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三年目の作家、として

1998年 木戸隆行
 七月四日、土

(昨日、チャールズ・ブコウスキー著、青野聰訳の「町でいちばんの美女」を読んだ。いい短編が二、三あった。その外の短編にも、いい部分がかなり見受けられた。
 そして思ったのが、これが思い上がりであることは確実だが、彼の書いたものは、まだ到達してはいないが、私が求めているものにかなり近いのではないか、と言うことである。
 それは言葉の選び方という部分についてではなく、言葉の使い方という部分においてである。もう少し具体的に言えば、絵を描くように言葉を使う、という部分である。
 私は、言葉にはそのままイメージに直結する言葉と、一旦理性で分解吟味してからイメージになるものとがあると考えるのだが、先に私が言ったものはそのままイメージに直結する言葉のほうである。
 そして次に、接続語を可能な限り省く。何故なら理性を介入させないためである。だが一方で、理性を介入させる。それはあたかも、何を悩んでいるのか分からないものを解消しようとするジレンマのような方法で。
 このあたりの説明は、私自身の分析がまだ不足しているので、十分にはできない。だが、この理論を構築していく過程で、それが明らかになることを信じて疑わない)

 七月六日、月

 目の前を伸び縮みしながら漂うナナの煙。極めて静かなエンジン音。快適過ぎる別空間。沈黙。ナナの煙。白手袋。
「空があんなに……綺麗で、不安で、怖い……ねえ、もう少しで今日が終わるわ……あと十秒……三秒……明日になった、ううん、今日になったの……今日から……今日になった」
「何も変わらない、少し分かるようになるだけだ」
 遥かに続く浮遊した大地。バックミラーに写る、浮遊した大地。前にも、後ろにも。遥かに続く。
「唯則が好き、ただそれだけ」
 俺はただの運転手なのに、か。金を貰って、奴を送って、煙草を吸って、酒を飲んで、女を抱いて、同じ手で子供を抱いて、そして眠る、ただそれだけなのに、か。
「でも……その左手にしてる手袋は嫌い。大嫌い。でも唯則が好き。どうすればいいの? 煙草を消したい。本当は好きじゃないの。でも本当は好きなの。だから消したいの。このスリップドレスだって、この帽子だって、唯則だって……」
「喋り過ぎだ」
「思ってること全部話す、って言ったでしょう?」
「と話そうと思ってる、と話そうと思ってる、と話そうと思ってる……本当はそんなところだ。不可能だ」
 追い抜いて行く黒いポルシェ。ワーゲンではない。ポルシェだ。
「……ごめんね……ごめんね……」
(第二、語の順序、或いは反復の効果について。
 まず、品詞について考える。
 品詞の大きなものに名詞、動詞、形容詞、接続詞、副詞がある。ここで考えたいのは、それぞれが受け手にどのような効果を与えるのか、と言うことである。
 まず名詞。これは指された物自体を思い浮かばせる。例えば
「星」
 のように。
 次に動詞である。これは物ではなく、文字通り動きを思い浮かばせる。逆に言えば、物体としては何も思い浮かばせないのであって、必ず何らかの動きの主体を必要とし、或いは、何も主体が示されていなければ、漠然とした主体を自然に仮定してしまう。例えば
「走る」
 のように。
 次に形容詞である。これも物ではなく、様態である。そして同じように主体を必要とする。例えば
「遠い」
 のように。
 次に接続詞である。これは先にも述べたように、文と文を繋ぐための語、つまり理性による強制的な連結、断絶であり、肉体的、感覚的なものではない。そしてこれも主体、この場合は「文」が必要である。例えば
「そして」
 のように。
 次に副詞だが、これは書き手の判断であり、接続詞と同じように理性的なものである。例えば
「すごく」
 のように。
