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三年目の作家、として

1998年 木戸隆行
 七月二十二日、火

 自転車の行く手を遮り、立ちはだかった二人の警官。前輪を挟んで右前に、左前に。念を押すように、右の男がハンドルを掴んだ。
 俺が、逃げるとでも?
「ねぇ、こんな時間に……あれ、どうしたのー彼女、その格好?」
 腕の中のナナが深く顔を埋めた。
「そこの海に飛び込んだんだ」
 警官が顔を見合わせた。
「……本当は、どうしたんだ?」
 寒さからか、ナナの肩が震えている。信号が青に変わった。タクシーが静かに発車した。
「おい、本当は……」
「俺は真実を話せばいいのか? それとも嘘を話せばいいのか?」
 左の警官の目がナナを刺している。
「真実だけを話せ」
「真実だけ? 真実を掴んだ奴が今までこの世にいたのか?」
 右の警官が自らを落ち着かせるように大きく呼吸した。
「起きたことを、話せ」
「起きたことを話す……それなら俺じゃなく、起きたこと自体に聞けばいい。俺が知っているのは俺が知っている起きたことでしかない」
「目の前に起きたことをそのまま話せと言っているんだ!」
 とっさに、左の警官が右の警官の肩を掴んだ。危うく合法的に暴行されるところだった。赤い回転灯に照らされながら、口から、鼻から、こめかみから……公務執行妨害。
 落ち着いたところで俺が結論する。
「つまり……あんたの言う真実は、真実じゃなくて合意だろう?」
 逸れた論点。警官は気付かずに結論を吟味する。
「……それで、何が悪い?」
「何も問題ない」
「……」
 問いに詰まった沈黙。愚かな沈黙。いつでも、強いのは問いを立てる側だ。顔を埋めたまま、優しいナナが答えた。
「海に飛び込んだの」
 右の警官は大きく一呼吸した。気が付いたようだ。次なる問を発した。ようやく本題だ。回りくどい。左の警官は車に無線の準備をした。
「その自転車は、お前のか?」
「俺の?」と言おうとして止めた。もう、いいだろう。この警官の言葉にそこまでの意味が含まれていないことも知っている。「あそこで拾った」
 警官は車に上半身を突っ込んでいる相棒に振り向き、「やったんだと」と嬉しそうに言った。
 おめでとう。

 七月二十三日、木、午前八時、「LOVE CRAZY」設立

 七月二十七日、月

(第六、語と語、文と文、段落と段落、節と節、章と章との間の描かれない部分、或いは空白の効果について。
 文が連なって行く時、言及されない部分がある。まず、問題を明確にするためにも、例を挙げてみる。
「警官が車のドアを開いた。俺とナナは後部座席に座った」
「警官が車のドアを開いた。車内灯が緩く点灯した。俺とナナは手を取った。促され、ステップに足を踏み入れると、車は微かに沈んだ。俺とナナは後部座席に座った」
 上の例では時間の経過が速い。そして空間が希薄である。つまり、抽象的で、テンポが速い。対して、下の例では時間がゆっくり経過する。空間は濃密である。つまり、具体的で、テンポが遅い。更に細かく描写していけば、より遅く時間を流すことができる。
 これを前述した「時間と空間は反比例する」に当てはめれば、空白部分の大きさは時間の速さである。
 では次に、段落、節、章の間の空白について考えてみる。
 段落はほとんど文における空白と変わらないように思うが、節や章となると少し趣が違ってくる。
 例えば、節は概ねエピソード毎に区切るものであるが、時間的にほぼ連続しているものから、何ヵ月も空白があるものまである。また、章は概ね複数の節によって形成される流れの完結毎に区切るものであるが、これも時間的にほぼ連続しているものから、はたまた登場人物までもが全く違っているものまである。
 これらについての効果とはどのようなものであるか。
 規模である。つまり、空間の厚み、いや、時代の厚みと言ってもいいかもしれない。規模が巨大であれば距離が離れ、規模が小さければ距離が近い。
 ああ、経験と思考方法の未熟さから、これ以上の事が語れない。
 最後に語と語、いや、何もない行、空白の行の効果について考える。空白の行とは、例えば次のようなもののことである。



