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行くな

1999年 木戸隆行
プロジェクト「LOVE CRAZY-vol.1-」掲載作品
「行くな」
 僕がそう言うと、ナミはスカーフを巻きながら笑った。
「なに言ってるの」
 身仕度をするナミの向こうで、窓が朝靄に煙っている。
「仕事に行くのよ?」
 そう言って、ナミは鏡でもう一度化粧をチェックした。僕はベッドで寝転びながらタバコを蒸かしていた。
「仕事に、行くな」
「ふふ……子供みたい」ナミは口紅を指でなぞると、バッグを持って僕のそばに来て座った。「かわいいリョウちゃん、ママはね、お仕事に行かなくちゃいけないの。だから、いい子でお留守番しててね?」
「どうして?どうして行かなくちゃいけないの?」
「どうして?……どうしてって……ママもリョウちゃんもご飯を食べなくちゃいけないでしょう?ご飯を食べるには、お仕事してお金をもらわなくちゃいけないの。だから、ママはお仕事に行かなくちゃいけないのよ」
「ウソだ」
「ウソ?」ナミは優しく驚いた顔をした。
「うん、ウソだ。ほんとはママ、僕よりも仕事が好きなんだ」
「そんなことないわよ?ママ、リョウちゃんのことが大好きだもの」
「だったらどうして仕事に行くの?どうして僕をおいて行っちゃうの?」
「どうしてって……困った子ね……」そう言うと、ナミは腕時計を見て立ち上がった。「いけない、もうこんな時間」
 そう言って、歩きだしたナミの手を、僕は寝たまま捕まえた。
「行くなよ」
「放して?遅刻しちゃう。リョウイチも、もう支度しないと遅れるわよ?」
「ナミが行かないなら、僕も行かない」
「バカね、そしたらどうやって食べてくのよ」
「食べ物なんて、いらない」
「もう……いいから、ほら、早く放して」
 そう言って、ナミは部屋を出て行った。僕は一人、部屋に残された。

 次の朝も、次の朝も、僕たちは同じことを繰り返した。あるときは父と一人娘で、またあるときは看守と脱獄犯で。そうしてそれを繰り返しているうち、始めは冗談だったものが、次第に妙な真実味を帯びてきた。僕は本気でナミを引き止め、本気で一人残される苦しみを感じだした。ナミもナミで、僕を置いて行くことに苦悩を覚え始めたようだった。

 そんなある朝のことだ。
 いつものようにナミを引き止めると、ナミは肩を落とし、バッグをおいて「わかったわ。仕事に行くのはやめるわ」と言ってスカーフを首から抜き出した。
 僕は真剣に嬉しかった。
 スカーフを抜いたナミはベッドの僕に覆い被さり、柔らかな唇を押し当てた。ナミは美しい女だった。かわいい女ではなく、きれいな女だった。ナミはその細い手で僕の顔を撫でながら、情熱的に口付けた。ナミの長いまつ毛が、目を閉じたまま、僕の目の前を何度も横切った。ナミの細い耳殻が現われたり消えたりした。そして性交した。

 次の日も、ナミは仕事に行かなかった。それは僕も同じだった。

 僕たちは一日中裸のまま、抱き合ったり寄り添ったりした。ベッドで一緒に横たわりながら、同じタバコを交互に吸ったり、一つの椅子に<だっこ>の状態で一緒に座り、同じ本を読んだりした。もちろん、食事も入浴も一緒だった。電話があんまり頻繁に鳴るので、二人で窓から投げ捨てた。その光景は悲しかった。青空の中を舞って行く電話機の本体から、コードレスの受話器が離れながら落ちて行ったのだ。それを見て僕たちは余計に強く抱きしめ合った。

 僕たちは以前よりも、いや、今までで一番愛し合っていると確信していた。だから僕たちはもっと愛し合えるはずだと思ったし、お互いにそれを強く望んでいた。だから朝早く起きがけに、またあるときは夜通しベッドの中で、どうすればもっと愛し合えるかを話し合ったりした。
 そこで二人が出した結論はこうだった。