 以上のことから、もし肉体感覚的な感じを出したいのであれば接続詞と副詞をできるだけ使わないことではないだろうか。逆も然りである。
 次に、それぞれが持つ時間と空間とについて考えてみる。世界を築く効果を知るために。
 名詞は空間的である。動詞は時間的である。形容詞は空間的である。副詞、接続詞は、時間も空間も持たない。
 では本題に入ろう。語の順序についてである。
 まず、形容詞と名詞を組み合わせる。その効果を比較するために二つの例を示す。
「美しいナナの脚」
「ナナの脚が美しい」
 上の例、一般に体言止めと言われる形、では、映像が鮮明で、主人公の視界を感じさせる。対して、下の例では映像が漠然とし、余韻のような、主人公の陶酔のような感じを与える。
 次に、動詞と名詞を組み合わせてみる。
「走るセンチュリー」
「センチュリーが走る」
 上の例では動作の途中、下の例では動作の始点のような感じを受ける。映像が鮮明なのは上の例である。
 では次に、形容詞が複数ある場合はどうか、試してみる。
「細く、長く、艶やかで、美しいナナの脚」
「ナナの脚が細く、長く、艶やかで、美しい」
 上の例では映像が漠然としてしまう。形容される主体が長時間不在だからである。これはいただけない。下の例ではあたかもカメラが次々にズームアップするかのごとくに効果的である。そして余韻や陶酔のようである。つまり、複数の形容詞の場合は、原則として、名詞が先に来るべきである。
 動詞の場合はどうか。試してみよう。
「走り、曲がり、上下して、通り過ぎるセンチュリー」
「センチュリーが走り、曲がり、上下して、通り過ぎる」
 これも形容詞の場合と同じような感じを受ける。
 つまり、肉体感覚的な効果を求める場合は少数の形容詞または動詞を先に、その後に名詞を持って来るのがよい。余韻的、または感傷的な効果を求める場合は少数の形容詞または動詞を名詞の後に持って来るとよい。また、次々とカメラがズームアップするようなリズムと映像の効果を求める場合は、多数の形容詞または動詞を名詞の後に列挙すればよい。
 そしてそこに副詞や接続詞を交える場合には、少なからず理性的なイメージが介入し、また、その順序は形容詞の例のような効果を上げるだろう。例えば
「極めて美しい」
「美しい、極めて」
 のように。
 さて、二番目の本題に移る。語の反復の効果についてである。反復にはどのような効果があるか。
 まず、強調の効果があると思われる。強調は語を加えることでもできるが、それとはどのように違うのか試してみる。
「俺は馬鹿だ、俺は馬鹿だ」
「俺は本当に馬鹿だ」
 上の例は主観に没入した深刻さがあり、下の例は冷静な方向に一歩引いている感じがする。
 また、同じ語や文を繰り返す形式と、意味はほとんど同じで違う語や文を繰り返す形式とがあるが、それらの効果の違いはどうか。
「俺は馬鹿だ、俺は馬鹿だ」
「俺は馬鹿だ、馬鹿だ俺は」
 先程述べた通り、上の例は主観に没入した深刻さがある。だが、下の例は一歩引いた感じがし、しかも、諦めてその事を笑ってしまおうという感じすら受ける。
 次に、時間を経過させる効果があると思われる。試してみる。
「流れる外灯、流れる外灯、流れる外灯、流れる外灯。ナナの脚」
「流れる外灯。ナナの脚」
 効果は明白である。
 最後に、接続詞と副詞の単独反復を考えてみる。
「そして、そして、そして」
「すごく、すごく、すごく」
 これらはその語が単独で使用される場合、例えば「そして」の後に何もない文、は、その後に続く部分において文脈から思い起こされるであろう意味、或いは漠然とした何物か、を強調する。
 そしてその反復は、その思い起こされるであろう部分をより強調する効果がある。また、形容詞などと同じように、時間を経過させる効果もある。
 以上の考察を踏まえ、それぞれの効果を常に考慮に入れながら書くべきである)

