Original Contents: © LOGOS for web (http://www.logos-web.net/)



2004年 木戸隆行
 活気に満ちた朝市の横を子供バンドの隊列が過ぎて行く。道の両側には出店の軒が万国旗のように連なり、その間をぬう人々の息が道を白く霞ませている。玉のような野菜たちと赤い頬をした農夫たち。老父は繰り返す「新鮮でおいしい果物だよ!」と。反対側で少女は叫ぶ「買って、買って、買って!」と。僕はワニの群れに投げ出された肉塊のように、むせ込む人いきれにもまれながら、そこにいる誰もがするように、トマトを半キロ購入した。目の覚めるような赤い、しかし小振りな長細いトマトだった。体格のいい、帽子をかぶった出店の彼は、「おまけだよ」と片目を閉じて僕の手に何かを握らせると、すぐにその手で他の客のトマトをつめ始めた。
 手を開くと、3粒のマスカットの実が弾けていた。
 人の流れを脇道に逸れ、手のなかのマスカットの皮を丁寧にむくと、はちきれんばかりの果肉が白く透き通っていた。口に含むと甘酸っぱい豊かさが僕いっぱいに広がる。弾力のある繊維が僕の歯でやすやすとちぎれる。見上げると、空はほとんど明けかけていた。出店の裏をぬって朝市のはずれの小さな広場に出ると、金色の朝日が僕の目を射した。──そして葉を落とした木々のやせこけた枝の中に消えて行った。
 広場の真ん中では古着売りの青年たちが慌ただしく行き来している。冬のあいだは水のとまる噴水の円い縁に腰かけ、残りのマスカットを口に含むと、カーキ色のコートを着た少女が駆けて来てすぐそばにしゃがみ込んだ。少女の足下に小さなネズミが見えた。
 一瞬、辺りのすべての顔が振り向いた。
 出店のほう、人出でごった返す通りのほうからひときわ大きな声が聞こえる。声は繰り返し繰り返し同じ何かを叫んでいる。立ち上がって見やると、人込みの中から頭を出して、きょろきょろと辺りを見渡しながら、男が人の流れに逆らって歩いて来る。アラブの血を感じさせる大きな彼の悲痛な叫び。近づくにつれ、その声がエレーン!と呼んでいることが分かった。

「君がエレン?」そう聞くと、しゃがみ込んだ少女は僕を見上げた。

 僕は少女を肩に抱えると、男のほうへ歩き出した。男はそれに気付くと大きく手を振った。僕は手を振り返した。男はとても嬉しそうに笑った。たくましい髭が剃り終えてもなお頬を黒く見せている。男の黒い皮のジャケットが人込みの間からチラチラと見える。いつしか少女は男に手を伸ばしながら泣き出していた。僕のことが怖くなったのか、それとも自分が彼と離れていることにようやく気が付いたのか、とにかく彼女はまぶたを真っ赤に腫らせて涙をぼろぼろとこぼしていた。僕は足を速めた。そしてその直後──

 僕の中に埋め込まれたすべての痛手が美しさに変わる──こんな清々しいことがかつてあっただろうか?朝日に光輝くもやの中で結ばれる手と手──大きな温かい手と、小さな不安の手。互いに求め合い、しっかりと結ばれたその手はやがて、それぞれの体を取り巻き、さめやらぬ興奮の中でひときわ憎しみの原因としての愛と、それから生、僕というすべての営みを内包する巨大で曖昧な確固たる存在の、神とも言われたその存在の、小さな無数の一粒一粒を一手に担い、そしてまためくるめく憧憬の暗がりの中を力強く突き進む一本の列車として、あるいは巨大な吊り橋として、僕の頬をあからさまに撫でる情熱を帯びた風のように、空へ空へと昇って行った。