 疲れた



 これは、明らかに空白の行に挟まれた語、或いは文、を強調する。そしてその空白の行が一行よりも二行、三行と、増えれば増えるほど効果が高い。また、後述するが、極まった感情のような、真っ白な感覚を作りあげることもできる。
 この節は、思考の未熟さが甚だしい。恐らく私は思考から逃げている。或いは必要を認めていない。どちらにせよ、経験から言っても、今は到底不可能である。
 二度目ともなると口にするのも汚らわしいが、後の解決を期待する。それしかない)

 七月二十八日、火

 深夜の大通りを走っていた。闇だった。アスファルトに反射する外灯が法定速度で流れていた。闇だった。光はほとんどなかった。闇だった。頭上を走る高速道路。闇だった。ガソリンスタンド。闇だった。信号。闇だった。外灯。闇だった。それだけだった。闇だった。
 まるで夢のようだった。二人の警官は前のシートでボソボソ雑談していた。まるで夢のようだった。ナナはうつむいて髪から海を滴らせていた。まるで夢のようだった。

 まるで、夢だった。

 大通りから細い路地に入り、住宅地に出ると、光は全く消え失せた。ヘッドライトが際立った。俺は煙草を取り出した。警官が一瞬振り向いた。
 俺は煙草に火を馴染ませた。オレンジ色が強く輝いた。口から煙が流れ出た。俺は煙草をうつむくナナにくわえさせた。オレンジ色が強く輝いた。うつむいて垂れ下がるナナの髪の間から、煙がどっと流れ出た。
 再び大通りに出て、少し走った後、警察署のゲートを通過した。くたびれたコンクリートの建物だった。窓から蛍光灯の光が放射されていた。車が停止した。ナナは、眠っていた。
 中に案内された。連行ではなかった。案内だった。中には制服の男たちが深夜特有の気だるさでデスクに向かっていた。会話は僅かだった。
 案内した二人の警官は二つの安っぽい椅子を引き、ここで待つように言い残して消えた。眠そうに目を開くナナに、婦警がタオルを差し出した。
 待ち時間は長かった。一台のテレビの音だけが流れていた。天井に張り巡らされた蛍光灯が、黄色くくたびれていた。ナナは頭を俺の肩に乗せ、再び眠りに就いた。
 俺は考えていた。ナナの毛先から、最後の海が滴り、そのまま俺の腕で弾けた。だが、何が先で何が後なのか、何が動いていて何が留まっているのか、未だ分かる気がしなかった。
(第七、文章の量の効果について。
 文章には短いものから長いものまで様々な形態がある。例えば、小説では短編小説、長編小説、詩では俳句、短歌、などがある。では、効果において、これらの間にはどのような違いがあるか。
 まず、短いものは世界の規模が小さいか空間が不明確かで、一度に読み切ることができる。長いものは世界の規模が大きいか空間が明確か、或いは両者を兼ね備えているかで、一度に読み切ることができない。
 もちろん、一度に読み切れない短編もあろうし、読み切れる長編もあろうが、ここでは効果の違いを考え易くするためにわざと大げさに特徴付けた。
 まず気を付けたいのは、空間が不明瞭になることだけは避けなければならないということである。もし、短編で規模を大きく空間を不明瞭にするなら、それはあらすじであり、要約であり、解説である。これは文物芸術ではない。つまり、短編の場合は規模を小さく、空間を明瞭にしなければならない。
 では、残りのものについてはどうか。
 空間と規模については問題がないように思う。ただ、一度に読み切れるかどうか、ここには大きな問題が隠されている。更に考えると、一度に読み切れるほうは問題でなく、読み切れないほうが問題になる。
 と言うのも、一度に読み切れない場合、その文章の流れは読者の現実世界での生活によって分断されるからである。更に、分断が繰り返され、それが長引けば、初めのほうから忘却されて行くであろう。
 現代の生活様式では、大量の文を一度に読み切ることは、まず不可能であろう。つまり、この問題をいかに考えて行くかが大きな問題となる。
 解決策を挙げると、
 第一に、節を読み切れる程度の文量に絞り、適切な見出しを付け、後に容易に振り返られるようにすることである。
 第二に、後の展開において必要不可欠であるような重要な叙述をしないことである。
 第三に、上に述べたような重要な叙述を、記憶に留まるような効果的な表現で、しかもその数を少なく行うことである。
 第四に、世界や展開を興味深いものにし、一度に多くの文量を読み切らせることである。
 第五に、世界を興味深いものにし、何度も繰り返し読ませることによって分断を相殺することである。
 以上のように考えられる。これらの中で普遍性を持つものは第一と第二だけで、残りのものは読者の趣向の問題も絡んでくるであろう。
 だが、このような文量の効果を考慮しながら書くのはよいが、もし、そのために作文が制限されるのであるとしたら、かえって自由に書くことのほうが重要であると思われる)

