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ツアーバス

2004年 木戸隆行
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2006年5月号 掲載作品
 そこにはいくつか注意書きがあって、なかでも特に目を引いたのは「あなたの知っていることをあなたが知らない、ということはない」という警告だった。僕はあまりにもその29文字を真に受けて考えたため、背中を通り過ぎるバス2台分の観光客から、すっかりこの言葉を隠してしまった。今になって思うことだが、このときの僕は少しおかしかったのかもしれない。見ず知らずの観光客の隊列に紛れ込み、得体の知れないツアーガイドの話を聞き、目と目が合ったばかりの夫婦と共に写真に収まった。くたびれたポロシャツを着た、小太りな夫婦だった。僕たちは一瞬にして旧知の友となって肩を組み、一瞬にして見知らぬ警戒すべき隣人となった。僕はあるいは彼らの高級感漂うサングラスにそそのかされたのかもしれない、いや、こう言っては失礼だが、彼らの褒めそやすべき何ものかがきっと僕に与えられ、しかるのちに葬られることを予感したのかもしれない。だが、あらゆる期待に満ちた予感がそうであるように、この予感もまた単に執拗に編み込まれた幼年期の柔らかい髪の言い換えにすぎなかったし、言い換えもまた、頑として開かない少年の小さな拳に握られた犯された禁則にすぎなかった。僕はその拳を、小さな白い拳を僕の手のひらにのせ、美しく鑑賞した。実に柔らかそうで、それでいて、頑な意志のこもったその果実を。そしてライチのようにその果皮をつるんと剥くと、冷え冷えとした瑞々しい果肉を奥歯の隅で味わうのだった。
 少年はこう告白した──僕じゃないよ、僕のなかの知らない何かが僕にこんなことをさせたんだ。
 僕は少年に即答した。「君のなかの知らない何かとは、まさしく君自身のことだよ」
 少年がひどく肩を落としたのは、あるいはこの果実が少しも分け与えられなかったためかもしれない。僕はその様子を見つめながら(ほんの少しは胸を痛めながら、だがしかし汚れ役を自らかって出ようという正義感を──あの人殺しの正義感をもって彼を冷徹に見つめながら)種を彼の足下に吐き出すと、そのまま彼を後にした。種は彼の足下で瞬時に芽吹き、ぐんぐん背を伸ばすと、青々と茂った大樹と化した。大樹には赤々と実ったライチの房がありあまる宝石のようにちりばめられ、それを観光客たちが写真に収め、ツアーガイドが慌てて解説した。
 僕はひどく不機嫌になって、表立って空騒ぎする良心たちを端からたしなめて行った。僕は良心も悪心も等しく嫌いなのだ。なぜならセクシーじゃないから。ケチで、使い捨てで、甘ったれだから。
 僕は思い立ったように振り返り、ライチの実をひとしきり収穫すると、大樹にガソリンをかけて火を放った。大樹は真っ赤な悲鳴をあげ、業火のなかで身もだえた。僕はおずおずとそれを見つめた。カメラの観光客たちは次々に遺憾の意を表明した。ツアーガイドはバスの運転手を連れてきて、連名で僕を非難した。

「なぜあなたはそんなことを──何の権利があってそんなことをするのか?」

 僕はこの大樹がセクシーでないことと、大樹の種を撒いたのが僕であることを厳格に主張した。ただ、セクシーでないものを燃やす理由については慎重に言明を避けた。もちろん彼らは僕のこの主張に同意しなかったが、彼らのうちの一人に収穫したライチの実を一粒与えると、途端にみんな口ごもった。
 少年は姿を消していた。僕は少年の代わりにライチを一粒口にした。