Original Contents: © LOGOS for web (http://www.logos-web.net/)



ヴィーナスの左手

2002年 木戸隆行
 朝からというもの、僕の思考は目の前にある一杯のコーヒーの周りをぐるぐると回り続けている。コーヒーはデスクライトの光をじかに浴びていて、その表面はカミソリの刃のように鋭い。時間は深夜2時。僕はこのコーヒーの周りを何周しただろう?カップの口を計ってみると、直径が7センチだった。つまり一周7×π=約22センチメートルということになる。見るかぎり僕の思考はトコトコと一周するのに約1.5秒かかっているので、一分間に90周、一時間で5,400周することになる。覚えているかぎりでは僕は遅くとも朝10時からこうしていたので、少なく見積もってもまる16時間、つまり5,400×16=86,400周していて、それを距離になおすと約19キロメートル走ったことになる。何ということだ……僕の思考は16時間かけた今でもアテネや天安門の前を走るフルマラソンのランナーのふくらはぎそのものだった。
 16時間のあいだ僕が考えていたことといえば簡単だ。自分の爪の伸びていることから世界の平和まで、つまり心地のよい音楽と夜空の秘め事めいた顔色、それから、すれ違うエロスの世界のことだ。そのあいだ胸の奥底にある最も感じやすいヒダヒダがキュッと縮み上がったりまるで無関心だったりした。
 空から雪が降りかけている。雪は空の告白だ。告白は街の肌を白けさせ、すべてを散財する快感と、その後の慎ましい、驚くべき精度で繰り返される毎日を与える。
 ああ雪よ、決して降らないでくれ。意地悪くあげつらうピカピカのニセモノレンガや、ひねこびてへつらうヒビ割れた外壁で僕の額をいっぱいに飾り立ててくれ。そしてそのなかの、朽ち果てた植え込みの土のなかから一輪の色褪せたオレンジ色の、プラスティックのミロのヴィーナスの左手が覗いている。