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MICROMANCE

1998年 木戸隆行
 1

 私はいま、まっ赤なソファーで寝そべってる。革の感触がめちゃめちゃ気持ちいいの。気持ちいいから人差し指であいつの名前をなぞってみた。
「B・A・K・A」
 ついでだから裸足の指を握ったり開いたりしてみた。やっぱり気持ちいい。
 太陽の光がいっぱい差し込んでる。オレンジみたいな色した床が、少しまぶしいくらい。触ってみると、あったかい。カベもまっ白。
 春の予感がうれしくて、ちっちゃなパキラが踊りだしそう。私もうれしいから足をバタつかせる。
 私? 私はね、二十六才の、めちゃめちゃキレイでかわいい女の子。ぜんしんスリムで、手足は長くって、ハダはツヤツヤ。髪はくるくるスパイラル。
 名前? 私の名前は
「GUUTARA!」
「ちがーう!」
「なんだよ、違うって?」
 あいつがお風呂からさけんだ。顔だけ出して、私を呼んだ。
「まぁいいや。タオル取ってよ」
「やー」
「なんだよ、なに怒ってんだよ?」
「ちゃんとほんとの名前で呼んでくれたらとってあげる」
 あいつのくちびるが動く。
「G・U・U・T・A・R・A」
「ちがうでしょー!」
「違わねえよ、ほんとにぐうたらじゃん」
「ウツクシイYASUKOちゃん、でしょ?」
「それこそ違うだろ……」あいつは水の滴る髪をかきあげた。「分かったよ! ウ、ツ、ク、シ、イ、YA、SU、KO、ちゃ、んー、タオル取ってく、だ、さーい」
 私は青いローテーブルのうえのタバコに手をのばす。
「ごめんね、私、いそがしくてそれどころじゃないの。自分で、とってね」
「GUUTARA!」
 あいつは裸のまま飛び出した。
 薄っぺらだけど、筋肉質の体がキレイ。彫像みたい。長い髪から水をポタポタたらして、ちっちゃいお尻をふくらませたりへこませたりしてる……なんだかエロス。
 あいつはタオルを手にとって、振り向いてまたさけんだ。
「GUUTARA!」
 うるさいなあ。
 あいつの名前はBAKA。一緒に住んでるバカなオス。いっつもバカなこと言って、バカなことして、バカなことで悩んで、怒って、落ち込んで……とにかくバカなの。ほかに言いかたがないくらい。
 ……ウソ。ほんとはある。
「私のいちばん大切な人」
 窓からまっ青な空が見える。快晴。上空でのびる飛行機雲。となりの家の三角屋根。張り出した裸の枝。
 私はタバコをくわえる。
「シュッ」
 ライターからちっちゃな炎がのびる。青、黄色。炎がタバコの先にまとわりついて、消える。青空が、煙る。
 あー、冷たいお茶が飲みたーい。
 向こうに見える冷蔵庫。まっ白で、おっきくて、カドがまるくて、七十年代風の、とにかくかわいい冷蔵庫。中身も負けずに七十年代。氷を作ればシャーベットができるし、アイスだっていつも食べ頃。
 ときどき「ぶおおーん」ってだだをこねるけど、そういうときは私の出番。「どうしたの」って、やさしく頭をなでてあげると機嫌を少し直してくれる。あいつがすると逆効果。
「みにゃー」
 そうそう。もう一人私をねらってるオスがこの部屋には、いるの。
 彼の名前はAL(アル)。ライムみたいな緑色の目をした黒猫。長い尻尾をピンとのばしてゆっくりソファーのまえをウロウロしてる。緑のヒトミで見あげてる。
「お腹すいたのー?」
 起きあがって黄色いスリッパを履いた私の足に、ALが体をすり寄せる。あったかくて柔らかい、ALのお腹。
 パタパタと歩くスリッパの周りをぐるぐる回る。私の目をじっと見つめながら、ぐるぐるぐるぐる。
「みにゃー、みにゃー」
「いまあげるからー」
 冷蔵庫のブ厚いドアにミルクのビン。そのとなりには飲みかけの白ワインが立ってる。うえには卵、マーガリン、チーズ。棚にはハイネケン、ナットウ、昨日の残り。