 七月七日、火

(第三、表記法や語尾の効果について。
 語は同じ意味を違う表記で表すことができる。例えば自分を指す語を「私」にも「俺」にも「僕」にもできる。これらは一見で、その指された者の性格などを受け手の中に形成する。当然のようだが重要である。
 そしてまた、同じ語でも平仮名と片仮名と漢字では、受ける印象が大きく違う。つまりこれも、その語を使用した登場人物なり作者なりの人格を形成するのに影響を及ぼす。
 では具体的にどう違うか。試してみる。
「馬鹿野郎!」
「ばかやろう!」
「バカヤロウ!」
 印象として、漢字は堅く、真剣で、冷たい。平仮名は柔らかく、真剣で、暖かい。片仮名は堅く、軽薄で、暖かい。
 更にこの言葉を次のように書けば、より軽薄な感じが出る。
「バカヤロー!」
 次に、外来語と比較してみる。
「性交」
「セックス」
 印象として、外来語はどこか軽薄で、他人事のようですらある。片仮名以上に効果が望めそうである。
 そう言えば、これは外来語ではないが、最近耳にする「ボコる」「ラチる」などもこの類いではないであろうか。指されたものが深刻でも、このような言葉に置き換えることによって自分たちの行為をどこか遊びのように感じるのである。
 これに限らず、同じ意味を指す語が時代と共に変わる、つまりその世代特有の言葉がある、或いは、人それぞれに言葉の選び方や使い方が違うのは、語の印象と個人の思考形態との合致という点から見て、ごく自然のことであろう。
 さて、私は時々、難解な語について「どうしてわざわざ難しく書くんだ」と言う人を目にする。もっともである。だが、そうでない部分もある。そのことについて考察する。
 確かに、分かり易い語で表せるものを難しい語で表す必要はない。だが、分かり易い語というのは往々にして様々な意味に取れ、正確に伝達するのが難しいという面を持っている。
 例えば「分かる」という言葉一つをとっても、すぐに思い付くだけでも「分析できる」という意味と「認識できる」という意味と「知識として持っている」という意味の、三つの意味を持っている。この三つの意味の相違は、厳密さを求める文にとって致命的である。
 そしてまた、文を厳密かつ平易にしようとすればするほど、その語数は多量のものとなり、全体で表される意味を把握し辛くするのである。例えば
「ロゴス中心主義とは、表音的文字言語の形而上学である」
 を平易にするとこうなる。
「言葉が本当に説明しているもの、言葉で考えるときの決まりを守っているもの、または言葉が本当に語っている中身、を何よりも大切にしていくこと、とは、例えばアルファベットのような、それ自身は意味を持たないただの記号の並べ換えでしかない物、が、どうしてある意味を表すことができるのかを考えることで、それはほとんど意味のないこと、だ」
 そう。明らかにこれは現実的ではない。
 つまり、語の厳密さを必要とすればするほど、文章は「必然的に」難解にならざるを得ないのである。そしてそれを平易にする必要も、あまりないのではないであろうか。
 何故なら、この手の文を必要とする人々は、難解な語であろうと自ら進んで辞書などを調べ、語と意味とを直接に結合させていくであろうし、必要としない人々は、いくら平易に書いたところで読み切ることすらほとんどないであろうから。
 つまり、不必要な人のために必要な人が無駄な文字数を読まなければならないことになり、それはまるで誰もが着いて行けるように取り計われた退屈な授業のようなものである。クラス分けをするしかない。
 どうであろうか。
 さて本題に戻ろう。語尾についてである。
 語尾、つまり語の活用には、過去形、現在形、未来形があり、更にそれらに組み合わせて継続形、終止形がある。その他に、敬語、伝聞、推量、断定、可能、否定、などの活用形がある。
 この中で私が考えたいのは、現在形と過去形との効果の違いである。試してみる。
「ナナが肩を震わせる」
「ナナが肩を震わせた」
「肩を震わせるナナ」
「肩を震わせたナナ」
 現在形は密接で、流動的で、同じ状態を引き摺る感じを受ける。過去形は距離があり、安定的で、置いてくる感じを受ける。
