白い布
2002年 木戸隆行著
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2005年11月号 掲載作品
東京アンダーグラウンド誌「SPEAK」2005年11月号 掲載作品
角を曲がると少女が道に倒れていた。この暑さだ、倒れる者がいても不思議ではない。そう思って助けようとしたが、少女の着ているドレスの白とアスファルトの黒とのコントラストがあまりに美しいので、その場に立ち尽くしてしまった。ビルの谷間のありふれた道に、まるで白いドレスだけがふんわりと置かれているようなのだ。まるで、家族の出払ったリビングで初めて目にした、姉のウェディングドレスのように。
ドレスの表面で幾層ものフリルが微かに風にそよいでいる。
しばらくそれに見とれてしまってから、ふと我に返って助けようとすると、少女の頭が反対を向いた。おや、と思って近付くと、目は閉じられているものの、どうやら気を失っているふうではない。少女のそばにしゃがみ込んで「何してるの?」と問いかけると、少女は目を閉じたまま「地球を感じてるの」と答えた。見ると、頬が砂にまみれていた。
僕は少女の隣で同じようにうつ伏せで横たわると、頬を路面に下ろした。ザラザラとした砂粒の感触、それと、温かいアスファルトの路面。砂粒は大小様々で、大きなものは僅かに痛みを与える。なつかしい感触だ。小さいころ、転んでそのまま起きないことに決めた午後に味わった感触。仲良し3人で寝転んだ、深夜の公園で感じた感触。遠い未来などなかったし、些細な計画もいらなかった。ただ何秒後かの未来と、でたらめに抜き出された美しい過去だけ、それだけで良かった。あらゆる現実感と現実は、手の届かない距離で、まるで自分たちで作り出した悪い冗談のように渦巻いていた。
少女に頭を向けると、少女の両目は閉じられていた。微かにそよぐ黒髪。浅黒い肌の、まだ目鼻も曖昧なあどけない顔。「おじさん、兄弟いる?」と問いかける幼い口。
「いるよ」
「弟?」
「ううん、おねえちゃんがひとりだけだよ」
「ふうーん」
「君は?」──
少女は答えなかった。ちいさな鼻を指でかくと、向こうに顔を向けてしまった。砂埃にまみれた少女のおさげが僕の目の前に投げ出された。
今頃、誰がどう幸せに生きているだろう。また、どこで誰が笑っているだろう。いや笑わなくていい。僕のこの一瞬と同じように、差し出された二度とない一瞬を出し惜しみせずに過ごせる人々がいつか一瞬を分かち合えるような、そんな夢に満ちあふれた世界が束の間でもやって来て僕を驚かせてくれることを願うし、また、闇雲にあがき回って疲れ果てて寝てしまうのもいい。いつか少女が大人になって、見覚えのないこの知人に呼び止められ、手足をもぎ取られた記憶を懐かしく共有したり、またそうでなくとも、例えば無数に存在する同じ校庭を過ごした赤の他人のように、灰色の顔をした誰かとこの場所を共有するような、あるとも言えない共犯に結ばれて、数々の過去がそうであるように、完全に看過された自分自身を、さも大事そうにしまっておくのもいい。もしそれが希望なら、いつでも闇は夜を超えて静まり、慈しみの歌声の中で人々の胸は踊りだすのだ。
いつのまにか僕は眠ってしまっていた。少女が僕の頬をつついて「おじさん、あたしもうかえらなくちゃ」と起こしてくれた。
「んん、ありがとう」
目を開けると少女の横に、ターバンを頭に、一目でそれと分かる白いワンピースを着た妊婦が立っていた。腕には何か分からない白い布きれのいっぱいに詰められた紙袋を抱えていた。
「君のママ?」そう聞くと、少女はうなずいた。
妊婦は少女の手を取ると、僕に微笑んだ。ああ、そうか。あれはいつか見る兄弟の、恐らくは少女の弟のために使われるのだ。