 ミルクのビンをとり出した。やっぱりあんまり冷えてない。ビンの口から紙のフタをとろうとしたら、グチャッとつぶれてミルクがはねた。あー、小学校のころに使ってた針のついた栓抜きは、いったいどこに売ってるのー。
 指にはねたミルクをなめながら、ALの黄色いお皿に注いであげた。みるみる増えて、盛りあがる。揺れる揺れるまっ白なミルク。
 ALが四本の足を行儀よくたたんでピチャピチャなめる。まっ黒なヒゲに白いミルクの玉をいくつもくっつけて、しゃがんで眺める私を見あげて、首をかしげてまたなめる。
「ALー!」
 かわいいから抱きあげて顔をめちゃくちゃになでた。ALは目を閉じてされるままにしてる。
「どーしてそんなにかわいいのー?」
 ぎゅって抱きしめると、あいつの口笛が聞こえた。上半身裸のまま、肩にかけたバスタオルで髪を拭いてる。
「あー、いいお湯、で、し、た。ミルク、ミルク、冷たいミルク」
 そう言いながら、あいつが冷蔵庫をプシュッと開けた。すぐに、冷蔵庫のドアに隠れたあいつの深いため息が聞こえた。
「GUUTARA、いい加減、冷蔵庫買い替えようよー」
「ひどーい。こんなにかわいくて、こーんなにがんばってるのにー」
 あいつがドアからミルクを片手にあらわれた。
「それが、わが資本主義社会の定め、な、の、さ。あーあー弱肉強食の平和主義。我々は資本家の……」
 私はALの耳をふさいだ。
「AL、聞いちゃだめ! バカがうつっちゃう!」
 あいつはミルクを飲みながらソファーに深く腰かけた。大きなのどぼとけが上下する。髪から水がしたたって、肩のバスタオルに消えてった。
「ピンポーン」
 チャイムがなった。
「お、GUU、誰か来たよ?」
「なぁに? GUUって」
「ピンポーン」
「GUUTARAのGUU」
「略さないでよ」
「ピピピピピンポーン」
「はーい」
「ピンポン、ピンポン、ピピピンポン」
「はーい、はーい」
「ピピピピピピピピピピピピ……」
「うるさーい!」
 玄関のまっ黒なドアを開くと、お母さんが買い物袋を片手に提げてチャイムをならしてた。
「あら、いたの?」
「あんなにならしといて、いたの、はないでしょー?」
 赤いビロードのスカート。水色のハーフコート。黄色いスカーフ。あい変わらずハデなんだから。
「あの子、いるの?」
「あの子って?」
「あの子よ、ほら……なんだっけ……あ、そうそう、聡くんよ」
「ああ、BAKAのこと? いるよー」
「あら……どうしようかしら」
 お母さんの目が泳いだ。人差し指がモモのところでくるくる回った。お母さんが考え事をするときのクセ。
「お母さん、いいかげん、あいつと仲直りしてよ」
「私もね、そう思ってはいるのよ? だけどね……」
 そのときあいつが奥から上半身裸のまま出てきた。
「誰なん、GUU?」
 あいつはお母さんと目があうなり、音になりそうなくらいにギョッとした。お母さんの顔がこわばった。
「あ、い、いらっしゃい、ま、せ」
 お母さんはじっと黙ってる。
「あ、ああ、そうだ! 俺には、大事な用事が、あったんだ!」
 あいつは一人でうなずきながらひっ込んだ。背中がまるかった。
「やっぱり、あがらせてもらうわ」
 お母さんはそう言って手に持った荷物をおろした。買い物袋がガサガサなった。なかをのぞくとハッピーターンとルマンド、そのしたにケーキの箱が入ってる。
「わぁ、今日はどんなケーキ作ってきてくれたのー?」
 お母さんはかがんでパンプスを脱いでる。
「やっちゃんの好物の、グリーンアップルケーキよ」
「ねえ、開けてみていーい?」
「いいわよ。今日はね、この間よりもうまくできたのよ」
 箱を開けてみると、ちゃんとBAKAのぶんも入ってた。私とお母さんとあいつの三つとALのちっちゃい一つ。甘酸っぱい、いい香りがする。