 ここから以下のようには言えないであろうか。過去形は回想や伝聞などに用いられる、非主体的で理性的な形態であり、対して現在形は主体的に感受し、経験していくまさにそのものであり、感覚的な形態である、と。ここで非主体的とは、瞬間毎に分割される区分における今の自己と過去の自己との違いをも含む。
 それは読み手と文との間に書き手を存在させるものではないであろうか。敬語、主に丁寧語、においてそれはより顕著であろう。何しろ読み手に敬意を払うことによって自らの存在を誇示するのだから。
 さて、ここで気を付けたいのは、文には必ず矛盾が含まれているということである。
 と言うのは、現在形で書くことは「読んでいる文」において真であるが、「読み終えた文」において偽であるからである。逆に、過去形で書くことは「読んでいる文」において偽であるが、「読み終えた文」において真である。
 更に、読む瞬間において、その文が書かれた時点から考えれば過去形が真であり、また、読む時点で考えれば現在形が真である。
 ここに述べた時制の判断基準は読み手であるが、書き手においても同じようなことが言える。例えば、今書いている文は現在形で、書き終えた文は過去形で、と言うように。
 これは記号が自らその形態を変えることができず、かつ、読まれた直後に消滅することもできないという点から起きる問題であり、微妙で、取るに足りなく、必要不可欠な問題である。
 そしてそれは、書かれてしまう「文」の問題であり、読む前に存在してしまう「文」の問題である。言葉遊びであり、その遊びを用いて思考することの問題である。結論までは程遠い。
 最後に、表記法に関連した問題において感じた、ありきたりな意見を述べるという、ちょっとした自己満足を果たしたい。
 表記には活字、直筆があるが、私は活字を大いに称賛する。それは自らの文字が稚拙であるからだけではない。
 文字の形状が作品に与える影響は余りにも大きい。その点、活字はそれ自身、無機質で何の特徴をも含んでいないがために、かえって作品を文字形状から自由にし、文字の組合せからなる観念の創造に集中することができるようになった。
 私はそれを言語表現の進化と称賛せずにはいられないのである)
 黙り込んでいるナナ。自ら俺を責め立てさせる静寂。外を見ているナナ。耐え切れない。
「人はどうやって夢が夢と分かるか分かるか?」
 黙り込んでいるナナ。静寂。外を見ているナナ。静寂。
「例えば今日、雲で天の川が見えなくても、それでもあいつらは再会し、一年分の性交を果たすように、全ては、言葉ですら、その真偽を決めるのは、結局、感覚でしかないんだ」
 黙り込んでいるナナ。静寂。外を見ているナナ。静寂。
「だけど、こうやって言語とばかり向かい合っていると、まるで自分が記号の形に切り抜かれるみたいなんだ」
 自らの両肩を抱きすくめるナナ。俺は続ける。ステアリングが傾く。
「そして気が付けば、まるで全身が欠如しているかのようなんだ」
 肩をすくめ、ナナが震え出す。
「思い起こしたり、組み合わせたり、移ったり、感じたり、何をしている、俺は? 表面をなぞっているに過ぎない」
 肩をすくめ、震える、震える、震える……
「結局のところ、俺は狂っているんだ。それが俺が狂っていない証拠」
 ナナが呟く。細く、擦れた声。
「光……闇……光……闇……張り裂けそう……遠くて……単調で……広くて……ねえ……張り裂けそう……」
 高速出口。ランプ。「みなとみらい」ステアリングをゆっくり切る。
「ランドマークタワーは? あれほど人が手を掛け、人の手から離れたものが手を掛けたものはない」
 迫り来るバベルの塔。澄み切った夜空。聳え立つ塔。澄み切った夜空。恐ろしく遠い塔。澄み切った夜空。
「……触れ合いなんて、欲しくないの……広さなんて、欲しくないの……明るくて……複雑で……混沌としてて……冷酷な……」
 車が徐々にスピードを落とす。左を流れる縁石が近い。路面を点滅させるハザードランプ。
「……唯則は?」
 センチュリーが停止した。心の触れ合い? エンジンが停止した。いや……ナナを抱き寄せた。
 ……ただ、肌の触れ合いが欲しかった。

