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陽葬

2005年 Dorothy
ソラミミ第二号 掲載作品
   電話

 電話が鳴っている。
 店内は暗い。照度を落としたちゃちなシャンデリアが、狭苦しさを覆い隠す壁一面の鏡に映っている。
 電話がジリジリと鳴っている。
 身体を起こして凝った首を左右に倒す。酒を飲んでいていつの間にか眠ってしまったようだ。このバーには窓が無いので、時間が全く判らない。
 しつこくベルが鳴り響く。ふらふらと立ち上がりその音源を探す。カウンタの上に時代錯誤なダイヤル式の黒電話を見つけ、受話器を耳に当てた。

   女

「もしもしヨウ?さっきから携帯にかけてたんだけど出ないんだもん。まだ店にいたの?いつ帰って来るの?もう十時過ぎてるよ。あたし寝てないんだから」
 女が早口にまくしたてる。十時とは午前だろうか、午後だろうか。ここが飲み屋である事を考えれば、多分午前だろう。
 周囲を見回して時計を探すが暗くて良く判らない。電話の横に置かれた金魚鉢に目が留まった。
「もしもし聞いてる?もうお店閉めたんでしょう?早く帰って来てよ」
 金魚鉢には色とりどりのビー玉と一匹の金魚。金魚は動かない。眼を開けたまま水中でじっとしている。眠っているのだろうか。
「どうして何も云わないの?」
 こんなところで飼われると、金魚も夜行性になるんだろうか。魚は夢を見るのか。この小さな脳は、視覚情報をどう処理しているのだろうか。
「ちょっとヨウ!」
 高い声に思わず顔をしかめ、受話器を置いた。

   違和感

 喉の渇きを感じ、水を飲もうとカウンタの内側に回ると、そこに男が倒れていた。
 ヨウが倒れていた。
 狭いカウンタ内で、うつ伏せになっているヨウの横に立つ。顔は向こう側を向いて見えない。何だってこんなところで寝てるんだ。
「おい…」
 足で脇を小突いてみるが反応が無い。
「ヨウ…女から電話があったよ」
 今度は少し強めに蹴ってみるが、やはり何も反応しない。
 取り敢えず、さっき自分が眠っていたボックス席のソファに移してやろうと、ヨウを仰向けにさせる。暗い照明でも判るほど顔が白い。
 違和感を感じながら両脇に手を入れ上体を持ち上げると、何だかぐにゃりとしていた。
 そう云えばヨウは息をしていなかった。
 水中のような圧迫感を感じる。
 ヨウの寝息を確かめようと息を止めて待った。じっと待った。しかし聴こえるのは、だんだん大きくなるこめかみの脈と、酸素を欲しがる自分の心臓の鼓動だけだ。
 ヨウは息をしていない!
 苦しくなって急に空気を吸い込むと咳が出た。乾いた喉がひゅうひゅう鳴った。ヨウが息をしていない。やっとそれを正しく認識した脳は、リアルを失った。

   魚の夢

 移動による対流、カルキの風。
 それに伴い水面の光がゆらゆら揺れている。
 歪曲する外界。
 夢も現実も本能の前には同じ事。
 それにしてもこのカルキの匂いがひどい。
 ガラス玉達も沈黙する。
 鼻先がガラスの壁に当たった。
 向こう側から魚がじっとこちらを見ている。
 背骨が曲がった魚がじっとこちらを見ている。
「狭い場所で育ったから、体が大きくなれずに骨が曲がっちまったよ」
 そうか、痛くないのか?
「それは判らない。君は痛いのか?」
 こいつは何を云ってるんだ。
「俺達は生かされているに過ぎないんだよ」
 魚のくせに生意気な奴だ。
 大きな手が眼前に迫る。
 それを見ているだけ。

   真夜中の死

 片手でヨウの上半身を支えながら、彼の真っ白な頬を触ってみた。疲労を感じる弾力の無い肌。そして血の巡りの止まったひんやりと冷たい肌。
 彼の人格も機能も、既に失われてしまった。ヨウが失われてしまったのだ。
 もう一度彼の両脇に手を入れ持ち上げると、そのままカウンタから引きずり出した。肘に何かが当たり、床で何かが割れる音がした。
 店のひとつしかないドアまで引きずって行き、その重たいドアを何とか足で開けると、フロアは真っ暗で、光を無くしたさまざまな看板が空しく浮かび上がっていた。
 中央の吹き抜けから一階の床が見える。タイル張りの床の幾何学模様は笑っているようだった。上階を見上げると、どのフロアも真っ暗で、このビル全体が真夜中に取り残されているようだった。

   階段

 階段を上る。ヨウだったものを引きずって、後ろ向きに一段ずつ上っていく。一段上がる度、彼の首がかくんと揺れた。
 華奢に見えるヨウの身体はすぐに重くなった。腕は痺れて、やがて痛くなった。
 血の通う僕の腕。
 階段の角に擦れ、停滞した血が僅かに滲むヨウの手。
 喉を鳴らし酸素を求める僕の肺。
 もう拡がらないヨウの肺。
 踊り場を曲がりきった時、ヨウのスーツのポケットから携帯電話が滑り落ちた。拾うついでに、床に座り込む。
 ヨウの顔を覗き込むと、香水とは違う微かな甘い匂いがした。甘いような饐えたような、不思議な匂いがした。
 死臭だ。
 こみ上げる吐き気を踊り場の隅に吐き出す。殆ど水しか出てこなかった。おそらく酒と胃液だろう。
 涙が出た。暫く止まらなかった。
 少し落ち着いたところで、再びヨウを抱えて階段を上る。
 汗がヨウの頬に落ち、涙のように見えなくもなかった。ヨウが泣いていると思う自分が滑稽に思えて、ちょっと笑えた。

  太陽

 屋上に続くドアを開けると、強い風が汗を冷やした。
 ヨウを抱え屋上に出ると、急に疲労を感じて、重なるように仰向けに倒れた。身体中がだるくて腕と背中が痛い。ヨウの質量と重力の間で胃は悲鳴を上げていたが、それを黙殺し、目を細めて太陽を眺めた。
 真夜中のビルの上、太陽はまもなく一番高い場所に昇ろうとしていた。
 目を閉じると焼き付いた太陽の残像が、瞼の裏でちらちら揺れる。それは水中から見上げた水面の光にも似ていた。

   魚

 ヨウを残し、店に戻ると、金魚は先程と同じようにじっと眠っていた。
 一瞬強い衝動を感じ、金魚鉢を床に叩き落す。
 文字通り叩き起こされた金魚は、割れた硝子と水浸しの床の上でびちびちと跳ねた。
 苦しいのか。
 僕には判らない。
 今日一本目の煙草に火を点けて、ゆっくり吸い込むとくらくらした。
 あの衝動は何だったんだ。
 煙草を吸いながら考えたが、その内金魚が動かなくなったので、考える事を止めて煙草を消した。
 
  電話2

 ビルを出ると、そこは白昼の歓楽街で、消えたネオン達は大層間抜けだった。生ごみを荒らすカラスや、道端の吐瀉物。そう云ったものばかり目に付いた。
 ヨウの携帯の着信メロディが鳴り出した。ポケットから取り出し通話ボタンを押す。
「もしもしヨウ?いつ帰ってくんのよ」
 店に電話をかけてきた女だった。
「今帰るよ」
 僕はヨウに成った。
 見上げると、ビルに囲まれた狭い空を太陽が通り過ぎようとしているところだった。太陽に晒され、腐敗してゆく誰かを想った。