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不安

2004年 木戸隆行
 今、僕が恐れている問いが一つある。
 それは「いったい君は何をしていたの?」という問いだ。
 ここには二つの不安が存在している。一つは「僕は何かをしなければいけない」という不安、もう一つは「いったい何をしたら僕は何かをしたと言えるのか」という不安だ。(不安というより強迫観念とか疑問とか言った方がより正確に見えるかもしれないが、実際、僕の中でこの二つは等しく「不安」なのだ)
 例えば、三ヶ月ぶりに会った友人に、あんなことをしてこんなことをしてそんなこともあってこんなことを考えていてあんな風になるつもりだ、などと近況を立て続けに話されると、自分はいったい何をしていたのか、という気持ちになる。実際は友人の方は三ヶ月かけてだらだらと行われ、つい最近の行動による興奮で若干の脚色を加えられた話であり、自分の方はた・ま・た・ま・この一週間の不調による若干の鬱で過去の活動的な三ヶ月間を思い出せなくなっているだけだったりするが、だからといって話の最中にそのことに思いを巡らせる余裕はない。
 ──僕はいったい何をしていたのか?
 例えば深夜の帰り道で二人の女に追いかけられたり、あるいは追いかけたり、実際には単にじっと見つめるだけだったり、安っぽい天使たちに心躍らされたり、だが彼女たちの実情は、単にお得な話とどうでもいい知人の話と若干の気取った話、それと、あってないような色目が大好きなだけだったり、それがまさに「自殺したくなるような世間に汚される」の「世間」そのものだったり、イヤイヤ発射されたスペースシャトルみたいに、過酷なタイムスケジュールに追われ、実際は見えないところで少々サボりつつ(そうでもなければやってられないって)、もし誰かが敢然と立ち向かってきたら「僕は何か致命的な過ちを犯しましたか?僕は人間ならえてして犯してしまうような、誤ってしまうことをあらかじめ織り込んである方がより自然であるような過ち──その過ちであるとは到底言いがたい何ものかを犯してしまいましたか?」と猛然と抗議するつもりだ。
 月が見える。風も出てきた。夏には心地の良いこの風が、時には人の命も奪う。人の命──それは、例えば「やむなく」行われる戦争が示すように、人の自由に劣る。人の命あってこその自由だが、自由のために命を捨てる。いや、これは分割することの方がおかしい。自由なき命は命とは言えない、とも言える(程度にもよる)。板垣死せども自由は死せずは名言足り得るが、自由は死せども板垣死せずは怒りをかうだろう(普通なのに)。天は人の上に人を作らずは合っていると思うが、むしろ天は人の斜め上に人を作った(動けば崩れる)。
 自分があまりにくだらないことばかり書くのでそろそろ突然やめてしまおうかと思ったが、よく読み返すと、僕の二つの不安が実は同じところから出てきた不安であることに気付いた。「僕は何かをしなければいけない」という不安、「いったい何をしたら僕は何かをしたと言えるのか」という不安、この二つが僕の中で等しく「不安」だったのは、つまり「僕は何かをしなければいけない」と思っているのに「何をするべきか分からない」ので不安であり、「いったい何をしたら僕は何かをしたと言えるのか」と思うのは「何をするべきか分からない」ので言えないという不安だったのだ。
「何をするべきか分からない」?
 分かってるはずだよねえ、もう「決めてある」し。