 八月一日、土

(第八、文章の流れの効果について。
 文章には流れがある。例えば、初めに世界を提示し、そして展開させ、最後に結ぶ、などである。
 このような流れを説明する方法として、最も知られたものに、起承転結がある。我流の解釈かもしれないが、それを説明する。
 まず「起」について。
「起」は世界を設定、提示する過程である。例えば、その文章がファンタジーならば、魔法を使うことができるのか、時間を溯ることができるのか、奇跡の起こりやすい世界なのか、などであり、それはその世界の物理法則を定めることに近い。
 次に「承」である。
「承」は「起」で提示された世界が、通常はどのように展開していくかを提示する過程である。言い換えれば、その世界のありふれた日常を提示する過程である。
 次に「転」である。
「転」は「承」で提示されたありふれた日常を、混沌とさせる過程である。
 最後に「結」である。
「結」は「転」を解決することによって「承」へと回帰する過程である。ただ、その回帰は純粋な回帰ではなく、「転」と「承」を統合した回帰である。言うならば、新たな日常への回帰である。
 例えば「承」の状態を1、「転」の状態をマイナス1とするなら、「結」は0となるような回帰である。ヘーゲルの言う、弁証法的な展開である。
 さて、このような起承転結という分割の方法は、いかにももっともな方法である。例えば、世界を何も示さない状態で「起」以外のものはあり得ないし、「承」によって日常が示されなければ「転」のような混沌はあり得ない。そして「結」もまた、同じ理由によって最後の位置以外にはあり得ない。
 ただ、必ずこのような流れでなければならないとは言えない。
 何故なら、「転」や「結」の必要性は疑問であり、「起」と「承」のみで十分であるようにさえ思われる。特に短編において、起承転結を意識し過ぎた場合、時間と空間の関係により、空間が不十分になる恐れがあるのではないか。
 だが同時に、「転」がなければ流れの強弱が存在せず、「結」がなければ「転」の意義が希薄になることも事実である。
 つまり、これらの割合や有無は流れの意図の置き方に関わってくるのである。
「承」が長ければ「転」が際立ち、「転」が長ければ混沌とした感じが出る。「起」は現実世界を基本とするなら、たとえそれが短くとも、以降の展開の中で世界を明らかにしていけるであろうから、問題はない。
 ただ、「結」が問題である。「結」が長ければ「転」の教訓めいた意義が際立つことは確かであるし、そこに主眼が置かれていれば、何ら問題はない。だが、簡潔なる「結」を必要としないものもある。
 例えば、エピソードを重点としていないものがそうである。世界を主眼とし、エピソードをその引き立て役とするものである。これについては、どんな簡潔な「結」もありえないように思う。寧ろ、簡潔に結ばないことのほうが効果が高いようにすら思われる。何故なら、結ばないことによって、その世界は展開し続けるからである。
 以上のことを踏まえ、文章の流れは、その全体としての意図に基づく方法や割合によって計画されるのがよいであろう)

