に行け。そして……」「不可能です」
「何だと!」
 文香は陰茎に手を添えて、丹念に舌を辿らせた。陰嚢から周囲へ、陰茎の根元へ、裏筋を辿り、斜めに迂回し、裏筋を……ああ、近づく!
「……夏休みなんだよ!」
「んなこと言ってんじゃねえだろうが!」
 亀頭を頬ばる!吸う!上下する!舌で、上唇で、熱く、ぐちゃぐちゃと、ゴシゴシと、しごく!しごく!しごく!俺は受話器を投げ捨てて、両手でその頭をわしつかむ!腰を振る!喉の奥まで腰を振る!吸う!腰を振る!吸う!吸う!吸う!
 あああ!
 振り子のように揺れる受話器から、モノラルラジオのような声がする。
「そしてお前が家を継ぐんだ!いいか!分かったな!ブツッ、プーッ、プーッ、プーッ……」
 腰の痙攣を受け止めて、文香の口から滴った。

 13(遠)

 スズムシが静かに鳴いている。障子を透過した月光が畳の編み目を淡く浮き上がらせている。青白い光が添い寝する母を向こうから照らしている。暗がりに天井の木目は長く、押し入れの襖は閉じられている。壁一面の洋服ダンスが巨大に並び、塗壁にじっと影を落としている。
「み……な……も……」
 母が俺の頭を撫でている。スリップに落ちた月光は滑らかに反射し、二人の腰にかけ渡されたタオルケットは柔らかに発光している。布団に流れる母の髪は艶やかにその光を帯びていて、暗がりに辛うじて分かる眼差しは、この上なく和らかだ。
「み……な……も……」
 母の優しいささやきと、頭への優しい愛撫とが、俺にこの上ない安心感をもたらす。むずがゆいような心地よさが幸福な眠気を誘う。俺はこの瞬間がたまらなく好きだった。
「かわいい……私の……水面……」
 コオロギの静かな音とともに、俺は昇天するように眠りに落ちた。

