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プジョーでペリエで

1999年 木戸隆行
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2000年4月号 掲載作品
 もうほんっっっと、やってらんない!

 この寒いのに、プジョーの屋根は開いている。住宅の密集する下り坂を、時速120キロで突っ走る。

 無知だの軽薄だの浅はかだの、要するに私が女だから!

 リコの首の青いスカーフが激しくはためく。リコの細い腕がステアーを切る。リコの黒いハイヒールが、アクセルを全開に踏みつける。

 だってそうでしょう?!あんなに私が走り回って作った企画よ?!マーケットも、アポも、スポンサーも、どこにも穴はなかったわ!あいつら、私が女だから、上に行かれちゃ困るのよ!だから裏で手回しして……

 ウィールが叫ぶ。赤信号を突っ切って、左右からクラクションが交差する。迫り来るレンガ塀、フェンス、ガードレール。リコの短いスカートは、腿の間のほんの先端だけがはためいている。

 だから男はだめなのよ!いつもはいがみ合ってるくせに、こういうときだけ仲間意識働かせて、になって、蹴落として、そうしないと一人の女にも対抗できないのよ、弱くて、ずるくて、からっぽだから!

「ああ」見上げると、空は色の薄い青だった。太陽は白くまぶしく、吹き抜ける風は冷たく乾いている。リコがアクセルから足を外した。

 ねえユウジ、男はみんな殺しちゃおう?このままじゃ、世界がだめになっちゃう。戦争も、破壊も、男がいると、なくならないのよ。だから、ね、そうしよう?男はあなただけでいいわ。あなたは権力に無関心だもの。ね、そうしよう?でないと、私が死ななくちゃいけない。私が死なないと……

「ああ」僕はひどく疲れていた。

 どうしてこんなことになってしまったのか?

 僕は最良の小説を書くために生きているはずだった。それがどうだ。僕は自分の編集担当者であるリコに、こうしてプジョーで連れ回されている。
 リコは僕の小説を認めた初めての編集者だった。嬉しかった。人に認められたということはもちろんだが、書くことが仕事になる、つまり、自分の目標を目指すことが、そのまま金銭に繋がる、それが嬉しかった。もう、生活費を稼ぐためだけの時間はいらない、自分のやりたいことだけをやればいい、そのはずだった。

 だが現実は違った。いや、少しずつ食い違って行った。

 リコは僕の部屋に何度も足を運ぶうち、仕事をする目とは違う目を見せ始めた。惚れた男を見る女の目だ。僕は自分を控えめな判断をする人間だと思うが、その僕にもはっきりそうだと思わせるほど、リコの目は露骨だった。
 リコはいい女だ。背は高く、スタイルもいい。顔は整っているし、声もセクシーだ。仕事も上手い。だが、その性格は受け入れられない。あまりにわがままな性格だ。
 わがままな女が好きな男は、おそらく星の数ほどいるだろう。だが、僕はだめだ。僕は小説が書きたくて生きている。僕が書きたいときにいなくなれない女は、だめなんだ。嫌な顔もせずに席を外すような、気分よく書かせてくれる女じゃないと、だめなんだ。
 だから僕はリコの告白を断った。たとえ仕事が切れたとしても、リコに毎日振り回されるよりは、はるかにましだ。
 リコは言った。「でも、私がユウジの小説を認めることに変わりはないわ。だから、もし嫌じゃなかったら、これからも私に担当させて欲しいの、いいでしょ?お願い」もちろん僕はうなずいた。
 僕の初めての連載が終わった日、リコはワインを両手に僕の部屋にやって来た。「お疲れさま」二人でグラスを合わせ、興奮気味に話し込み、ハイペースでワインを空けた。その後は、よくあるパターンだ。
 だが、リコはそれを楯に交際を迫ったりはしなかった。それどころか、目が覚めると、当たり前のように服を着て、仕事のときの目で「じゃ、GUSTANKの原稿、明後日に取りに来るから」と言って帰って行った。

 本当にいい女だ、そう思った。
 だが、いい女は、頭もいいらしかった。

 それからリコは仕事の目でやって来ては「エロスは実際に体験しないと上手く書けないのよ」と言ってまたがり、またあるときは「芸術家はモラルの中にじゃない、欲望と感覚の中にいるべきよ」と言ってペニスを擦った。
 そして僕はそれに応えた。負けた、とは言わない。自ら応えた。リコは間違いなくいい女だ、欲情しないほうがどうかしている。

 やがて、頭のいい女リコは、僕の承諾を得ずして、実質的な、彼女になった。

 デートをしたいときは、巧みに「これから会って欲しい人がいるの。一流の作家になりたいんなら、一流の人たちに会わないとだめよ」などと誘い、わずかな時間の会合を終えた後、長い時間を思い通りに連れ回した。僕が外出するときは必ず仕事の目で付き添い、他の女が寄りつかないようにした。しかも、やっかいなのは、時々本当に仕事の場合があるところだ。
 今日だってそうだ。