 八月三日、月

「それで、何か身分を証明できるものは持っているかな?」
 取り調べが始まった。白髪の警官が、油紙に経緯を書き付ける。ナナは眠っている。俺の目の前に置かれた、変形して波打ったステンレスの灰皿から、煙が一筋伸びている。
「つまりはこういうことだね。私は恵比寿でお酒を飲んだ後、東急線で桜木町まで移動しました。そして深夜二時半頃、帰りの電車がなかったため、歩道に停めてあった自転車に乗りました。そうだね?」
「ええ」
 壁一面に降ろされたブラインドが、ヤニでくすんでいる。警官がさらに筆を動かす。
「それで……もうこんなことを繰り返す気はないんだろ?」
「……ええ」
「……以後、このようなことを繰り返さないよう……と……」
 俺は極めて従順だった。それは従順にしていれば罪が軽くなるという計算からではなかった。罪が重かろうと軽かろうと、そんなことはどうでもよかった。ただ、反論するには疲れ過ぎていた。
「これで間違いないか、確認して」と、警官は三枚の油紙を俺に手渡した。
 それに、従順にしていれば罪は軽くなると思いがちだが、実際は逆だ。警官は罰の根拠となる罪を信じる者にめっぽう強い。従順になることは、罪を信じることを自ら示していることだ。逆だ。
「問題ありません」
「じゃあ、次は、あっちで手続きするから」
 俺が立ち上がると、ナナが目を覚ました。
「どこに、行くの?」
 俺を見上げる寝ぼけた瞳。
「一緒に、行こう」
 窓のブラインドから、挑戦的な暴走音が近付いてきた。署のすぐ目の前らしかった。警官たちは気にも留めずにデスクワークを続けた。いつものことらしかった。
「じゃあこっちへ」
 ナナが立ち上がり、手を繋ぎ、隣の部屋に行く途中、一人の警官がブラインドに近付いた。暴走音は轟き続けていた。その警官はブラインドの隙間から外を見下ろして、歪んだ笑みを口に浮かべた。ナナが軽くつまずいた。
 だが、どう試みても、やつらが仲間だとは少しも思えなかった。
「それで、君の罪だけど、正式には占有離脱物横領罪という……」
 自転車をパクッた、だろう?
「まあ、微罪だから、そんなに気を落とさないように……」
 警官がドアを開くと、八つのデスクが向かい合わせに並べられた細長い部屋だった。警官は俺とナナを部屋の一番奥に案内した。カメラが立てられていた。
「ここで座って待ってて」
 俺とナナが座ると、間もなく色褪せた作業服の男が部屋に入って来た。頬が痩せこけ、無精髭の生えた、鼻息の荒い老年の男だった。
 ナナが煙草に火を点けた。男は持ってきた書類をデスクに広げ、鼻息を響かせ、黙って目を通すと、俺に手招きした。
「あー、それじゃあ君、写真撮るからちょっとそこに立って」
 そう言って、「26」と書かれた番号札を差し出した。鼻息が響いた。俺はそれを受け取り、カメラの前に進み出た。ナナが煙を吐き出した。
「私は?」
 俺は首を横に振った。鼻息が響いた。
「背、高いねえー」
 男はカメラを覗きながら角度を調節した。鼻息が響いた。ナナが俺を見詰めていた。暴走音は過ぎ去っていた。鼻息が響いた。蛍光灯が、くすんでいた。
 これはどういうことだろう。
「それじゃあ番号札を顎の下に合わせてくれる? そう……もうちょっと左……うーん……ちょっと右、そう、そこ、そのまま」
 フラッシュが飛び散った。
「じゃあ次は、左から撮ろう……」
 フラッシュが飛び散った。
「次は……」
 つまりこういうことだ。俺はやつらに拘留され、そしてやつらにそうさせるやつらに俺は頼っている。
「唯則……」
 アルファロメオもセンチュリーも、何もなかった。ただ、ナナが海に飛び込んで自転車があった。それだけだ。
 ナナが立ち上がった。
「座ってろ!」
 ナナの肩からタオルが滑り落ちた。ナナの口が歪んだ。
「大丈夫、モノクロ写真だ……分かるだろ? だから、座ってろ」
 口を歪めたまま、ナナがゆっくりうなずいた。
(第九、描写とその効果について。
 いよいよ、この理論を形成する最大の目的である「描写」について考えようと思う。これまでも、描写に関する言及は幾度も成してきた。だが、ここで更に付け加えていきたい。
 さて、描写と言っても風景描写から心理描写まで様々だが、まず、風景の描写から考える。
 私たち人間は、日常あらゆるものを知覚している。例えば、歩いているときは道を知覚し、信号を知覚し、通り過ぎる車や人を知覚している。効果的な描写とは、このような私たちが日常、何気なく風景を知覚する方法に限りなく近いもののことであろう。
 では実際、私たちは物体をどのように知覚するのか。列挙する。
 第一に、時間、つまり明るさは、何よりも先行する。
 第二に、場から個へ移行する。
 第三に、近いものから遠いものへ移行する。
 第四に、静物よりも動物が優先する。
 第五に、目立つものから目立たないものへ移行する。
 第六に、大きいものから次第に小さいものへ移行する。
 以上が、私が現在思い付く限りである。
 もちろん、これら全てが言語に及ぶ知覚ではなく、むしろ、言語にならない知覚がほとんどである。文として書き下ろす場合にも、先に述べた「状況」があれば、全てを書き記す必要はない。
 さて、風景描写と言っても、そこに心理描写のような要素が加わったものがある。明喩、暗喩のような比喩の類いである。
 例えば、「海のような空」、「思い詰めた空」などである。
 ここで注意したいのは、比喩は言葉自体よりも湧き起こるイメージのほうが重要である、と言うことである。上の例で言えば、後者は言葉としてはまだましかもしれないが、イメージとして希薄である。前者は概ね良好である。
 ここでより明確に、こうは言えないであろうか。比喩には石や木や川などといった、誰にとっても唯一不二であるような語、言うなれば存在安定語を当てるのが好ましいのではないか、と。
 そうすることによって、その瞬間の作者本人にしか分からないような一人善がりの比喩は避けられるのではないか。ただ、全く無くしてしまうのがいいわけではない。必要最低限にするべきである。
 次に、風景描写は主として始点のみが描かれるが、終点まで描くとどのような効果があるか、考える。
 始点と終点というのは、例えば、始点だけなら「道が伸びている」であるが、終点まで描写するなら「道が地平線まで伸びている」である。また、別の例で言えば、「桜が一面に開花している」、「桜が公園の隅々まで開花している」などである。
 上の例から、終点を描くと空間が明確になる効果があり、描かなければ抽象的な効果がある、と言えるであろう)
「じゃあ次は指紋を取るから」
 男は荒い鼻息でそう言った。ナナは口を歪めてじっと目を落としていた。
「じゃあ一本ずつね……」男は鼻息を一層荒げてローラーでインクを伸ばした。「はい指出してー」
 俺の指をインクが汚した。「力入れないでよー」男の手が俺の指を紙に押さえ付け、半回転させた。耳元で鼻息が聞こえ、紙から指が離れると、俺の模様があった。両手で顔を覆ったナナ。
 薬指、インクを伸ばす。中指、インクを伸ばす。人差し指、インクを伸ばす。親指、インクを伸ばす。鼻息。
 左手。小指、インクを伸ばす。薬指、インクを伸ばす。中指、インクを伸ばす。人差し指、インクを伸ばす。親指、インクを伸ばす。鼻息。
「次は掌ね」
 鼻息。右手、インクを伸ばす。鼻息。左手、インクを伸ばす。鼻息。突然立ち上がったナナ。鼻息。ナナが男をきつく睨み、俺に顔を近付けた。