 ……どれくらい時間が過ぎただろう。俺の意識は少しずつ異変に気づき始めた。ただ、決して目は開かなかった。
 異変は俺の顔の全面で起こっていた。額に、頬に、こめかみに、鼻に、耳に、あるいは口に、柔らかく、生温いものが、くっ着いたり、離れたり、うごめいたりしていた。時々チュッと音を立て、ヌルヌルと熱い液体が伝って落ちた。
「かわいい……ああ……水面……かわいい……」
 その声に、俺の身体は果てしない恐怖に硬直した。閉じた目に、何が起こっているかが映し出された。俺の顔を舐め回す母の舌が映し出された。熱い息が肌に触れ、震える手が俺の顔を辿った。俺は硬直から起こる身体の痙攣を必死に抑えていた。
 母のどろりとした舌が、あごの下へと這って行く。母の手が小刻みに震えながら俺のパジャマのボタンを辿り、一つ一つ外して行く。俺のうなじに電気が走った。開かれたパジャマの合わせの間をぬって、舌がどろどろと這い下りて行く。首筋から胸に、乳首に、腹に、ヘソに……
「私のかわいい……私のもの……渡さない……誰にも渡さない……かわいい私の……」
 母の震える両手がパジャマのズボンをゆっくり下ろした。硬直した小さな陰茎がズボンのゴムから跳ね上がり、思わず尻が硬直した時、怒濤のように沸き起こる嗚咽を俺は必死に噛み殺していた。
 脈打つ陰茎を目の前にして、しばらく母は動かなかった。眺めているらしかった。そして熱く湿った息が近づき、俺の陰茎は、衝撃とともに、包まれた。
「あ!」
 ついに声が口から漏れた。母の口に含まれた陰茎は、その舌で強烈に転がされた。過敏な亀頭の快感は、痛みを伴って脳髄を貫いた。母の髪が下腹部をくすぐるたび、強烈な刺激に腰は脈打たざるをえなかった。
 サラサラと母の髪の擦れる音。スズムシの声。俺の声。コオロギの声。
「ああ!」
 母が身を乗り出して、スリップの胸から乳房を露出し、俺の口に押しつけた。熟した乳房をわしつかみにし、俺の口に押し込み、回転させた。俺のあごを押し分け、母の乳首が喉に擦れた。硬く、弾力的に尖ったものが、俺の口内で暴れ回った。
 神様、神様、神様……頭でそう叫んだ。だが、神は現れなかった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
 母が息を荒げ、さらに身を乗り出した。母のスリップが俺の顔面を撫でながら上っていく。さらさらと俺の顔を滑り、裾のレースに到達し、母の動きが停止した。そして裾を持ち上げ、母はその陰部で俺の顔に伸しかかった。
「やめてぇ!」
 茂みが、触れた……粘ついた、生温かい……ああ……
 ネバネバと異臭を放つ陰唇が、俺の顔を上下した。ヌルヌルと、俺の鼻は使われた。ズルズルと、俺の顔は使われた。
 母の喘ぎが頭上遠くで聞こえている。母の腰が激しく前後する。俺の顔が俺の顔ではない気がする。母は母ではなく、ただの肉塊に見える。
 母がゆっくり股を上げた。身体を向き合わせたまま、膝歩きで俺の身体を下りて行く。そして腰の辺りで止まると、自分の股下に腕を通した。……俺の陰茎をつかんだ。
 その状態のまま、母は俺の目をじっと見詰めた。哀れむような、求めるような、そんな目だった。俺はそれが何を意味しているのか分からなかった。ただ、もう顔を使われることがないのだけは分かっていた。母の目はまだ俺の目を見詰めていた。じっと、じっと、長い時間……
「ママ?」
 母の顔が、バターが溶けるように、ゆっくりと変化した。母が俺の陰茎をつかんだまま、ゆっくりと腰を沈めて行った。
「ママ?ママ?……ママ?ママ?ママ?」
 俺の陰茎は、母と、結合した。俺のガリガリの胸板の上で、母はうずくまるように頭を下げた。
「あ、ああ……」
「ママ、ママ?ママ、ママ?ママ、ママ?ママ、ママ?……」
 母の熱い舌が俺の口を深く塞いだ。そのまま、ゆっくりと腰を回した。俺はまだ問い続けていた。問い続けなければならなかった。母の腰を受け止め、母の舌を受け止め、母の喘ぎを受け止め、問い続けるしかなかった。
 他になかった。
 自分の身体が他人のように横たわり、行き果てる母は遠く霞み、むしろ自分は夜露に濡れる、茂みの中のコオロギだった。
 茂みの中のコオロギ……

 14(近)

 文香をシャワーで洗った。それは三日後のことだった。
 嘔吐のカスと一緒に、どろどろの垢も削り落とした。瑞々しい肌が露出して行った。文香は満ち足りた表情を満面に浮かべていた。かわいいやつだ。鼻を千切れる程に噛んでやった。さらに喜んだ。

 ……文香を拾ったのは、この夏の始めだった。
 バーからの帰り道、暗がりの電柱に、文香は落ちていた。文香は膝を抱え、地べたに座り込んでいた。足を止め、覗き込むと、文香は見上げて求めるような目をした。
 外灯の丸い明かりの中心に座る文香は、薄汚れたスカートの裾をはだけさせ、少女のように下着を露出していた。見詰め合う程に、互いの黒目から流れ出て溶け合うものがあった。
 ……やめだ。つまらない。