「またあそぼうね」少女が言った。
「うん」と僕は答えた。
振り向きざま、駆けて来た少年が妊婦を掠めた。瞬間、妊婦の手にした紙袋が宙に舞った。僕たちは小さく「あっ」と言った。道いっぱいに投げ出された白い布は、まるで海に住むカレイが一斉に腹を上にして浮いているみたいだった。
ドレスの表面で幾層ものフリルが微かに風にそよいでいる。
しばらくそれに見とれてしまってから、ふと我に返って助けようとすると、少女の頭が反対を向いた。おや、と思って近付くと、目は閉じられているものの、どうやら気を失っているふうではない。少女のそばにしゃがみ込んで「何してるの?」と問いかけると、少女は目を閉じたまま「地球を感じてるの」と答えた。見ると、頬が砂にまみれていた。
僕は少女の隣で同じようにうつ伏せで横たわると、頬を路面に下ろした。ザラザラとした砂粒の感触、それと、温かいアスファルトの路面。砂粒は大小様々で、大きなものは僅かに痛みを与える。なつかしい感触だ。小さいころ、転んでそのまま起きないことに決めた午後に味わった感触。仲良し3人で寝転んだ、深夜の公園で感じた感触。遠い未来などなかったし、些細な計画もいらなかった。ただ何秒後かの未来と、でたらめに抜き出された美しい過去だけ、それだけで良かった。あらゆる現実感と現実は、手の届かない距離で、まるで自分たちで作り出した悪い冗談のように渦巻いていた。
少女に頭を向けると、少女の両目は閉じられていた。微かにそよぐ黒髪。浅黒い肌の、まだ目鼻も曖昧なあどけない顔。「おじさん、兄弟いる?」と問いかける幼い口。
「いるよ」
「弟?」
「ううん、おねえちゃんがひとりだけだよ」
「ふうーん」
「君は?」──
少女は答えなかった。ちいさな鼻を指でかくと、向こうに顔を向けてしまった。砂埃にまみれた少女のおさげが僕の目の前に投げ出された。
今頃、誰がどう幸せに生きているだろう。また、どこで誰が笑っているだろう。いや笑わなくていい。僕のこの一瞬と同じように、差し出された二度とない一瞬を出し惜しみせずに過ごせる人々がいつか一瞬を分かち合えるような、そんな夢に満ちあふれた世界が束の間でもやって来て僕を驚かせてくれることを願うし、また、闇雲にあがき回って疲れ果てて寝てしまうのもいい。いつか少女が大人になって、見覚えのないこの知人に呼び止められ、手足をもぎ取られた記憶を懐かしく共有したり、またそうでなくとも、例えば無数に存在する同じ校庭を過ごした赤の他人のように、灰色の顔をした誰かとこの場所を共有するような、あるとも言えない共犯に結ばれて、数々の過去がそうであるように、完全に看過された自分自身を、さも大事そうにしまっておくのもいい。もしそれが希望なら、いつでも闇は夜を超えて静まり、慈しみの歌声の中で人々の胸は踊りだすのだ。
いつのまにか僕は眠ってしまっていた。少女が僕の頬をつついて「おじさん、あたしもうかえらなくちゃ」と起こしてくれた。
「んん、ありがとう」
目を開けると少女の横に、ターバンを頭に、一目でそれと分かる白いワンピースを着た妊婦が立っていた。腕には何か分からない白い布きれのいっぱいに詰められた紙袋を抱えていた。
「君のママ?」そう聞くと、少女はうなずいた。
妊婦は少女の手を取ると、僕に微笑んだ。ああ、そうか。あれはいつか見る兄弟の、恐らくは少女の弟のために使われるのだ。
「またあそぼうね」少女が言った。
「うん」と僕は答えた。
振り向きざま、駆けて来た少年が妊婦を掠めた。瞬間、妊婦の手にした紙袋が宙に舞った。僕たちは小さく「あっ」と言った。道いっぱいに投げ出された白い布は、まるで海に住むカレイが一斉に腹を上にして浮いているみたいだった。