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金魚

1999年 marimos
「SPEAK Internet Division」掲載作品
 1

「私、金魚を食べたコトがあるかもネ。本当に食べたかどうかわかんないんだけどね、2年くらい前に朝起きてパパが飼っている小さな金魚鉢の中の、なんて言ったかな、コチョウランとかいう一匹の金魚を見て、すぐにトイレへ駆け込んでね、便座を上げてオェオェーって便器にしゃがみこんじゃったの。口の中いっぱいに死ぬ程生臭い味が広がってて、金魚を飲み込もうとするけど大きくてそんなコトできるわけないんだけど、無理矢理ごくんってして、喉の奥が少し広がる感覚と、金魚の尻尾がビチビチ舌の上でしてる気持ち悪いったらありゃしない生々しい感触が、吐いても吐いても、つばをこれでもかっていうほど便器に向かって吐いても吐いても消えなかった。もしかして金魚がでてくるかもって右手の中指を喉の奥に突っ込んで、またオエーってしたけど、最後は胃液さえ出なくなっちゃって、でも金魚の味と口の中で跳ねて苦しがってる感覚は、ますますリアルになっていって、気持ち悪さと吐いたのとで涙がポタポタあふれ出して、突っ込んだ中指を見たら唾液に少し血が混ざってピンク色のねばついた透明な液がからみついてて、これ金魚がもう消化されちゃってこんな液体に変わったわけって思った途端意識を失ったみたいで、起きたら病院のベットの上だったのね。ママがすごい心配そうな顔でベッドの右側に立っていて、何も言わずにただ手を握ってくれたの。その時はもう金魚の生臭い味は口の中に残っていなくて、『あっそうだ、金魚は一匹しか飼ってなかったんだ』って気付いて、私、バカだなぁって大笑いしちゃった。喉の奥と胃がちょっと痛かったけどホントに可笑しくて涙が出そうなくらい笑ったんだ。ママはずっと心配そうな顔のまま無言で突っ立ってた。あんなに大笑いってしばらくしてないなぁー。マユは最近、大笑いしちゃったコトなんてある?」
 彼女の、金魚を飲み込んでしまったかも知れないっていう話を、私はこれで17回聞いたことになる。今日は2回目だ。五時間ほど前、私がシャワーから出て化粧水をつけている時に話しはじめた。私は二日、ミカは丸三日眠っていない。十畳のこの私のワンルームにミカは一年ほど前に青山にあるクラブで知り合ってから度々訪れるようになって、そういう時はオチているか逆に恐ろしくハイな時のどちらかだ。


 2

 出会ってから彼女は、10キロくらい痩せたと思う。腰の辺りが異常に細くて、折れそうというか、もう、折れているんじゃないかと心配になって、腰が痛くないか聞いてみるが、「痛くたって、全然オーライでしょ!」なんて答えが返ってきて、私はすぐに違うことを考え始める。「昨日40錠も飲んだのに、なんだよ、このビタミン剤、ちっとも肌荒れなおんねーよ!」近所のラーメン屋に電話することがある。変えたシャンプーが、髪に合わくてイライラした時も、「サラサラつやつやになりますなんて、嘘つくんじゃないよ。パサパサぼさぼさになったよ、どーしてくれんの?」つい最近も電話した。文句がある時は全部そのラーメン屋に言う事に、ミカも私も賛成だ。いちいち、違う所に電話するのは、面倒だからだ。
 私達は、ガラスでできた小さな球体の中で生きている時がある。球体の底には、透明で砂のようなつぶつぶたちが敷き詰められていて、私とミカはその上に座っている。このガラスの球体は、プカプカどこに浮かんでいるのか、わからない。時々、丸い底から、青い炎がやって来てつぶつぶたちを更に透明な液体に変え、気化してできた白い煙は、渦を巻くように、丸い空間全体をぐるぐる旋回する。いつかミカと、透き通る液体は海で、白い煙は、コマ送りみたいに物凄いスピードで変化してゆく雲の流れで、こんな素敵な風景が創り出すきれいな空気を吸いまくっているから、私達ってこんなにかわいいんじゃない?ここって、プチアース!!なんて、バカなことを言って笑った。ミカと創ったこの世界は、ある部分は本物だから、私は、球体に存在しているけれど、ある部分はfakeだって知っている。けどミカが、このガラスの世界がrealだし、全てだって言ってる以上は、何か言う必要なんてない。