 唇が、柔らかく、触れた……俺の模様が、うじゃうじゃと、デスクで、散乱した。

(次に、心理描写について考える。
 心理描写には二つの方法がある。一つは、心理をそのまま描写することである。もう一つは、心理を直接描写するのではなく、行動などを描写することによって間接的に描写することである。
 どちらが効果的かといえば、何人称で書き進めるかにもよるが、後者が圧倒的によいであろう。
 と言うのは、風景描写の部分でも似たようなことを述べたが、私たちは心理、例えば感情、が言語になるうちは、感情的と言うよりも理性的なのであり、感情が極まったとき、言語は感情について何ら述べることができないからである。
 であるから、感情を述べることは寧ろ理性を述べることであり、感情の描写を欲するときにはその行動や世界の見え方などを描くべきであろう)
 ナナの唇が触れていた。男は歪んだ笑みを浮かべ、鼻息を響かせ、ワックスのようなものが詰まった缶を差し出した。
「じゃあこれで綺麗に落ちるから」
 男は道具をまとめて立ち上がった。鼻息が遠ざかる。綺麗に、落ちる? 
 ナナの唇が触れていた。男がドアに消えた。ワックスのようなものを手に取り、グチャグチャと手を擦り合わせると、綺麗に、落ちた。ナナの唇が触れていた。綺麗に、落ちた。
 ナナの唇が触れていた。
「ナナ」
 ロールのトイレットペーパーで手を拭いながら舌先を忍ばせた。滑らかな歯に触れた。ペーパーは床を斜めに転がり、カメラの足で止まった。俺は汚れの落ちた手でナナの頭をわし掴みにすると、激しく何度も口付けた。
 唇を吸い、舌を絡ませ、噛み、また吸う。
「唯則……」
 口を放し、抱き締めた。頭に口付けた。肩に口付けた。首筋に口付けた。