 あなたに関係する仕事がだめになったの、話があるからちょっと来て……と仕事の目で連れ出して、さんざんグチを聞かせたあげく……今日、ピル飲んでるから……と曖昧に予定を提案し、間髪入れずに……その前に買い物行ってもいいでしょ?……と確定させる。

「ああ」そして僕は抗わない。リコの巧みな誘導に抗うには、僕はあまりに疲れ過ぎている。これで、今日も一日が消えた。
 時々、自分はどうしてリコを受け入れないのか、と疑問に思うことがある。僕の仕事を取ってきてくれ、しかもいい女で、どうして拒絶する必要があるのかと思うことがある。
 あるいは、自分は、この曖昧な関係を楽しんでいるだけではないかと思うことがある。
 あるいは、自分は、今ものすごく幸せなところにいるのではないかと思うことがある。
 だが、その直後、書きたいときに書けない自分が意識され、また、リコは僕の小説を認めたのではなく、僕自身を認めたのではないかという猜疑心に囚われる。
 すると、リコがネチネチと粘つき、アメーバみたいにグチャグチャとした物体に見えてくる。弱くて、甘ったれで、しかもそれに目を背けつつ、強くて自立した女を装い、そうして、自分の不安を他人を取り込むことで埋め合わせる。
 拒絶される恐怖を消すために無意識に身につけた巧みな話術、拒絶された恐怖を消すために無意識に働く都合のいい忘却、記憶の置き換え、対抗拒絶……そのどれもが、リコの弱さと不遇とを物語り、哀れさと健気さを呼び寄せる。
 だが、そんなものは誰だって同じだ。僕だっておそらくそうだ。
 母子家庭に育ち、母は仕事のため、毎日朝から夜遅くまで家を空けた。それは仕方のないことだ。僕を育て、自らも生きて行かなくてはならないのだから。
 だが、僕は不安だった。夜毎、玄関に座って母を待ち侘びた。母の帰宅する時間が近づくにつれ、僕の頭の中で不安が膨脹していった。

 ……母はもう帰ってこないかもしれない。
 ……僕は一人ぼっちになるかもしれない。
 ……僕は母に捨てられて、一人ぼっちになるかもしれない。
 ……もしかしたら、僕はもう母に捨てられていて、一人ぼっちになっているかもしれない。

 ……だから僕は一人で生きて行けるようにならなければならなかった。いくら僕を捨てないように母と約束しても、いくら母に好かれるように努力しても、不安がなくなることはなかったから。
 だから僕は、人を始めから信じないことにした。人を好きにならないことにした。そうすれば、裏切られるかもしれないという不安がなくなるから。
 だから僕は、自分から離れて行くことのないものを愛することにした。
 だから僕は、自分の中身を愛することにした。
 でも、自分の中身は見えないから、文字を書いた。文字を書いて、自分が見えた。自分が見えて、それを愛した。
 愛するものが綺麗になるように、愛するものがもっと綺麗になるように、愛するものが最高に綺麗になるように……

 違う!本当は、みんなに愛してもらいたいんだ!

 最高の小説を書いて、みんなに褒められたいんだ!

 だから一番にならなくちゃいけない、そうすればもう捨てられない、そうすればもう不安にならなくていい、そうすればもう怖がらなくてもいい……
 リコはプジョーを道に停め、パンとペリエを買ってきた。太陽はやや傾いていて、雲は空ごと流れている。リコの指がキーを回し、僕はその手を握りしめる。
「どうしたの?またあれの量を間違えたの?」リコが僕の頭を膝に寝かせた。「待ってて、今、家に連れてってあげるから」リコの身体にエンジンが高鳴る。
 リコの足がアクセルを開ける。僕の上でステアが回る。リコの胸の膨らみが僕の顔の上にある。
「大丈夫?」
 リコの目が胸の谷間から僕を伺う。大丈夫だよ、ただ、疲れてるだけだから。リコの腕に囲まれた空がゆっくりと後ろに流れて行く。この暗さだ、きっと、地平線は赤らんでいる。僕はゆっくり目を閉じて、リコの柔らかさと温かさを感じるように努めた。
 すると、リコの心音が耳に聞こえた。リコの腿を流れる血流が、ジューッ、ジューッと耳殻を押した。リコは生きている。そして僕も生きている。この期待感……この絶望感……それらは交互にやってきて、僕をかき乱し、見えなくなる。
 そして僕は目を開く。
 リコの肘が折れ曲がり、ステアが右に回転する。リコの膝が浮き沈み、エンジン音が高低する。リコの鼻唄、ラジオの音楽、追い越されて行くエンジン音。やがてプジョーは速度を落とし、後ろに向かって入庫した。
「ユウジ、着いたよ?」
 リコの声が目にしみて、車庫の中、僕はわけもなく泣いていた。