 七月十五日、水

(第四、語と語との繋がり、主語と述語と修飾語との関係、そして語の量の効果について。
 語の存在は他の語と関係し、連なることによって初めて可能となる。一語では語は成立しない。
 ここで一語とは状況の設定がない状態のことであり、例えば「どんなジャンルの音楽が好きなの?」という問いに対して「ジャズ」と一語で答える、等を含まない。
 と言うのは、この「ジャズ」という一語は、問いによってあらかじめ「私の好きな音楽ジャンルは」という語が状況的に設定されており、たとえその部分が表現として現れなくとも、意味として存在するのである。
 では、不必要とさえ思われるが、本当に語が単独では成り立たないのか実験してみる。困難であることは承知の上で、今まで読んできた文脈は一切忘れてもらいたい。

「俺」

 それが何だと言うのか。もしここに状況が設定されていれば、例えば「誰がセンチュリーを盗んだのか」と言う怒りが渦巻く中で「俺」と言えばそれは意味を成す。だが、ここにおける「俺」は状況を設定していない。
 或いは、もしこれが活字ではなく筆で書かれていたのなら、文字の造形美などを見ることもできよう。しかし、これは活字である。
 つまり、この「俺」は「俺」である必要が何もなく、更に「俺」を発する必要すらない。
 もしこの語が単独で存在するなら、どのような必要によって生み出されたというのか。目の前にいる相手が、何の状況的制限もなく、自分を差して「俺」とだけ言うならば、それは言わなくても相手が相手なのは明らかであり、全く必要がない。これは「俺」でなくとも、例えば「リンゴ」でも同じである。
 つまり、語は一語だけでは存在できないのである。最低でも二つ以上の語がなければならない。自我の存在条件と同じように。
 では、今度は二語にしてみる。

「俺は外した」

 まだまだ不十分だが、意味も存在理由も成立している。更に語数を増やしていけば、意味がより詳細になる。

「俺は白手袋を外した」
「俺はそれを漆黒の夜空に放り投げた」
「澄んだ闇の中、それは手を握り締めながらゆっくり上昇し、手を開きながらゆっくり落下した」

 最後の文は一つの文ではなく、二つの文の連結である。
 このように、語は二つ以上の複数の語が互いに関係し、連なり、文となることによって初めて成立するのである。
 文は語がなければ成立せず、語は文でなければ成立しない。もちろんここでの「語」は、表現としては無でも状況としては有であるところのものを含む。
 そして承知の通り、語は性質によって名詞、動詞、等に分けられる。また、他の語の分け方として、文中に果たす役割に基づいて分類する方法がある。主語、述語、修飾語、である。この分類方法で更なる分析を試みる。
「電飾を施された日本丸が、うごめく暗黒の大地のような海に浮かんでいる」
 この文を分類する。
「電飾を施された(修飾語1)日本丸が(主語)、うごめく暗黒の大地のような海に(修飾語2)浮かんでいる(述語)」
 この文における読者の意識の流れとして、まず、修飾語1がその様子を宙に浮かべたまま次なる主語を待ち、主語の出現によって宙に浮いていた修飾語1が主体に貼り付き、そして貼り付いたその主体を宙に浮かべたまま述語を待つ。次に、修飾語2がその様子を宙に浮かべたまま次なる述語を待ち、述語の出現によって宙に浮いていた全てが確定し、完結する。
 前述した通り、語数が増えれば増えるほど意味は限定され、詳細に、鮮明になる。限定とは、例えば時間であり、場所であり、物体であり、方法であり、視点であり、つまり状況である。そして同時に、語数の増加は「宙に浮いている時間」を長くする。
 この「宙に浮いている時間」は、その時間が長ければ長いほど、つまり詳しく説明すればするほど状況を意識に留めて置くことに気を配らなければならず、必然的に理性的になり、流れる時間を遅くし、空間を濃密にする。逆に、その時間が短ければ短いほど、つまり説明を減らせば減らすほど状況を意識に留めておく必要が薄れるため、感覚的になり、流れる時間を速くし、空間を希薄にする。
 では、その証明と効果を知るために、いろいろな組合せを試みる。
 まず、修飾語を省いてみる。ここでもまた、上に述べた状況を一切忘れ、読んだ後で思い出し、比較してもらいたい。

「日本丸が浮かんでいる」

 語が宙に浮いている時間は無に等しく、流れる時間は速い。浮かぶ情景は非常に自由度に富んでいるが、同時に、ほぼ無である。意味が余りにも非限定的であるからである。
 次に、語数を増やしてみる。