 綺麗になった文香をタオルで包んで拭いた。膝を脱力させて狂喜した。腕に重かったので投げ捨てた。
 シャツを羽織って家を出た。歩いて五分のキャッシュディスペンサー。カードを飲み込ませ、十万ほど引き出した。赤い数字で残高の紙が出て来た。放っておいた。
 スーパーで買い出しをし、買い物袋を両手に提げ、くわえタバコで空を見上げた。真夏の太陽がギラギラしていた。額を汗が伝った。
 足でドアを開け、靴を脱ぐと、文香は投げ捨てられたままだった。バスタオルに包まり、恍惚の表情で床に転がっていた。俺は腹を踏みつけて「うぐっ」通過した。
 冷蔵庫のドアを開け、食料を突っ込んだ。四段ある棚がトレーやら何やらで埋まって行った。背中で文香が問いかけた。
「ねえ……して?」
 俺は首を横に振った。棚は完全にすし詰めになった。壮観だ。
「ねえ、してよぉ……前戯はいらないから……ねえ」
 俺は首を横に振った。「それよりもタバコだ」ドアを閉めた。
 首を回すと、サイドテーブルのCDが目に留まった。陽光を受けて鏡のように反射していた。俺はタバコに火を点けて、そのCDをプレーヤーに乗せた。プレイ。
 ン、ズーン、ズーンズーン……ン、ズーン、ズーンズーン……そう、これだ……俺は床に寝転んだ。
 そう、この音のうねりの時……陽子が俺を笑った……タバコの煙が真上に伸びて行く。
「ハァ、あ、ハァ、ハァ……」頭上で文香が自慰を始めたようだ。俺はいい気分になって来た。
 そう、この音の爆発の時……陽子が俺の目を覗いていた……少し潤んでいて……気のせいか、求めるような……俺は目を閉じた。
 まぶたの裏で記録映画の上演だ。
 そう、この風のような音とリコーダーのような音が絡み合う時……陽子は……文香の喘ぎが重なった……セミの声も……タバコの味……床の硬い感触……陽子の部屋に入り……文香の喘ぎが高まった……手のひらの俺の髪の感触……見せてもらえなかったベッドルーム……クーラーの風が流れた……そこで陽子は妻子持ちと……眉を歪め……文香の声がくぐもった……
「くそっ!」
 俺はCDを取り出し、立ち上がった。文香は股間に手を挟んだまま、ぐったりと横たわっていた。俺はドアを開け、道に飛び出した。
 246を横断し、山手通りを大股で歩く。頭上に真夏の鮮やかな青空。ビルの窓に反射した太陽は、それぞれが本物の太陽だった。走る車に反射した太陽は、それぞれが本物の太陽だった。
 何倍もの夏が凝縮した通り……陽子の部屋はすぐそこにある。
 十二階の角部屋の……マンションは青空を背景に高く、遠い……セミの声を突き抜けて高く、遠い……俺は真夏のベッドルームに向かってアブラゼミよりも高く叫んだ。
「陽子!今、お前にぶち込んでやる!」

 15(遠)