「おいしそうー! 私、紅茶いれるねー」
 キッチンに歩いたら、あいつがトレーナーの首のところに頭をつっかえさせて、もがいてた。手伝ってあげると、まだ湿ったままのあいつの髪からいい匂いがした。
「ねえ、ほんとに行くの? BAKAのぶんのケーキもあるんだよー?」
「GUU、おばさん帰ったら携帯に電話してよ」
 あいつは小声でそう言うと、片目をつぶってキスをした。
「たのみごとにキス使うなんてひどいよー」
 気がつくと、すぐそばでお母さんが目をそらしてた。なんにもない白カベを見てた。
 あいつは「頼むよ」と顔をしかめて、コソコソ出て行った。お母さんは両手で買い物袋を提げながら「もういいかしら?」と言った。
 お母さんは首を横に振りながらコートを脱いで、ソファーに座ってまた振った。
「どうしてあんな男に引っかかっちゃったのかしらねぇ」
「お母さん、あんまりBAKAのことひどく言わないで。あいつもあいつなりにいっしょうけんめいなんだから」
「そうかもしれないけど……二十五にもなって、定職もなし……それに、年下……はぁぁぁー」
 お母さんはお腹の底からため息をついた。
 あいつと私の両親はケンカ中。二年前にも、私があいつと一緒に住むことでケンカしたけど、そのときはなんとか私が説得したの。でも、今度はちょっと長引きそう。
「みにゃー」
「あーら、ALちゃん、こんにちは」
 ケーキの匂いをかぎつけて、ALがキョロキョロしながら入ってきた。匂いのもとを見つけると、私のヒザに跳びのった。ローテーブルのうえのケーキに手をのばした。
「だーめ。いまALのも持ってきてあげるからー」
「ほらほらALちゃん、お母さんのところに来なさーい?」
 そう言ってお母さんはALを抱きあげた。私がキッチンからALのケーキを持って戻ってくると、お母さんはALにほおずりしてた。ALはもがいてた。
「ほーらALちゃん、あなたのケーキが来たわよー」
 ALはお母さんの胸から跳び出して、ケーキにかぶりついた。
「ALちゃん、大きくなったわねー」
 ALはムシャムシャケーキを食べ終えて、ミルクの残りをピチャピチャなめた。
「最近、太りぎみなの」
 お母さんはALをしばらく眺めると、思い出したように手で髪をとかしはじめた。私がタバコに火をつけると、お母さんは火災報知機みたいに素早く私に目を向けた。
「とうとう、タバコが癖になっちゃったわねえ」
 煙をはくと、窓までのびた。
「ごめんねー」
 私がタバコを吸うようになったのはここ数年。うちの家族はだれもタバコを吸わないし、私も二十才を過ぎるまで吸いたいと思ったことがなかったから、きっと一生吸うことはないんだろうなーって思ってた。カッコよくタバコを吸う女の人を見たこともなかったし。
「やめるのは今からでも遅くないのよ?」
「んー」
 お母さんがそれを知ったのは、去年の夏に私が実家に帰って一週間くらい滞在してたときのこと。それまでも別に隠してたわけじゃないけど、二十才をこえていまさらタバコをはじめましたって言うのもなんだし、家族はだれも吸わないからなんとなく目のまえでは吸いづらかったの。
 それで、その夏の滞在のとき、私はタバコを吸わないでガマンしてたんだけど、三日もしたら、もーガマンができなくなって、だれもいないスキに蚊取線香の皿を灰皿代わりにして吸ったの。
 まさかこの年になってこそこそタバコを吸うことになるとはーって思ったけど、そのときの感動って言ったら。
「あー、おいしいー。セミもないてるよー」って。
 そのとき、突然お母さんが部屋に入ってきて、私を見るなりギョッとして「やっちゃん……」って言ったの。