 3

 こんな小さなガラスの球体が地球だったら、どんなにいいだろう。私は、草の香りのする青い風、熱くて乾いた強い風、頬を突き刺すアイスピックみたいにとがった風、潮の匂いがする柔らかい風をいっぺんに感じる事ができたら、どれだけ幸せだろうと思う。この透明な世界で全てを一度でも感じられたら、私もミカもガラスの球体を突き破るに違いない。風を感じるまでは、絶対に、白い煙が風に変わるまでは絶対に、この球体を壊すわけにはいかない。そう、心に誓っている。けれど、明け方に重くなった瞼がゆっくり閉じられてゆく時、「白い煙とガラスの球体を消さない限り、風は手には入らないんだよ」声がどこからか届いて恐くてベッドから飛び起き、バルームの鏡に映る自分に(大丈夫よ、いつか必ず風に変わるから、信じて……)呪文のように繰り返し話しかける日が、日毎に増えている。封印したはずの扉から洩れてくる声なんて信用しちゃいけない。
 私は思い出したくない事全部、一年前の自分の誕生日に『封印』した。深く、深く、奥深くに嫌なモノを詰め込み、全エネルギーを集中しさせて、重い扉を閉じ、プラチナでできた鍵鍵穴に差し込んで、ガチャリという音を確認してから、鍵を闇の中に放り投げて、私は振り返らずにひたすら、走って走って、泣きながら走って、走り続けて苦しくて倒れ込みそうになった時、目覚めた。
 4/25 AM03:00
 つけっぱなしのテレビモニターの表示を見て誕生日だったことに気がついて、私は生まれ変わったんだから、お祝いをしなくてはいけないと思い、ミカに電話を入れ、「ガラスの球体に入ろうよ」そう告げた。
 すぐにブザーが鳴り、ミカが入って来た。珍しく、顔色がいい。「マユー!プレゼントだよー!!」コンビニのビニール袋からマユが取り出したのは、たくさんのガラスの破片だった。薄くブルーがかったかけら、厚く牛乳瓶の底のようなかけら、どれも、これもキラキラ輝いている。一緒に眺めているうちに、私達はまた、ガラスの球体の中にいた。
「ダイアより絶対綺麗だよ。ありがとう、ミカ」いつ振りだろう、嬉しいなんて感情……「お誕生日、おめでとうー!マユ!」涙でぼやける視界でも、ミカの右手から赤い血流れているのがはっきりわかった。私の為に、流した血。
「今度一緒にダイアモンドを見に行こう!」ミカは大きくうなずいて、「見に行こう、ダイアより、このカケラの方がきれいだって証明しようね!」ぐるぐる回り出した白い煙の中私達は誓い合った。
 真っ白な煙が晴れていった時、私は、自分のワンルームの部屋に戻っていた。何日眠っていないんだろう、頭が痛い。汗ばんだ手の平を広げると、人さし指の先から血が流れていた。また、声が届く……「ガラスの世界では、時間がわからなくなるだろう。1分が10時間、10時間が3日間に膨れ上がったりする。球体にはいると、何もかも忘れて、幸せな時間をすごせるが、長くい過ぎると、自分は救いようがないクズに思えて、球体なんかに入らなければと後悔する。球を恨んでも仕方がない。後悔の地獄から脱出する方法は、──眠り──以外にはない」
 いつだか、クラブで話しかけてきた男の声だと思い出した。男は話し方も、キレイな手も、私の好みだったから、明け方部屋から出て行った後、もう会うのはやめようと決めた。誰も好きになんてなりたくなかったからだ。封印した扉から、どうしてあの男の声だけ洩れてしまうんだろう。一度だけ留守番電話にメッセージが残っていた。「どんなに苦しくても、現実と向き合わなくてはいけない。拒否し続けるのは、本当に、危険だよ」私は、その男の声が大好きだった。誰かが呼んでいる……