 物音に気づいて薄目を開けた。母が三面鏡に向かって手を動かしていた。障子が純白に輝いていた。
 腕の動きと連動する母の背中の筋肉が、徐々に昨夜の母を呼び起こし、繋がり、重なった……またがり、うずくまり、動物的に喘ぐ母……全身に残る生々しい感触……見ると、どす黒い異様な靄が、俺の身体をタオルケットごと覆っていた。
 母は鏡に身を乗り出して、何度も半目にマスカラを通過させた。そのたびに、目の輪郭が際立って行った。俺は視線を絡み取られたように母の姿を見詰め続けた……動物的な目……求めるような目……哀れむような目……バターのように溶けて行く表情……それらの映像が次々と、生々しく、目前に迫った。
 コッ……キャップの閉まる音がした。鏡の中の母と視線がぶつかりそうになった。寸前、俺は目を閉じた。
「ふふふ……水面、起きてるんでしょう?」
 その言葉にビクッ、とした。だが俺は目を閉じ続けた。
「だめよ?寝た振りをしても。まぶたが動いてるわ」
 ガタッと、三面鏡の引き出しの音がした。
「水面、お化粧はね、はじめにイメージするところが大切なの。目だったり、眉だったり、唇だったり……そこを引き立たせるように残りを決めて行くの」
 母の動きを音が知らせる。引き出しを閉め……畳を歩き……洋服ダンスを開いた。
「でもね、はじめに唇をイメージしない女……口紅を大切にしない女は、だめな女なの……服や髪型に合わせるなんて、問題外」
 洋服が肌に擦れる音がして、ジッパーの音がした。
「み……」俺はビクッとした「な……」母の声は息がかかるほど耳の側だった「も」頬に母の唇が触れた。
「ママ、お仕事に行ってくるわね?」
 母の音が立ち上がり、部屋を出て、遠のいた。このように言って出かける時、母は数日家を空けるのだった。階下で玄関のドアがカチャッと閉まった。俺は胸で凝り固まった息をゆっくりと吐き出した。
 俺は目を開けた。あれは夢だったのか?……畳の寝室はガランとしていて、障子は白くまぶしかった。
 夢だったのだ……俺はヤセッポッチの身体を起こした。タオルケットがずり落ちた。俺の目に涙があふれた。
 ……下腹部から腿にかけ、卵色に干からびたカスが一面に貼り着いていた……
 それが何なのか、はっきり分かる必要はなかった。それだけで絶望に十分だった。俺は気が狂れたようにそれを身体から擦り落とした。腹の、股間の、腿の、それらの皮膚が、激しい指の摩擦とともに真っ赤に染まった。
「うっ、うっ、う……ぅ、うっ、うっ……」俺の目から鼻から口から、大量の熱い液体が噴き出した。シーツに落ちたそのカスから逃げるように、畳の上を転げ回った。
 俺は自分を助けてくれる誰かの名を叫ぼうとした。だが、それは声にならなかった。少しして、陽子の顔が浮かんだ。だが、叫ぶには遅過ぎた。
 俺は部屋を出た。むせび泣きながら廊下を走り、階段を下りるうち、靴底に隠したクローバーが思い出された。靴に駆け寄り、小さな手を差し入れると、しおれた感触が指先に当たった。それを取り出し、窓の光にかざすと、四枚の葉に染み込んだ陽子の言葉が映像とともに蘇った。
 ……お父さんのぶんまで幸せになれますようにー……
 俺は膝を抱えてうずくまった。泣き叫んだ。涙が膝頭に落ち、足首に伝った。鼻水が垂れ、よだれも口からあふれ出た。尻に廊下はひんやりとし、セミの鳴き声が家の外側を取り巻いていた。
 俺は顔を上げ、もう一度クローバーを窓にかざした。しおれた四枚の葉は、それでも、しっかりと空に開いていた。

 16(近)

