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僕はナチュリストなので

2003年 木戸隆行
 裸になるのが気狂いだったら、全ての人は生まれた瞬間から気狂いだ。だが全ての人が等しく気狂いなら、誰一人気狂いではない。つまり裸になるのは気狂いではない。

 世界にはその法則に従って動く者とそうではない者の二種類がいる。さらに法則に従う者のなかには、エロスを取りのぞく者と取りのぞかない者の二種類がいる。前者はいわゆるナチュリスト、後者をアルシ−ナチュリストという。女の場合はナチュリステだ。僕の頭のなかにだけ存在するシャック・テリタは表面上の自然というのは内面から来るのであり、内面から何かを取りのぞくようなナチュリストなどは内面の衣服を着ていることにほかならないのであるから、実は自然という観点から見れば、それは服を着て内面が自然である者と等しく滑稽である。逆に、服を着ずエロスも取りのぞかない者と服を着てエロスを取りのぞく者は退屈なほど整合するとしている。これが当てはまらないナチュリストは不能のナチュリストだけである。

 僕はナチュリストなので部屋で裸で夜風を浴びていた。本当は外で浴びたいところだが、捕まるのが恐いので(いや、いくらでも逃げ隠れできるはずなので、本当は周囲の目が恐いのだ──つまりナチュリストはタブーだと本当のところ僕自身感じているのだ)部屋を暗くして開け放した窓の外を眺めながら、原始的な感覚を楽しんでいた。僕の想像の周辺で象徴的な夜の草原がざわめく。人はなぜ裸でないのだろう?僕はなぜ裸でないのだろう?魅惑的な裸体を前に、僕は、人は理性的でいられないだろうか?幼児と老人がその隣に並んでいても?魅惑的な裸体が無数にひしめいていても?
 ただ、装飾のない世界がもたらすものは、つまらない同一性──僕という僕、あなたという他ならぬこの僕──だけだ。