 私は「あー、怒られるー」って思ったんだけど「あ、でももうハタチこえてるし」とも思って、どんな顔していいかわからなかった。お母さんもどう言っていいかわからないみたいで、口を開こうとして、モモをくるくるして、なにも言わずにまた口を閉じた。
 しばらく続いた沈黙に耐えられなくなって、とにかく私が謝ろうと思ったら、お母さんが「家は肺ガンの家系なんだから」って言った。
 私が「そうだったかなあー」って考えてたら、お母さんはまた口を開こうとして閉じた。
「ところでやっちゃん、仕事はどうなったの?」
 タバコの灰をトントン落とす。
「まだ、失業中なの」
 お母さんはまた、ため息をついた。
「ピンポーン」
「はーい」
 タバコを灰皿において玄関のドアを開くと、友達のKIDOくんが立ってた。いつもの青白い顔をもっと青白くさせて、髪もヒゲものび放題。黒いオーバーコートに古着のジーパン、白いスニーカー。手にはやっぱり買い物袋を提げてる。
「あ、こんにちはー。SATOさん、いますか?」
「いまちょっと出かけてるー。あ、でもあがってー」
「あ、おじゃましまーす」
 KIDOくんはそう言って玄関に腰をおろした。買い物袋からハイネケンの缶と梅酒のパックが透けて見える。KIDOくんは大のアルコール好きで、いつもお酒持参でやってくる。
「きょうも顔色わるいねー」
 スニーカーを脱いでるKIDOくんの背中。
「ははは、ちょっと、辛いことあったんで」
「そうなのー?」
「ははは」
 ALが奥から歩いてきた。私はALを抱きあげて、KIDOくんの顔に近づけた。
「ALー、だぁれー、この人?」
 KIDOくんはウラ声で「ALくん、こんにちは」と言った。
「KIDOくんだよ、覚えてるー?」
「みゃー」
 ちゃんと覚えてるみたい。KIDOくんの毛玉のついた靴下が青いスリッパを履いて、歩いた。
「いまね、お母さんがきてるの」
 KIDOくんは足をとめた。
「あ……帰りましょう、か?」
「ううん、いいよ」
 お母さんとKIDOくんは初対面。部屋に入って紹介する。
「お母さん、友達のKIDOくん」
「あら、こんにちは」
 お母さんはソファーに座ったまま微笑んだ。KIDOくんは頭をかいた。
「こんにちはー、KIDOです、はは」
 そして、私とお母さんとKIDOくんの奇妙なお茶会がはじまった。
 KIDOくんは「はは」と笑いながらお母さんのとなりに座ると、ローテーブルに広げられたお菓子を見て目を見開いた。
「ああっ! 俺、ハッピーターン大好きなんです!」
 ALは私のヒザによじ登り、今度はハッピーターンに手をのばした。
「こら、AL! こーれーわあーKIDOくんのー!」
「ははは、いいんですよー」
「よかったわ、こんなに喜んでもらえて」
 お母さんは微笑んだ。KIDOくんは笑いながらハッピーターンをほおばった。ALはヒザのうえでもがいた。私はタバコをふかした。
「それで……やっちゃん、どうするつもりなの?」
「どうしようかなあ」
「何がです?」
 KIDOくんは次のハッピーターンの包みを手にしながら目をパチクリさせた。
「あれ? KIDOくんには言ってなかったー?」
「ええ……多分」
 私は灰皿にタバコの灰を落とした。オレンジ色の光がむき出しになった。
「あのね、私、このあいだデズールのバイト、やめたの。デズール、知ってる?」
「あ、はい。恵比寿にある飲み屋ですよね」
「そう。それでね、次のバイト先がまだ見つからなくって、いま、お母さんたちから仕送りしてもらってるの」
「仕送り?」
 お母さんは飲んでた紅茶を静かにローテーブルにおいた。
「そうなのよ……なに君だっけ……」
「KIDOです、ははは」
「そうそう、木戸君。あなたからもなにか言ってあげて?」
 KIDOくんはハッピーターンの包みをひっぱった。包みがKIDOくんの手のあいだでくるくる回って、ポロンと中身が転がり落ちた。KIDOくんはそれをつまみあげて食べると、こぼれたカスを指で集めた。