 俺は陽子のマンションのエントランスにいた……鉄製のポストボックスを調べていた……あった。
『1206 藤館』
 パネルに番号を入力し、コールボタンを押した。
 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
 パネルのすぐ横で、オートロックのガラス戸が閉じられている。ガラスの向こうに見える通路は建物を真っ直ぐに貫いていて、その両側に、鋼鉄のドアが四枚ずつ並んでいる。俺はもう一度コールボタンを押した。
 一番手前のドアはエレベーターのドアだった。フロアサインの『4』が点灯している。俺はもう一度コールボタンを押した。手の中のCDを眺めた。そしてもう一度コールボタンを押した。さらに押そうとすると、パネルでスピーカーが答えた。
「……はい」
 陽子の声はいつもより掠れ、低い調子だった。寝起きだ。
「……誰?」
「……あ、あの……高沢、です……」
「……なあに、こんなはやい時間に……んん……じゃあ、開けるから上がってきてよ」
「うん……」
 ピポッという電子音の後、ウイーンというモーター音とともにガラス戸のロックが外れた。俺は戸を引き、振り返った。マンションの前のアスファルトの道が、陽光で鮮やかだった。
 エレベーターのボタンを押して、数字が下りて来るのを眺めていると、ガタンとガラス戸の音がした。閉じられた戸の向こうから、見知らぬ男が俺に『開けろ』の合図をしていた。ロックを指差し合図する、ガラの悪いその男を足下から頭まで眺めてみた。ほぼ間違いなく新聞の勧誘員だった。俺は数字に顔を戻した。ちょうどエレベーターが開くところだった。ヒステリックに叩かれるガラス戸の音を聞きながら、俺はエレベーターに乗り込んだ。
 頭上のフロアサインが上昇して行く。天井にはカメラが斜めに取りつけられ、俺の顔をどこかに送信している。
 エレベーターを出て、陽子のドアをノックした。ドアが開き、黒いヘアバンドをした、むくんだ陽子の顔が現れた。苛立ちを抑えている感じだった。コーヒーの芳醇な匂いが漂った。
「あの、これ……」俺はCDを差し出した。陽子がそれを受け取った。「あがって行きなよ」
 俺はうなずき、靴を脱いだ。
 陽子はマグカップを口にしながら、もう一つのマグカップを差し出した。受け取ると、カップ一杯に注がれたコーヒーの黒い表面が危うげに波打った。
 陽子はレコードの壁の部屋に歩いた。生地の薄いズボンに浮かび上がった下着の線が、尻が、柔らかく弾力的にうごめいた。ベッドルームのドアは閉ざされていた。
 陽子は部屋に入るとエアコンのスイッチを入れ、ガラス戸を閉め、床に座り込んだ。ベランダの向こうに青空が広がっていた。『高台』『雲の上』それらの言葉が次々と頭をよぎった。
「どうだった?」陽子がレコードを見比べていた。「うん……」俺も床に座り込んだ。「よかった……」コーヒーを口にした。
「どういうふうに?」陽子がレコードに針を落とした。「うん……」針が落ちたボツッという音を頼りに、陽子の指がボリュームを合わせた。
「どういうふうに?」スピーカーのコーン紙を振動させ、急き立てるようにリズムが浴びせかかった。「うん……」陽子がタバコに火を点けた。「……ほんとに聞いたの?」
「聞いたけど……言いたいことはあるけど……言いたい言葉が……」「わけわかんない」陽子が苛立ちも露に煙を吐き出した。
「うん……」俺の口はごまかすようにコーヒーをすすった。
 ガラス戸から差し込む極太の陽光が斜めに部屋を貫いていた。宙を舞う無数の埃は、顕微鏡で見る精子のようだった。
 俺はもう一度コーヒーをすすった。陽子は目を落としながら、低く、静かな掠れ声で言った。「ごめん私朝弱いから」煙を吐き、タバコを消した。
 部屋はリズムに満たされていた。レコードの壁に目を遣ると、五段に区切られたおびただしい数のレコードが、まるで分厚い辞書の腹のようだった。その壁と反対側の壁には大きなスピーカーが両脇に設置され、ビデオデッキを積み重ねたような鉄の塊に接続されていた。窓の外はやはり青空だった。
 陽子はコーヒーを口にし、針を上げてリズムを消した。セミの声が入れ替わりに流れ込んだ。陽子がレコードを取り出した。
「でも、たまには早起きもいいかも」陽子が呟いた。
 俺は部屋に時計を探した。壁を見渡し、床を見渡し、キッチンに振り返り……見当たらない。
「なに探してるの?」陽子が次のレコードに針を落とした。「時計……」さっきよりも遅いリズムがあふれた。
「ああ……」陽子が鉄の塊に目を遣った。「1時23分」陽子が床で座り直した。
「いつも起きるの5時すぎだから。目がさめて、しばらくベッドのなかでまどろんで、タバコをすって……あ、それから、ベランダに出てまっ赤な夕焼けの空をながめながら、目覚めのコーヒーを飲むのが好き……今はそれがいちばん幸せな瞬間……」
 陽子が外に顔を向けた。鮮やか過ぎる青空。「……今は……それが……」ヘアバンドで集められた陽子の後髪が暴れていた。
「……どうしたの?」
 俺の問いに、陽子の後ろ頭は空を見上げたままだった。「何か、あったの?」
 陽子は物憂げに振り返り、目を落とし、コーヒーを口にした。「私、こんなこと言う人じゃないはずなのに……どうしたんだろう……」
 陽子はレコードの壁を見上げた。
「……とにかく……みいちゃんに言うようなことじゃないから……」
「……彼、とのこと?」俺はマグカップを床に置いた。「……何か、ひどいことでもされたの?」陽子は答えなかった。「……会って、くれないの?」陽子はじっと、答えなかった。「……お金をくれないの?それとも奥さんが……」俺は身を乗り出した。
「ねえ、ようちゃん!」
 リズムが高揚の極限に達していた。鮮やかな青空が差し込んでいた。陽子は壁を見上げたまま、遠い目で沈黙するだけだった。