「俺とナナは闇夜を貫く細く淡い月光の下、船べりに細い一筋の電飾を施された日本丸が、不気味にうごめく暗黒の大地のような太平洋側の海に、身動きもせず静かに浮かんでいるのを遥か遠くに眺めていた」

 浮かぶ情景は非常に鮮明であり、同時に、不自由である。流れる時間は遅く、宙に浮いている時間は長い。
 このような両者の効果の長所と短所とを知り、それを生かし、或いは補うべく、例えば短文ならば、文の数を増やしてテンポよく、感覚的に世界を形成していく、長文ならば文の数を減らしてゆったり、理性的に世界を形成していく、などの方法によって、効果を挙げたい。
 最後に、未熟な私にとってこの節は余りに複雑で、まとまりを欠いてしまった事を反省し、お詫びし、無責任にも、将来の自分による解決を期待したい)
「ねえ、見て」
 澄み切った夜空。遠く小さい日本丸。どこまでも暗く、不気味に深い海。波に揺らめく淡い月光。手摺に掛けられたナナの指。
「海が、揺れてる」
 足下遥かに低く、黒い海がうごめいている。灰色の飛沫を浴び、堤防が波に濡れている。巨大な黒波が、緩やかに膨らみ、打ち付ける。
 ザザー、ゴー、ゴー、ザー、ゴゴー、ザーッ。
 うごめく。うごめく。打ち付ける。うごめく。
 それは遠く水平線に続いている。海の黒。空の黒。岬の明かり。
「ねえ……私……飛び込んで、みたい」
 ザーッ、ゴーッ。
「やってみればいい」
 むせ返る潮の匂い。
「いいの?」
「やってみればいい」
 ゴーゴ、ゴー。ナナが手摺に腕を掛けた。
「本当に、いいの?」
 遥か下方でうごめく海。暗黒の、海。むせ返る潮の匂い。
「やってみればいい」



 帽子が宙を舞った……ナナが飛んだ。



 ナナが小さくなる。広げた両腕が小さくなる。飛び出した形のまま……ほとんどドレスがはためかない……そして……



 あがった……小さな、飛沫が。小石が落ちたように、小さく……



「本、当、に、やり、やが、った……」
 宙を舞う帽子が風に流れる。
「……本、当、に?」
 帽子が彼方に小さく着水した。
「……いや、俺は、これが小説だということを知っている……だから、これは、嘘の、出来事、なんだ……」
 小さく波に揺れる帽子。小さく浮かび来るナナ。
「……嘘?」
 水の膜を破り、ナナの頭が飛び出した。
「……じゃあ、目の前に起きている、これは、何なんだ?」
 髪を掻きあげる小さなナナ。
「これが……こんなにはっきり見えるこれが、本当じゃないって言うのか?」
 小さくナナが俺を見上げている。小さく波に揉まれている。小さく月光に揉まれている。小さく潮騒に揉まれて……微かに、聞こえる……助けて……