「マユ、マユ、大丈夫?」激しく肩を揺さぶられて、私は随分長い回想をしていたんだと気付いた。ミカが目をまん丸にして、まだ私を揺さぶっている。彼女の瞳孔が、「これ以上は無理ですよー」と話しかけてきて、話し方がガードレール下のおでん屋のおやじにそっくりで、私はたまらず大声で笑い出した。
「マユ、ねぇ、マユ、どうしちゃったの?どうして笑ってるのよぅ……嫌だよ、怖いよ、しっかりしてよ、マユ一人にしないでよぅ……」泣きじゃくりながらミカは、同じ言葉を叫んでいる。「だってミカの瞳孔って、おでん屋のおやじと同じ喋り方するんだもん」ミカノドウコウハゲオヤジ笑い続けているうちに、胃がケイレンしてきて、吐き気に襲われた。ヒクヒクして、胃が痛い。ガラスの世界に行ったはずなのに、痛むなんて、有り得ない事なのに……
 吐き気がきた。口を必死に押さえて便器のフタを開け、座り込んで吐いた。オェッオェー唾液と酸っぱい胃液しか出てこない。中指を喉の奥に突っ込んでも、黄色い液体が便器のふちひへばりつくだけで、吐き気はますます強くなる。奥の奥まで中指を押し込んだ。便器のふちにかけようとした左手が、涙でかすみ、滑ってバランスを崩し、冷たいタイルの上に転がってしまった。吐かなくちゃいけない何かを吐かなくちゃいけない……私は便器につかまる。ウッウッうめく声が壁の反射で自分のものかもわからなくなってくる。何かが出た。右手を口の中からだすと、唾液に血が絡まりピンク色の液体がぬらぬら光っている。酸っぱい匂いに気が遠のいていった。
 背中にタイルの冷たさを感じて、瞼を開くと、ぼやけた視界の中に二本の細い足を見つけた。「マユ、金魚、食べちゃったの?」この女は狂っている。私は狂っていないし、狂いたくない、ガラスの世界に引きずり込んだこの女を消さなければ、球体を破壊しなければ、風は手に入らない、私には新しい風が必要なんだ。
「消えてよ、早く消えてよ、消えろ!」喉が熱い、「あんたはfakeだよ、私はガラスの世界なんていらない!私には、新しい風だけがrealなんだよ!」
 私はかすれた声で叫び、シャンプーボトルを投げつけた。半開きのドアには、もう、白い足はなかった。ひどく酸っぱい匂いが鼻をつき、目が覚めた。
 どれくらいの間眠っていたんだろう。起き上がろうと右肘をつくと、指がまだヌルヌルした液体でべとついていた。早くシャワーを浴びよう……蛇口をひねると、湯気と一緒に水の勢いが生み出す小さな空気の流れが、私の硬くなった身体を包み込んでくれた。温かい……身体の輪郭が溶けてゆく……風だ、新しい風が確かに吹いている。この狭いバスルームで、一つ目の新しい風を見つけた。溢れる涙はシャワーの雨に流されてゆく。「この風を生きている限り、記憶から消すことはないだろう。そして、違う風の吹く処へ行こう。一つの場所には一つの風しか吹かないのだから……」
 数日後、ガラスの破片が散りばめられた部屋を捨て、風の吹く世界を探しに、スーツケースに荷物をまとめた。バスルームの風とは違う風を感じることができたら、ハガキを送ろうと思う。『ミカ、あなたは、金魚を食べてはいない』ピルケースを開け、ガラスの小さなかけらを確認して、私は歩き出した。