 17(遠)

 陽子の家に行く途中、道端にある花壇にしゃがんだ。
 放置された花壇には夏草が雑然と生い茂り、その隙間から、色鮮やかな花々が点々と顔を出していた。ミツバチは宙に浮き、蝶は花びらに足を下ろしている。夏草をつかんで引き抜くと、ダンゴ虫がうごめいていた。
 細い十字路をいくつも越え、色褪せた小さな寿司屋を過ぎ、トタン貼りの電気屋を左に折れた。砂利道のフェンスによじ上り、公舎の裏手に飛び下りた。枯れたまま何年も放置された公舎の噴水は底に乾燥した泥を分厚く敷きつめ、俺はそのヒビ割れに手を差し入れて、ぐっと持ち上げて空に投げた。乾燥した泥が砕けながら宙を舞った。
 正門の階段を駆け上り、車椅子用の坂を駆け下りた。だだっ広い駐車場を走り抜け、列を成す杉の木を縫い走り、コンクリートの川を跳び越えた。横断歩道を走って渡り、陽子の家に到着した。
 俺は玄関先に立った。だが、目前のチャイムがどうしても押せなかった。俺はすりガラスから中を覗いた。しかし、ぼやけてよく見えなかった。
 俺は外から陽子の部屋へ廻ることにした。勝手口の前を忍び足で通り過ぎ、洗面所の窓の下をかがみながら歩き、障子の見える窓を越え、角を曲がるとすぐ目の前に桑の木があった。窓に近づき、ゆっくり下から頭を出すと、陽子の姿は部屋になかった。ベッドは乱れ、勉強机に赤いランドセルがあった。
 見上げると、桑の木がすぐ頭上まで枝を垂れ、その枝先で、カミキリムシが触角を動かしていた。そっと枝に手をかけて、ゆっくり下に引き下ろし、カミキリムシに指を開いた瞬間、「みいちゃん」陽子の声がした。
 俺は枝を手放した。枝は空に跳ね上がり、バサッと音を立てて上下にしなった。陽子が窓をいっぱいに開けた。
「ハハハハ!……なあに、クックッ、その、クッ、あたまー!ハハハハハ!」
 陽子は掠れ声で笑いながら、窓から手を伸ばし、俺の頭を撫で回した。ジョリジョリとくすぐったい感触が頭の表面を回転した。
「ハハハハハ!ハハハハハ!……」
 鮮明に思い出される……渦を巻いて排水口に流れ込む無数の毛髪……鋭いハサミをかざして迫る、母の怒り狂った目……そして……
「あ、あの……」陽子の白い歯が見えた。「……ああそぼ!」
 陽子が笑いをこらえて言った。「クックッ……いいよ……クッ……玄関のとこで……クックク……待って、クッ、て、ク……ハハハハ!」陽子のヤセッポッチの背中が腹を抱えながらドアの向こうに消えて行った。俺は玄関先に廻った。
 すりガラスに陽子の影が浮かび上がった。「行ってきまーす」出てきた陽子の肩越しに、コバルトブルーの花瓶が見えた。
「ねえ、なにして遊ぶ?」陽子が好奇心旺盛な目つきで繰り返した。「なにして遊ぶ?」「えーっと……」敷石のタンポポが、やはりしおれていた。「えーっと……」