 1)愛とは物理的な距離によって表される。であるから、二人の密着面積は一ミリ単位のレベルにおいて、それを広げたり保持したりしなければならない。
 2)愛とは精神的な交通、つまり相手を意識する時間の量によって表される。であるから、二人の交通時間量は一秒単位のレベルにおいて、それを増やしたり保持したりしなければならない。

 この二つから考え出したのが、二人の身体を向かい合わせたままロープか何かで縛り合わせ、そして眠っている時間は相手のことを意識できないのだから、極力眠ってはならない、ということだった。

 そしてそれは実行に移された。
 密着面積を広げるために脚を互い違いにする、つまり相手の脚の間に自分の片方の脚を入れる、あるいは相手の片方の脚を自分の脚の間に挟む、という方法を思い付いたのは賢かった。もちろん密着の厳密さを求めるために、二人が裸だったのは言うまでもない。ナミはさらに自分の髪を僕の髪と編み合わせるべきだと主張したが、それは僕の髪の短さに起因する技術的な不可能性から断念した。

 今や僕たちは名実ともに、完全に一体となっていた。

 排泄のときはバスルームに行き、立ったまま互いに互いの腿を濡らし合った。また、タバコを交互にではなく、同時に二人で吸う技術も体得した。それは唇をぴったりと重ね合わせ、横からタバコを差し込んで吸い込むというものだった。縛り合う前に大量に買い込んでおいた食料も、それを流動性のものを選んでおいたことによって、その方法を流用できた。
 ただ、性交できないのは残念だった。性交すると、その体勢の形式上、密着している面積が狭まってしまうのだった。これでは断念せざるを得なかった。仕方なく、互いに互いの性器を擦り合って我慢した。

 だが、問題が生じた。
 睡眠を極度に減らしてしまったため、しばしば相手のことが意識できなくなってしまったのだ。それだけならまだしも、ひどいときには、相手の顔が何か別の物体に変化し始めて、しまいには、得体の知れない、いや、実体のない渦巻きになってしまったのだ。これでは計画を変更せざるを得なかった。僕たちは睡眠時間を一時間半は確保することにした。

 一ヵ月が過ぎた。いや、正確にはどうだか分からない。恐らく、そのくらいの時間は経っていたはずだ。

 僕たちはすでに相手を意識するどころか、認識すらできなくなっていた。どこからが自分でどこからが相手か分からなくなっていた。それだけではない。僕たちは幻覚の海にいた。
 実体のないものや、あっても半透明の何やらわけの分からないものが、そこら中で泳いだり飛んだり跳ねたり、あるいはわけの分からない動きをしたりしていた。しかもそれは一定のものではなく、あるときには何かドアのような形で激しく開閉していたものが、突然その形のまま犬のように歩き回ったり、またあるときは犬であったものがぐにゃぐにゃした何の特性もない水の球みたいになり、そこから手足が伸びてきて人間になったり、とにかく分からなかった。あまりに長い無刺激の渦中で、感覚がついに暴れだしたのだ。
 僕はあまりにひどい恐怖を感じた。僕は僕をナミから分かたなければならないことを知った。半透明の森の中で、恐ろしく牙の長い虎に腕を噛み切られそうになりながら、もつれる指で二人を縛り合わせる紐を探り、何度も何度も失敗した末、ようやく離れることに成功した。

 幻覚は徐々に徐々に透明度を増して、消えた。

 ナミは目を半開きにしたまま、ぐったりとベッドに横たわっていた。やせ細った身体には、二人を縛り合わせていたロープの跡がアザになって何本も残っていた。二人の密着していた部分の皮膚が、赤くブヨブヨに膨れ上がっていた。それは僕も同じだった。
 僕はナミを抱き起こし、呼びかけたり頬を叩いたり冷たい水をかけたりして呼び戻した。ナミは驚いて、いや、喜んで涙を流し、僕に抱き着こうとして突然身体を翻して逃げ、だがまた振り返り、とにかく、どうしていいのか分からないようだった。それは当然のことだった。見ると、ベッドも床も、どこもかしこも、ゴミや糞尿や体液でひどい有様だった。これも当然のことかもしれなかった。ただ、壁の上の方にある窓だけは、夕日を浴びた金色のうろこ雲を見せていて、美しかった。

 数日後、僕とナミは再就職した。