ストッキング
2000年 木戸隆行著
「SPEAK CD MAG 2000」収録 CGムービー原作
「SPEAK CD MAG 2000」収録 CGムービー原作
裸にストッキング姿でじゃれていたリーリーとナオが、遊び疲れて俺にアイスコーヒーをいれろと言った。床で絡まり合っている二人の体に、じっとりと汗がにじんでいる。俺はマルセル・ベアリュの『金魚鉢』を読みかけたままアームチェアーを立ち、キッチンの冷蔵庫から紙パックのアイスコーヒーを注いで差し出すと、二人は床から手を伸ばして受け取りながら、今日二人で泊まってあげようか、と言った。二人の唇があいまいに、エロティックに笑った。俺はアームチェアーに戻って本を開いた。
『金魚鉢の中の、この魚とともに本を読むことはできない!』
「ところで、なんでお前らこんな昼間っから俺んちで遊んでんのよ?」
「だって暑くて寝てらんないのよ」ナオが床から背中を起こした。「まったく、なんて暑さよ」とリーリーがうつぶせのまま、俳人のようにつけ加えた。
『たえず、きらめき動く魚のかたを追いかけた私の視線』
「だからって俺んちに来ることないだろうよ?」
「なに言ってんの?だからこそ、来たんじゃない」
『……いらいらしきった私は、ある日、金魚鉢をぶちこわした』
「それともなに?冬はこたつのなかで、夏はエアコンの前で過ごせって言うの?」
『……復讐を確信した私は、その小さな動物をひろい集めた』
「むちゃくちゃな返し方だな」
「ああーっつい」
リーリーがうつぶせのまま体を伸ばし、扇風機の頭を自分に向けた。リーリーのジーン・セバーグ風の短い髪が風に広がる。きりっとした、少年のような、いやあどけないうぶ毛に縁取られた丸い額が風を受けとめる。俺の目の前に、ある懐かしい映像が思い浮かぶ──扇風機の前を陣取っている俺のそばで、イッセー尾形が演じる風の冴えないサラリーマンが本物の少年のようにはしゃいでいる。両手を前後に激しく振ったり、上下に体を揺すったり、奥からは、お母さん旅行に行ってくるからね、と聞こえる、俺は今度はどこに行くのと聞く、北欧に行くのよ、北欧四ヶ国九日間の旅、財布は台所にあるから、後はお父さんになんとかしてもらいなさい、俺は行ってらっしゃいという自分の声が風でゆらゆらするのを楽しむ。窓から畳に西日が差し込んでいる。セミの声にヒグラシの声が混じる。犬が思い出したように遠吠えをする。おねえちゃーん、帰ってきたのー?──しかし返事はない。
俺は本に目を戻した。『すると、その動物は私の手のなかで、最後に、あがくようにはね廻った』……
「なんでこんなに暑いんだ?」俺が怒った。
「あんたが騒ぐからこんなに暑くなったのよ」とナオがタバコに火をつけながら、リーリーを冷ややかになじった。するとリーリーはうつぶのまま顔を振り向け、「なに言ってんの?あんたこそこのくそ暑いのにタバコに火なんかつけてるからでしょう?」とナオの口からタバコを勢いよく引き抜いた。白い灰がナオの顔に舞った。
「なにすんのよ!」
ナオは逆上してリーリーに飛びかかった。腕をつかんで仰向けに転がし、その上から組みついた。リーリーの指からタバコが落ちる。リーリーはつかまれた両腕を利用して、赤紫色のストッキングの足で、ナオの腹部を押しやった。五歳の頃にやってもらった飛行機──つまり相手の足のうえに自分の腹を乗せ、俺自身が両手を広げた飛行機になる──を思い出した。
青い尾翼、ナオ633便がリーリー上空10,000mの高度を飛行中、飛行中、飛行中……
俺はしばらくそれを観察して、それから、密告者のように知らぬ素振りで読書を再開した。夏の読書はぜいたくだった。外でさんさんと降り注ぐ太陽を、俺はまったく意に介さないのだった。途中、二人が髪をひっぱり合っているのに紛れて扇風機を取り返した。それからまた、体の触れる部分にだけ縄の巻き付けてあるオークのアームチェアーでのけぞり、アンリ・ミショーの『簡素なこと』を読みだした。
『生まれてからこのかた、私の生涯に欠けていたのは、簡素なことだ』
君もか、と俺は思う。
『……例えば、今や私は、つねにベッド持参で外に出る。一人の女が気に入ると、私は彼女をひっとらえ、すぐに一緒に寝てしまう』