 陽子が跳ねた。「そうだ、プール行こう!」俺は大きくうなずいた。「うん!」陽子が玄関に振り返った。「私、水着とってくる!」バタバタと陽子が廊下の奥に消え、そして小さく声が聞こえた。
「お母さーん!水着ー!」「……なあに?」「わーたーしーのーみーずーぎー」「水着って、泳ぎにでも行くの?」「あたりまえでしょー!だーかーらーはーやーくー」「泳ぎに行くって、一人で行くの?」「いーいーかーらー!はーやーくー!」
 鮮明に思い出される……全身で優しく微笑んでくれる母……優しく名を呼ぶ母の声……優しく撫でてくれる母の手のひら……
 見上げると、空はやはり鮮やかな青だった。背後で隣家のヒマワリの頭は大きく、セロリのような首も太かった。
「陽子、気をつけなさいよ?この間も、お隣りの真理子ちゃんが……」
 振り向くと、陽子が玄関でビーチサンダルに足を突っ込むところだった。陽子の背後では、婦人がビニールのバッグにタオルを詰めていた。
「みいちゃん、水着はー?」
 婦人が俺に気づき、微笑もうとした。だが、その顔は突然強張り、そしてすぐ、それを隠すように浮かべた笑みは、奇妙に歪んだものだった。
「あ、あら、水面ちゃん……遊んでくれて、ありがとう、ねえ……」
「ねえ、みいちゃん、水着はー?」陽子の背後で、婦人の顔は本来の形を忘れてしまったかのように歪み続けていた。「家……」
「じゃあ、はやくとりに行こうよ!お母さん、行ってくるねー!」「え、ええ……気を、つけて、ねぇ……」
 陽子が飛び出すように駆け出して、俺の横を通過した。婦人の顔はまだ歪んでいた。「水面ちゃんも、気をつけて、ねぇ……」陽子が戻って来て俺の手を引いた。
「はーやーくー!」
 俺は陽子に手を引かれ、婦人にお辞儀して、走り出した。
 横断歩道を走って渡り、杉の間を駆け抜けた。「みいちゃん家、こっち?」俺はうなずいた。陽子が走る速度を速め、さらに強く手を引いた。
 駐車場を抜け、フェンスの切れ目に身体を通した。水のない側溝をまたぎ、砂利道を走った。日に焼けた陽子の腕が、細く痩せている。ビーチサンダルで走る陽子の脚が、細く痩せている。陽子の真っ黒な髪に、太陽が映り込んでいる。
「こっち!」
 俺は声を上げた。そして陽子を引くために、全力で走った。陽子もさらに速度を上げた。頭上に枝が張り出して来て、茂った葉から木漏れ日が瞬いた。爪先が大地をえぐり、木陰の砂利が跳ね上がり、宙を舞って日にさらされた。
「こっち!」砂利道を抜け、小さな工場を左に曲がり「あ!」陽子の手が、ガクンと後ろに留まった。「みいちゃん!」
 振り向くと、陽子のサンダルが、日向の道の真ん中にぽつんと一つ残されていた。