「YASUKOさんって、その前まで何やってたんでしたっけ?」
 お母さんがKIDOくんを見ながらケーキを口に入れた。私はタバコを吸った。
「そのまえはー、美容師の専門学校を出て、すぐに美容院で働いてたんだけど、その美容院がイジメとか客のうばいあいとかあるところで、なーんかめんどくさくなっちゃってすぐやめちゃったの。それからずうっとデズール」
「んー……デズールはどうしてやめちゃったんですか?」
 KIDOくんは集めたカスをパラパラ灰皿に払った。
「オーナーが変わっちゃったの。それでね、新しいオーナーって言うのが、もーめっちゃめちゃキビシイ人で、くるなり人のことを『なんだぁ、おまえのその接客の仕方わぁ!』って怒るから、あーもういいやー、って」
 お母さんが口を手で隠しながらもぐもぐ言った。
「やっちゃん、それはね、どこで働いたって、同じ、なのよ?」
「うーん……」
 お母さんは口のなかのものを飲み込んだ。
「ぅん。周りの人たちを見てみなさい。みんな嫌なことも我慢して一生懸命に働いているじゃない。あなただけよ、そんなにだらだらしているのは」
「こら! AL、ダーメ」
「ははは、いいんですよー」
「それにね……家には、いつまでもやっちゃんに仕送りできるようなお金は、ないのよ?」
 お母さんが紅茶を口にした。
「どうしようー?」
「どうしますか?」
 お母さんはカップをヒザのうえにおいた。
「だ、か、ら、お母さんたちは、もっとしっかりした人とお付き合いしなさい、って言っているのよ?」
 私は煙をはき出した。
「私が好きなのはBAKAなのにー?」
「SATOさんなのに、ですか?」
 KIDOくんはそう言うと、女の子みたいな手つきでお母さんと私のカップに紅茶をつぎたした。お母さんは「ありがとう」って微笑んだ。
 ALは私の手のなかでじっとハッピーターンをねらってる。お母さんはズズズッて音を立てて紅茶を飲んでる。KIDOくんは手持ちぶさたなのか、もじもじしてる。私はいいことを思いついた。
「ねえKIDOくん、社会主義国に逃げるってのはどうかなー!」
「いいですねー」
「なに言っているの。あなたみたいなぐうたらの面倒を見てくれる国なんてないわよ」
 KIDOくんがめちゃめちゃいきいきした顔で続ける。
「じゃあYASUKOさん、資源国に亡命ってのはどうですー?」
「いいねー」
「はぁー……なに君だっけ……あ、そうそう、木戸君まで、そんなこと言って……」
 ソファーのとなりで山積みになったレコード。いちばんうえはアレサのジャケット。私は短くなったタバコをもみ消した。灰皿から煙がのびて、ALはくしゃっと顔をしかめた。かわいいなー。
「聡くんがもっとしっかりしていればねぇ」
 お母さんはあいだをあけて三つため息をついた。
 あいつはいま、フリーター。でも、遊んでるわけじゃないの。ミュージシャン目指してがんばってる。
 ちっちゃいころからブラックミュージックが好きで、自分で作曲してライブをしたりレコード会社に持ち込んだりしてる。でも、まだまだ遠いみたい。
 お父さんとお母さんはそれが気に入らないみたいで、このあいだ、私とあいつで実家に行ったときにケンカになったの。
 はじめのうちは仲良く笑って話してたんだけど、そのうちお酒が入ったら、待ってたみたいに言いあいがはじまったの。
「見込みがあるとかないとか、そんなの問、題、外、でーす! 俺はただ、好きなことをずっとやってたいだけなん、でーす! 売れる売れないは二の次、でーす!」
「それじゃあ泰子はどうなるんだぁ! いいかぁ、女はなぁ、女の幸せはなぁ、どんな男と結婚するかにかかっているんだぁ! それを君は、大事な娘に君という奴わぁ!」
 お父さんは泣きながらBAKAの胸ぐらをつかんだ。BAKAは完全に酔っぱらって目がすわってた。