 七月二十日、月

(第五、文と文との繋がりの可能性、或いは広げて段落、節、章、同士の繋がりの可能性、つまり、文章の成立の可能性とその効果について。
 まず、こう問うてみる。ある一文と、他の文とは繋がることが可能なのか。
 可能である事は間違いない。事実、私たちは繋がりを感じているのであるから。と言うことは、ある一文とある一文との繋がりが成立するのであるから、その二つ以上の文は何かを共有していなければならない。では、何を共有しているのか。
 それは世界である。ある一文が形成した世界を、他の文も共有することによって文同士は繋がり得るのである。決して「それは」「何故なら」「では」などの接続詞によって可能になるのではない。接続詞の後に、その前の文と世界を全く共有しない文を繋ぐことが可能である事がそれを示している。
 では、世界をどのように共有するのか。
 それは、ある一文と他の文とが、大きな一つの世界の枠の中に留まり、しかもその世界を展開していくことによって、である。
 展開と言うのは、無、或いは無限の有の状態から世界を徐々に限定していく過程であり、境界線の設定である。
 例えば、この上十行ほどの文は、冒頭に掲げられた「第五、文と文との〜」という問題の解決に向けた回答の可能性を限定する、言い換えれば誤った結論を除去するという展開において統一を形成している。また、唯則とナナの部分においては、同一の登場人物が同一の世界に留まって活動し、その活動によって世界を展開することにおいて統一を形成している。
 そして、展開が進めば進むほど、つまり文量が増えれば増えるほど世界は明確になるが、同時にそれは、次に続く文の可能性を狭めて行く。言い換えれば、文は世界を形成し、同時に、その形成された世界に縛られて行く。
 それは、作者自身においても言える。作者の作文方法が、或いは作者の選好する世界が明確になればなるほど、そこから産み出される文章の自由度は減少する。
 しかし、それらは欠点ではなく、むしろ目的である。問題であれば回答であり、小説であればクライマックスである。
 段落や節や章においても同じように言える。ただ、最近流行している、章毎に視点、つまり主人公を変えるという手法が例外に思われるかもしれないが、それは全体として一つの世界を形成しているのであり、例外にはならない。
 付け足すが、文とは複数の語が集まって一つの意味を形成するものであり、段落とは複数の文が集まって一つの意味を形成するものであり、節は……以下続く。それぞれはこのような意味単位である。
 では次に、同一の世界を共有する複数の文、段落、節、章における順序について考える。
 以前に、一文の中における複数の語を入れ替えた時の効果について述べた。では、複数の文、段落、章、節においてはどうであろうか。
 これは語におけるほどには容易ではない。いや、ほとんど不可能に近い。何故なら語は要素であり、文は意味であるからである。言い換えると、語は意味を表し得ないが、文は段落から見れば要素にはなり得えても、決して意味を失うことができないからである。更に言えば、意味は世界を形成することにおいて時間的要素であるからである。
 例えば、Cを求める問題であれば、AならばB、BならばC、であるからAならばC、という順序を変えることは他の文の存在価値を失わせることであり、小説で言えばAが死んだ後、A以外のものによってAが生きているという回想は可能であるが、A自身が生きることは不可能である。
 もちろん、順序を入れ替えることが可能な文も存在する。だが、作者が順序の効果を十分に吟味したならば、そのようなことはほとんどない。
 私たち人間は、あることを知ってしまうと、二度とそれを知らない状態には戻れない。つまり、ほんのちょっとした順序の誤りが、致命的な誤りに繋がる。それを意識に留め、書き進めたい)
 深夜の風が爽やかだ。桜木町の駅を越え、自転車を拾った。ガンメタルの自転車。後ろに座るびしょ濡れのナナは、爪先から海を滴らせている。爽快だ。ガードに沿って走る。
「海が真っ黒にうごめいて……淡い月明かりを揺らして……ぐちゃぐちゃに……」
 横乗りのナナが続ける。
「怖かった……息ができなくて……目をつぶったの……それで……」
 ペダルを漕ぎながら振り返る。ナナの滴がアスファルトに点々と伸びている。
「お父さんに頬を叩かれたときのような痛みが、全身に、走って……息ができないくらい……うずくまって……目を開けたら、私は泡に包まれてた……真っ暗で……他に、何も、なかったの……」
 左の大通りをタクシーが疎らに通り過ぎる。
「不思議だった……自分が、どこからきたのか分からなくて……上なのか、下なのか、それとも……そういうことが全部、分からなかった……」
 巨大な交差点。右手に小さく二人の人影。手を振っている。遥か後方に過ぎ去った。
「でも私は知っていたの……何もしないでただじっとしていれば、この自由で恐ろしいところから戻れる、って」
 頭上を通過する巨大な立体交差。空は暗黒だ。
「だから、その真っ暗な世界で、私は体を動かさないでじっとしていたの……見えない力に押し潰されそうになりながら、ただじっとしていた……苦しかった……」
 小さな信号に停止した。右からパトカーが現れた。減速し、俺の行く手を塞ぎ、停止した。暗闇に赤い光が回転する。ドアから現れた二人の人影。
「少し、寒い……」
 近付く人影。ナナの頭を抱き寄せた。濡れた髪が頬に冷たい。人影が声を発した。馴れ馴れしい、見え透いた、ありきたりな口調。
「こんなとこで、何やってんのぉ?」
 ……ぶち壊しだ。
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