罵声と一緒に二人の脱ぎ捨ててあった服が舞う。だがそれは、外のセミの声と変わらないので気にならない。俺はさらに読み進む。
『……しかし、より気に入った別の女がそばを通り過ぎるなら、私は最初の女に言い訳をし、直ちに消え去ってもらう。
私を知っている人たちは、私がいま述べたようなことができる人間ではなく、私にそんな勇気があるわけがないと主張する。私もそう思う。しかし、そうしたことの原因は、私が一切を《私の気に入るように》しなかったことによるものだ。
今や、私はいつも素晴らしい午後を送っている。(朝は働いているのだ。)』
俺は目から鱗が落ちたとはこのことだと確信するようなある出来事が、自分の内部で起こったのを感じた。俺は恐らくキラキラした目をしていたに違いない、俺が見ていないのでケンカに飽きてしまっていた二人が、それを見るなり苛立って「もとはと言えばこの家が暑いのがいけないんでしょう?!」と断罪し、それが的外れなものだと分かると、慌てて「とにかく、どうにかしてよこの暑さ!」と倒置法で糾弾した。
「まあ二人とも、そこのソファーに座ってよ」
俺はそう言って二人をなだめて座らせると、すぐさま窓からソファーごと捨て去った。三つはゆっくりと回転しながら落ちて行った。目を上げると、正面に濃いオレンジ色の夕日があった。
その後、俺はちょっとしたティータイムを楽しみ、そのうち、夜とともに音楽が襲ってきたのでクラブを三軒ハシゴして、それから部屋に戻り、窓から丈夫な8号の釣り糸で落とした二人を一人ずつ釣り上げ、ミショーのように思う存分寝てしまった後、すぐにまた捨ててしまった。
それを数日繰り返した後、ここから先はまったくの想像だが、結局は二人とも釣り上げて仲直りをし、三人一緒に海へ花火を見に行くことになったのだ。途中のカフェで二人は窓辺のカウンターで夕日を浴びながら、初めて味わった釣り糸で釣られる感覚や魚類への共感を語らいつつ、それから三人で東海道線を乗り継いで四時間かけて到着した。そこでは漁夫たちが掻き集めた大量の魚が、きらめく青い光とともに港に荷揚げされる瞬間の、あの美しい花火が打ち上げられていた。一発、二発、三発。その時隅にいた、小さな女の子を肩に抱えた美しい女性はリーリーを抱いた母その人だったと聞いている。
※本文中の『』で括られた部分は、思潮社、窪田般彌訳『フランス現代詩29人集』から抜粋した。
『金魚鉢の中の、この魚とともに本を読むことはできない!』
「ところで、なんでお前らこんな昼間っから俺んちで遊んでんのよ?」
「だって暑くて寝てらんないのよ」ナオが床から背中を起こした。「まったく、なんて暑さよ」とリーリーがうつぶせのまま、俳人のようにつけ加えた。
『たえず、きらめき動く魚のかたを追いかけた私の視線』
「だからって俺んちに来ることないだろうよ?」
「なに言ってんの?だからこそ、来たんじゃない」
『……いらいらしきった私は、ある日、金魚鉢をぶちこわした』
「それともなに?冬はこたつのなかで、夏はエアコンの前で過ごせって言うの?」
『……復讐を確信した私は、その小さな動物をひろい集めた』
「むちゃくちゃな返し方だな」
「ああーっつい」
リーリーがうつぶせのまま体を伸ばし、扇風機の頭を自分に向けた。リーリーのジーン・セバーグ風の短い髪が風に広がる。きりっとした、少年のような、いやあどけないうぶ毛に縁取られた丸い額が風を受けとめる。俺の目の前に、ある懐かしい映像が思い浮かぶ──扇風機の前を陣取っている俺のそばで、イッセー尾形が演じる風の冴えないサラリーマンが本物の少年のようにはしゃいでいる。両手を前後に激しく振ったり、上下に体を揺すったり、奥からは、お母さん旅行に行ってくるからね、と聞こえる、俺は今度はどこに行くのと聞く、北欧に行くのよ、北欧四ヶ国九日間の旅、財布は台所にあるから、後はお父さんになんとかしてもらいなさい、俺は行ってらっしゃいという自分の声が風でゆらゆらするのを楽しむ。窓から畳に西日が差し込んでいる。セミの声にヒグラシの声が混じる。犬が思い出したように遠吠えをする。おねえちゃーん、帰ってきたのー?──しかし返事はない。