 18(近)

 街を眼下に、空は金色だった。ヒグラシが四方で鳴いていた。陽子と俺は西郷山公園のベンチにいた。
 陽子は腕を組み、脚を組み、金色の光を前面に浴びている。まばたきを忘れた両目には黄金色の夕日が映り込んでいる。俺はここに来て十本目のタバコに火を点けた。空になったケースを捻り潰し、手の中に収めた。
 長過ぎる沈黙は、言葉をことごとく抑圧していた。
 雲はなかった。犬を連れた婦人たちが、隅で立ち話に興じていた。背後の芝生には、シートを広げた一組の男女がいた。陽子はじっと動かなかった。
「あ、あの……」陽子は反応しなかった。「俺……トイレ、行ってくる」俺はベンチを立った。陽子は反応しなかった。
 芝生に沿って曲がる道を進み、トイレに入り、目を落としながら便器に向かった。絞り出すように放尿した。本当は必要がなかった。
 そして便器に向かい続けた。
 俺の頭は陽子にかける言葉を考え過ぎた結果、もやもやを残して放心していた。くわえタバコの灰が分解しながらハラハラと落ちた。
 手を洗わず、トイレを出た。ベンチでは、黄金色の光を真正面から浴びて、陽子が膝に顔を伏せていた。足下では、夜の虫が鳴き始めていた。俺はそっと陽子の隣に腰かけた。泣いている様子ではなかった。
 夕日は低い位置で赤みを帯びた金色だった。見上げると、空から色が抜け始めていた。だが、闇の中には輝く星の粒があった。
「……みいちゃん」陽子が顔を伏せたまま呟いた。
「……ん?」
「……ごめんね」
「……何が?」
「……いろいろ……」
「……例えば?」
「……今、ここにいてくれること……」
 高邁な女王につき従う、下卑な一市民をイメージした。陽子はまだ顔を伏せていた。
「……どうしてそれが『ごめん』なの?俺が自分の意志じゃなく、ようちゃんの意志でここにいるって……」自分が苛立っていることに気がついた。「……とにかく……うん……」
 陽子の頭が腕の上で回転し、じっと俺の目を見詰めた。瞳が少し潤んでいた。
「……ようちゃんが何を思っているのか、俺は、知りたい」
 陽子の口もとが少しだけ緩んだ。「自分でも、わからない」
 身体を前に折りたたみ、憂いを含んだ微笑を浮かべる隣の陽子が愛おしかった。燈色の夕日は空に金光を放射して、今まさにビルの山に沈むところだった。
「……ようちゃん、太陽がどうして沈むか、知ってる?」陽子が首をわずかに横に振った。「反対側の世界で日の出を待ってる者がいるからだって、ギンズバーグが言ってた」
 見上げると、暮れ残る藍色の空に、ぼんやりと月が紛れていた。そして、いくつか星があって、金星があった。後頭部から虫たちの求愛の声がこだまして、それでも、自分がこの空を前ではなく、上であるとしか感じられないことを悲しく思った。
 空は空……地は地……大地は回転し、俺も回転する……つまり俺は今大地の中心点……そして太陽の、宇宙の、あるいは精神の地動説を唱え……「みいちゃん」
 我に帰った。周囲の電灯が込み上げるように点灯した。「……ん?」
 見ると、俺を映す陽子の瞳が、はっきりと潤んでいた。
「……今日、泊まっていって?」
 しばらく見つめ合った。
 陽子の瞳の持つ、熱く甘い空気が俺の身体に伝わり、包み込む。そして、共鳴した俺の身体からも、陽炎のように揺らめく熱く甘い空気が流れ出し、溶け合い、二人の間の空間を隙間なく満たして行く。
 俺は陽子の肩をそっと抱き起こした。陽子の唇が艶やかに濡れていた。陽子の後ろ頭を愛しく愛撫すると、陽子がこらえ切れなくなったかのように俺の首に腕を廻した。
 そして、完全に溶け合った。
 柔らかく濡れた唇と唇とを貪るように求め合った。熱くどろどろとした舌と舌とを貪るように絡ませ合った。これ以上接近できないことを絶望するかのように、きつく抱き締め合った。
 頭を入れ替え、身体を入れ替え、息を荒げ、陽子が俺の膝にまたがり、俺は陽子の腰を、尻を、陰部を、切ないくらいに愛撫した。
 陽子が息を漏らした。「はやく……欲しい……欲しいよ……」
 タクシーを拾い、エレベーターを上りながら、二人は互いに貪り合った。ドアを開け、求めながらしなだれる陽子を抱えてベッドルームに飛び込んだ。
 乱れたシーツの上に倒れ込み、唇を貪り合い、二人は互いのボタンをもどかしく外して行く。露になって行く俺の胸を陽子の頭が這い下りて行く。陽子の両手が俺のズボンを下着ごと引きずり下ろし、這い下り、そして、熱く、くわえた。
 俺は声を上げた。
 強烈な快感を突き上げて、俺の腰でうごめく陽子の頭、うごめく露な細い肩。熱くぬるっとした感覚が、俺の陰茎を包み込み、回転し、上下する。全身が脈打つほどの快感。
 俺は声を上げた。
 陽子は俺の陰茎をくわえたまま、自分の身体を半回転させた。俺が手を伸ばし、陽子のズボンと下着を下ろすと、そのまま顔にまたがった。俺は陽子の股間に貪りついた。すでに濡れ切っていた陰部を舌全体で上下した。吸い込んだ。
 陽子がくわえたままうめいた。
 陽子の陰部を貪りながら身体を愛撫した。陽子は激しく貪りながら片手で俺の身体を愛撫した。うめき合う二人の声は湿り気を帯び、シーツは濡れて肌に貼りつく。
 やがて、横たわった陽子と向き合い、べたべたと肌を密着させて、ドロドロした唇を貪りながら、徐々に、ゆっくり、挿入した。
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