 どこにでも、口付けた。

(次にリズムについて考える。
 文にはリズムを伴った文がある。例えば俳句や短歌などの、五七五、五七五七七、が有名であり、それ以外にも、五五五、など多数存在する。
 このようなリズムは、文を引き立てると言うよりも、それ自体、独立した効果である。或る意味、文とは全く違うところにあるものである。
 それ故、リズムは思考の躊躇を許容しない。リズムが長く続けば続くほど、半強制的に、文の内容は無へ押しやられて行く。逆に、躊躇した思考はリズムを許容しない。
 だが同時に、リズムは同じ文を反復することを容易にする。それは大きな魅力である。
 であるから、リズムの効果を伴う文では、なるべく思考の躊躇を起こさせないような簡潔な表現に留め、同時に反復の容易さの効果を利用することによってその深さを図るべきであろう。
 最後に、視点の人称について考える。
 書き進める上でどの視点から書くかは大きな問題である。一人称、つまり主人公の視点で書くものと、三人称、つまり登場しない人物や作者自身の視点で書くものとは大きく違うからである。
 二つの長所の相違点を挙げると、一人称は主人公の思考や感受を直接描くことができ、三人称は主人公の客観的な行動を描くことができる。短所を挙げれば、一人称は先程述べたように、主人公の極まった感情を描くことができず、三人称では主人公の内面を描きにくい。
 これら二つの長所と短所を見極め、意図に合致した方法で書き進めたい)
 署を出ると、東の空に朝焼けが広がっていた。東のはずだった。連行した二人の警官が、駅まで送ると車を出した。スズメが鳴いていた。蝉も徐々に叫び始めていた。
 運転席の警官の顔が清々しく光を受けていた。助手席の警官が、清々しい逆光の中で振り向いた。
「しばらくしたら通知が行くと思う。その時は署まで来てくれるね? 来てくれないと指名手配をすることになるから」
 優しい脅迫だった。どうでもよかった。清々しい空気の中、俺は四回、うなずいた。ナナの髪も乾いていた。潮を含み、乱れていた。それも清々しかった。
「善いこと、悪いこと、考えてみても仕方ないんだからさ……」
 もやに包まれた朝焼けは、警官に浅はかな言葉と真の笑みをもたらしたようだった。