「お父さん! BAKA! ふたりとも飲みすぎー!」
「おじさあん、女が結婚相手に左右されるような社会作ったの、あんたたちでしょーう?」
 黙って見てたお母さんもそれを聞いたらガマンできなくなって、お父さんと一緒にあいつのそでをつかんだ。
「聡くん! あなたって人は、あなたって人は……うちのやっちゃんをどうしようって言うのぉ!」
「お母さんまでー!」
「愛、しまーす!」
 お母さんはつかんでた手をはなして顔を押さえると、オイオイ泣きはじめた。お父さんは指で目頭を押さえながらしゃくりあげて、玄関を指さしてさけんだ。
「出て行けぇ! いますぐぅ!」
 私は二人に「ごめんね」って謝って、あいつを連れて家を出た。
 帰りの電車で私はずうーんと沈んでた。あいつはへらへら笑ってた。電車をおりて、バスにのって、いつまでもヘラヘラ笑ってるあいつを見てたら、頭にきた。
 うちに帰るなり私に背中を向けてソファーに寝転んだあいつをけとばして「バーカ!」って言ってやった。でも、まだヘラヘラ笑ってる。
「なにがそんなにおかしいの!」って顔をのぞき込んだら、あいつは笑いながら涙をぼろぼろ流してた。
「ご、ごめんねー! そんなに痛かったのー?」
 あいつは首をぶんぶん横に振った。ヒザを抱えて小さく寝転びながら泣いて笑うあいつを見てたら、私も悲しくなってきた。
「BAKA、だいじょうぶだよ、だいじょうぶだよ、私がきっと守ってあげるから」
 あいつを赤ちゃんを抱くように、ぎゅっと抱きしめた。ALが背中で「みにゃー」ってないた。きっと「僕もついてるよー」って言ってた。
 KIDOくんがタバコの煙をはきだして、大きく目を見開いた。
「そうだ! YASUKOさん、こんなのどうでしょう!」
「どんなの?」
「どういうの?」
 KIDOくんは思いきり顔をニコッとさせた。
「小説を、書くんですよ」
「ショウ、セツ?」
「小、説?」
 お母さんはカップを両手で包みながら次の言葉を待った。KIDOくんは意気ヨウヨウと続ける。
「それなら、ほら、先輩もオーナーもいないし、いじめも客の奪い合いもないし、嫌な客に愛想遣わなくてもいいし、好きな時にできるし、好きなこと書けるし、何より、寝転びながらできますよー!」
「寝転びながら……ステキー!」
 お母さんはゆっくり目を閉じた。
「呆れて言う言葉もないわ」
「きめた! 私、小説家になる!」
「おめでとうございます!」
「お母さん、今日は帰るわね」
「ねえKIDOくん、まずなにしたらいいのかなー?」
「そうですねー。まず、紙とペンじゃめんどくさいからワープロを買って……」
「ALちゃん、バイバイ。また来るからね」
「ねえお母さん、ワープロ……あれ? いない」
 まっ赤なソファーが広い。その背中の窓から見えるまっ青な空。スズメの声。
「……いない、ですね」
 ALがいつのまにか私のヒザからいなくなってる。青いローテーブルのうえにはカスのついたハッピーターンの透明な包みが散乱してる。包みに囲まれたお母さんの使ってたお皿、唇の線がついたフォーク、少しだけ紅茶が残ったカップ。
 KIDOくんはローテーブルの光景を見て、ほおばっていたルマンドを気まずそうに飲み込んだ。
「あ、BAKAに電話しなくちゃ」
 立ちあがった。お風呂の入口近くにおいてある白いコードレス電話。受話器をあげたらALが私の足もとにやってきた。背中をなでてあげたら「にゃー」とないて向こうに走ってった。
「あ、YASUKOだけど……うん、帰っちゃったみたい……うんわかったー。じゃあねー」
「ピンポーン」
「はーい」
 パタパタ歩いて玄関のドアを開くと、あいつが息をきらして立ってた。
「やーべぇやーべぇ」
「はやーい」
「おう、今さ、そこ歩いてたらおばさんが出てきてさ、やーべぇやーべぇ」