俺は本に目を戻した。『すると、その動物は私の手のなかで、最後に、あがくようにはね廻った』……
「なんでこんなに暑いんだ?」俺が怒った。
「あんたが騒ぐからこんなに暑くなったのよ」とナオがタバコに火をつけながら、リーリーを冷ややかになじった。するとリーリーはうつぶのまま顔を振り向け、「なに言ってんの?あんたこそこのくそ暑いのにタバコに火なんかつけてるからでしょう?」とナオの口からタバコを勢いよく引き抜いた。白い灰がナオの顔に舞った。
「なにすんのよ!」
ナオは逆上してリーリーに飛びかかった。腕をつかんで仰向けに転がし、その上から組みついた。リーリーの指からタバコが落ちる。リーリーはつかまれた両腕を利用して、赤紫色のストッキングの足で、ナオの腹部を押しやった。五歳の頃にやってもらった飛行機──つまり相手の足のうえに自分の腹を乗せ、俺自身が両手を広げた飛行機になる──を思い出した。
青い尾翼、ナオ633便がリーリー上空10,000mの高度を飛行中、飛行中、飛行中……
俺はしばらくそれを観察して、それから、密告者のように知らぬ素振りで読書を再開した。夏の読書はぜいたくだった。外でさんさんと降り注ぐ太陽を、俺はまったく意に介さないのだった。途中、二人が髪をひっぱり合っているのに紛れて扇風機を取り返した。それからまた、体の触れる部分にだけ縄の巻き付けてあるオークのアームチェアーでのけぞり、アンリ・ミショーの『簡素なこと』を読みだした。
『生まれてからこのかた、私の生涯に欠けていたのは、簡素なことだ』
君もか、と俺は思う。
『……例えば、今や私は、つねにベッド持参で外に出る。一人の女が気に入ると、私は彼女をひっとらえ、すぐに一緒に寝てしまう』
罵声と一緒に二人の脱ぎ捨ててあった服が舞う。だがそれは、外のセミの声と変わらないので気にならない。俺はさらに読み進む。
『……しかし、より気に入った別の女がそばを通り過ぎるなら、私は最初の女に言い訳をし、直ちに消え去ってもらう。
私を知っている人たちは、私がいま述べたようなことができる人間ではなく、私にそんな勇気があるわけがないと主張する。私もそう思う。しかし、そうしたことの原因は、私が一切を《私の気に入るように》しなかったことによるものだ。
今や、私はいつも素晴らしい午後を送っている。(朝は働いているのだ。)』
俺は目から鱗が落ちたとはこのことだと確信するようなある出来事が、自分の内部で起こったのを感じた。俺は恐らくキラキラした目をしていたに違いない、俺が見ていないのでケンカに飽きてしまっていた二人が、それを見るなり苛立って「もとはと言えばこの家が暑いのがいけないんでしょう?!」と断罪し、それが的外れなものだと分かると、慌てて「とにかく、どうにかしてよこの暑さ!」と倒置法で糾弾した。
「まあ二人とも、そこのソファーに座ってよ」
俺はそう言って二人をなだめて座らせると、すぐさま窓からソファーごと捨て去った。三つはゆっくりと回転しながら落ちて行った。目を上げると、正面に濃いオレンジ色の夕日があった。
その後、俺はちょっとしたティータイムを楽しみ、そのうち、夜とともに音楽が襲ってきたのでクラブを三軒ハシゴして、それから部屋に戻り、窓から丈夫な8号の釣り糸で落とした二人を一人ずつ釣り上げ、ミショーのように思う存分寝てしまった後、すぐにまた捨ててしまった。
それを数日繰り返した後、ここから先はまったくの想像だが、結局は二人とも釣り上げて仲直りをし、三人一緒に海へ花火を見に行くことになったのだ。途中のカフェで二人は窓辺のカウンターで夕日を浴びながら、初めて味わった釣り糸で釣られる感覚や魚類への共感を語らいつつ、それから三人で東海道線を乗り継いで四時間かけて到着した。そこでは漁夫たちが掻き集めた大量の魚が、きらめく青い光とともに港に荷揚げされる瞬間の、あの美しい花火が打ち上げられていた。一発、二発、三発。その時隅にいた、小さな女の子を肩に抱えた美しい女性はリーリーを抱いた母その人だったと聞いている。
※本文中の『』で括られた部分は、思潮社、窪田般彌訳『フランス現代詩29人集』から抜粋した。