 八月四日、火

(最後に、題名の効果について。
 さて、いよいよ最後の考察である。題名についてである。まず初めに題名とは何かを考える。
 題名とは、その文章に冠せられた名前のことである。希に、章や節にも題名が冠せられることがある。だが何のために、題名は冠せられるのか。
 それは分類のためである。文章だけではない。例えば私には木戸隆行という分類が為され、更に発展して、木戸、日本人、人間、と発展する。或いは、成年、男性、等とも分類される。では更に考えて、何のために分類が行われるのか。
 それは抽出の利便からである。例えば木戸隆行を抽出しようとしたとき、全世界の人間の名前が列挙されたものから検索することは気の遠くなる作業であるが、日本人、東京在住、男性、二十四歳と分類されていれば、その作業が容易になるのは明白である。
 それはあたかも、先に述べた、種類が有限な語によって無限の事物を表す方法と同じように見える。そしてまた、題名が本体の特徴の一つを表しはするが、本体の全てを表しはしないところも同じである。
 以上のことから、題名を冠することは必要不可欠とは言いがたいが、少なくとも検索に便利なのであり、よって、何らかの意図がないのであれば、題名を冠することが適当であると言える。
 早急と思われるかもしれないが、まとめとして、上に述べた題名を冠する意味などを参照し、適当であると思われる条件を挙げる。
 第一に、題名は本体と無関係ではならない。
 第二に、他の題名と類似しているような、検索し難いものは好ましくない。
 第三に、余りにも多くのものを表すような、非限定的なものは好ましくない。
 以上を以て私の理論構築は一旦完了した。
 思い返せば、我ながらよくやった、と思う。もちろんまだまだ未熟なものであることは知っている。だが、同時に、大きな前進であったことも事実であろう。
 最初は二十一あった論題が、日が経つにつれて数が減り、最後には十にまで減っていた。もちろんそれは多少なりとも思考からの逃避であったが、寧ろ、まとめて論じられるべきものが分散していたという理由が大きい。言い換えれば、それは論を進める最初の段階での失敗であったのである。
 他にも失敗は山ほどある。論題相互の関連のさせ方、結論の方法、論の進め方など、きりがない。これらは今後、更に言語について思索を深めていく過程で解消していこうと思う。何しろ、今現在、私は過程にあるのであるから。
 ただ、ここで気に留めておきたいのは、今後また理論を構築していくわけであるが、それをただ上に積み重ねて行くだけではなく、破壊すら躊躇なく行われるべきであると言うことである。自己矛盾を恐れず、躊躇なく。
 それを山田詠美「ANIMAL LOGIC」風に言うならこうである。
「私を単一な性質のものとして見ないで欲しい。私にだって感覚もあるし感情もある。おまけに第六感というものすら感じることがある。
 盲目的に信じた土台の上に論を重ね、感情を混入する。だが、それが何だと言うのだろう。誰だって何かを盲目的に信じているではないか。
 そう。人は誰でも無限に短い瞬間に生まれ、死に、また生まれる。もし私を単一なもので括ることができるとしたら、それは死んだ私、つまり、過去の私だけなのだ」
 そしてまた、私たちは時間が後であるものほど優れていると思いがちだが、必ずしもそうではないことにも気を留めておく必要がある。時間に伴う変化は劣ったものから優れたものへの一方的な進化ではなく、寧ろ、完全なものから完全なものへの単なる横移動に過ぎないのである。
 であるから、ここに、後発であると言う理由のみでその論を信ずることのないよう、未来の私に通告しておく。
 ありがとう)
 激しい雨音で目が覚めた。裸でベッドに横たわる俺の腰に、毛布がしわくちゃにずり落ちていた。
 裸のナナが窓際で空を見上げていた。雨が激しく降っていた。眩しい光が差し込んでいた。ナナの背中が美しい曲線を描いていた。
「ナナ」
「……唯則、見て……私、こんなに綺麗な天気雨、見たことない」
 俺は髪を掻き上げて身体を起こし、床に足を下ろした。やけに湿っていた。
「早く来て、早く」
 俺は窓辺に歩き、背中からナナを抱き締めた。軽く汗ばんだ肌と肌が触れ合った。抱き締めた俺の腕に、ナナがそっと手を掛けた。俺はナナの華奢な肩にそっと口付けた。唇にきめ細やかな肌が触れた。
「ね、綺麗でしょう?」
 見上げると、分厚い雲に覆われたどす黒い空の真ん中に、青々と眩しい空の穴がぽかんと開いていた。
「ああ」
 眩しい光の中、透明な大粒の雨が窓ガラスを叩き付け、激しく流れ落ちている。
「確か、あの日も……」
 青空。叩き付ける雨。青空。叩き付ける雨。青空。叩き付ける雨。
「ねえ、屋上に行こう?」
「ああ」
 裸のまま、手を繋ぎ、俺とナナは玄関のドアを開いた。傘立てにはあの日のナナの傘が立てられていた。
 裸足で階段を駆け上り、屋上のドアを開いた。



「……最高だ!」



 見渡す限り土砂降りの雨。降り注ぐ夏の日差し。耳を塞ぐ激しい雨音。湿ったコンクリートの匂い。足の裏の生温い水。



「唯則!」



 いつまでも、こうしていよう。ずっと二人で、踊っていよう。
 裸のまま、身体を濡らし、裸のまま、日を浴びて、裸のまま、手を繋ぎ、裸のまま、抱き合って、裸のまま……裸のまま……

 ナナ、ナナ、ナナ、……ナナ。