 奥からKIDOくんがさけんだ。
「SATOさーん、おじゃましてまーす」
「お、その声は、いとしいをかなしいと読む、逃亡者KIDOくんだね?」
「まさにそのとおりでーす」
 あいつは片足をあげてスニーカーを脱いだ。
「おかえりー」
「た、ただいまー。ははは」
 ALが走ってきてBAKAを出迎えた。
「あのね、私ね」
「ああ」
 顔をあげたあいつ。
「小説家に、なったのー」
「へえー」
 あいつはスニーカーを放り出してALを抱きあげた。
「ねーKIDOくん」
「そうなんです。文豪、YASUKOさんが誕生したんです」
「文鳥、GUUかー。なーるほど。髪も鳥の巣みたいだしな」
 あいつはALを肩にのせて冷蔵庫を開いた。
「それでね、寝転びながらシゴトするのー」
 肩のうえで小さくなって、したを見おろしてるAL。
「……やっぱり、ぐうたらはぐうたらだな」
 あいつは冷蔵庫のドアをパタンと閉めた。グリーンアップルケーキを手にしてた。
 あいつがソファーに座りながらKIDOくんにケーキを差し出すと、KIDOくんは首を横に振ってハッピーターンの包みを指さした。あいつはまゆげを動かして、ケーキにフォークをつき刺した。
「で、なに書くの?」
「なにが?」
「いや、なにが、じゃなくてさ……小説家になるんだろ? なにか書くんだろ?」
 私は二人の顔を見回した。
「そう言えば、小説ってどんなの?」
 あいつはケーキを食べる手をとめて、KIDOくんと顔を見あわせた。
「そりゃあ……なぁ、KIDOくん?」
「ええ、そうですよねぇ……SATOさん」
「なんなの?」
 二人は背中をまるめて紅茶を口にした。
「……想像したり、考えたり、実際に起こったりしたことを言葉で表現した、も、の?」
「そんな、感じ、ですよね」
「なあに、それ?」
 あいつがソファーでのけぞった。
「んー……とにかくなんでもいいから言葉を書けば小説なんじゃないのー?」
 KIDOくんはカップをおいた。
「そんな、感じ、ですよね」
「なんでも、いいのー?」
「あー」
「日記みたいなのでも?」
「いいんじゃなーい?」
 あいつがタバコに火をつけた。
「でも、そんなのにお金を出して買う人がいるの?」
 あいつのはいた煙が遠くまでのびた。
「そりゃあ……ねぇ、KIDOくん?」
「ええ……あ、ほら、他人の日記って、盗み見したいじゃないですか」
 KIDOくんもタバコに火をつけた。
「そうかなあー」
「そうだよー。まあたとえそうじゃなくてもさ、おもしろい日記だったら買ってもいいと思うだろ?」
「……そうかなあー」
 ALがあくびをした。あいつは、なにかがのどに引っかかってるみたいな顔してタバコを持ってる。KIDOくんは、なにかがのどにつまってるみたいな顔をしてタバコを持ってる。
「……あの」
「なあに?」
 KIDOくんが灰を落とした。
「たぶん……小説とは何か、じゃなくて、YASUKOさんが何を書きたいのか、だと思うんですよ」
 あいつが身をのり出して灰を落とした。
「GUUは、なにを書きたいの?」
「うーん……ALにミルクあげたらめちゃめちゃかわいかった、とかー……」
 ALが目を閉じてまるくなった。
「こ、こまけーなあ」
「……あ、それとねー、ロマンス!」
 KIDOくんが顔をあげた。
「細かい事と、ロマンス……ミクロ的な事と、ロマンス……コンセプトはミクロマンス、ですね?」
「MICROMANCE、かー……いいねー。そうだ、タイトルもそれにしよう!」
 KIDOくんが笑った。
「スペシャルサンクスのところに『KIDO』って、入れてくださいね」
 あいつも顔をあげた。
「俺も!」
 ……それで書きはじめたのが、いまあなたが読んでるこの小説なの。どう? おもしろい? やっぱり、ダメ?
 あーあ、こうやって聞いても、あなたがどう思うのかちっとも聞こえてこないよ。私とあなたはおんなじ紙に向かっているのに、私とあなたは向きあわない。
 めちゃめちゃ悲しい。
 でも、いいの。もし、あなたにつまらないって言われても、私はこういうのしか書きたくないし、書けないの。
 みんなに「よかったよー」って言われたいけど、たぶん、ムリ。だってそれは、私が好きなものをみんなも好きだって言ってるのとおんなじだから。
 ……あ、でも、買ってね。
「で、いつから書き始めんの?」
 あいつはフォークにささったケーキのかけらを口にした。
「お金がたまったら」
「はぁ? モグモグ、なんで、金が、要るんだ?」
「だって、ワープロがないとー……」
「なーんで、モグモグ、だよ? 紙とペンで、モグモグ、いいじゃん」
「だってー……」
 あいつは口のケーキを紅茶で流し込んだ。
「だって、なんだよ?」
「だって、書き間違えたらめんどくさいし……寝転んでラクラク、じゃなきゃ……それにー……」
「それに、なんだよ?」
「……漢字、よくわからないし……」
 あいつは口を半開きにして、心の底からあきれた顔をした。
「それで文豪、ねぇ……まぁ、漢字なんて分からなくたっていいんじゃない? かえって読みやすかもしれないし……あー、そう言えばホワイト・デー、もうすぐだよなー」
「どうしてホワイト……だめー!」
 あいつは紅茶を口にした。
「いいよ。そんぐらいしてやるよ。GUUにこれ以上家の中でごろごろされてるよりぜんぜんマシだよ」
「ぜっっったいだめ! BAKAはこのあいだギター買ったばかりじゃない! お金なんてないはずー!」
「いーから」
「ダーメ!」
「いいっつってんだろぉ! っと失礼、し、ま、し、た」
 あいつはローテーブルに散乱してる包みを集めながら赤くなった。
「GUU……お、れ、わぁー、愛とー、仕事のためにわぁー、出し惜しみ、したく、ないんで、すー」
「……ありがとう」
 あいつは集めた包みをくしゃくしゃに握りしめて立ちあがると、お母さんが使ってたお皿とカップを持ってキッチンに歩いてった。ALはあいつの足にくっついてった。あいつの声が聞こえる。
「なんだAL? メシはまだだぞー?」
「みにゃー、みにゃー」
 まっ赤なソファーにはあいつのお尻の跡が小さく波うって残ってる。波の向こうに座るKIDOくんは、カップを両手で包んでぼんやりしてる。ソファーの後ろの窓からは、向かいのアパートがまぶしいくらいに金色に反射してる。
「もう、夕方なんだねー」
 KIDOくんは顔だけ窓に振り向いた。
「ほんと、ですね」
 あいつはALを脇に抱えてキッチンから戻ってくると、自分のカップをローテーブルに置いた。
「どれどれ?」
 あいつはALを私にまかせてソファーに片ヒザをついた。
 窓から差し込む金色の光が奥の冷蔵庫まで届いてる。部屋じゅうのカベが柔らかなクリーム色に染まってる。パキラは踊り疲れて眠ってる。床には二人の影がぼんやりとのびてる。
 KIDOくんは空を振り返ったままつぶやいた。
「あのー……俺、飲んでもいいですか?」
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